いつの時代にも、囲碁好きがいれば、囲碁嫌いの人もいる。
第二次世界大戦の敗戦により極東国際軍事裁判でA級戦犯として絞首刑となった第40代内閣総理大臣・東條英機は、囲碁嫌いとして知られた人物である。
東條秀樹
【東條の生涯】
明治17年(1884)陸軍中将東條英教の子として東京に生まれた東條は、陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業後、ドイツ大使館付武官、連隊長、旅団長などを歴任する。
昭和4年(1929)に永田鉄山らと「一夕会」を結成し、革新派の中心人物として活躍、陸軍の人事刷新と満蒙の支配を主張している。
「満州国」創設後の昭和10年(1935)には関東憲兵司令官として大陸へ渡り、後に関東軍参謀長へ就任して、日中戦争開戦により軍を指揮している。
昭和13年(1938)、第1次近衛内閣で陸軍大臣・板垣征四郎を補佐する陸軍次官を務めていた際、「日中戦争の解決のため、北方のソ連、南方の英米と二方面での戦争を決意し準備しなければならない」と演説。昭和15年(1940)第2次近衛内閣では陸軍大臣に就任し、松岡洋右外相と組んで日独伊三国同盟の締結に尽力している。
第3次近衛内閣でも陸相を務め、近衛首相が戦争回避のためアメリカによる中国からの日本軍撤退要求で妥協しようとしたことに強硬に反対。英米開戦を主張して内閣は総辞職に追い込まれている。
次の首相について、当初対米協調派で、軍部からも評価が高い皇族軍人の東久邇宮稔彦王を推す声が強く、東条自身も賛同していたが、木戸幸一内大臣は独断で東條を後継首班に推挙し昭和天皇の承認を取り付けてしまい、昭和16年(1941)10月18日に東條内閣が誕生する。東條は現役軍人のまま首相、内相、陸相を兼務し、陸軍大将へ昇格した。
なお木戸の真意には諸説あり、アメリカとの開戦を強行に主張する陸軍を抑えるため、天皇の意向を絶対視する東條を首相に任命し、戦争回避に転じさせようとしたとも言われている。天皇は木戸の上奏に対し「虎穴にいらずんば虎児を得ずだね」と答えたと伝えられレいる。
天皇から直接戦争回避に力を尽くすよう指示された東條は、和平の道を探り動き出したが、すでに事態を打開できる段階ではなく、12月8日、真珠湾攻撃にて太平洋戦争が開戦。日本は緒戦こそ連勝し快進撃を続けたが、戦域の拡大にともない次第に劣勢に陥っていった。
東條は、軍部が「戦時統帥権独立」を盾に重要情報の政府への報告を拒否したため、参謀総長を兼務し、行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣の三職を兼任して局面の打開を図ったが、戦局が好転することはなかった。
やがて、東條の独裁体制に反発する動きもあり、昭和19年(1944)7月18日に東條内閣は総辞職に追い込まれている。
【囲碁嫌い】
本因坊昭宇こと橋本宇太郎は、著書の中で東條について、碁が嫌いで、大阪の社交クラブ「清交社」などでも碁盤が出ていると必ず「しまっておけ」と碁盤を片づけさせていたと語っている。囲碁など仕事の邪魔だと考えていたのかもしれない。
ところが、碁の好きな憲兵司令官がいて、毎回そろそろ東條首相が見えそうだという頃になると、わざわざ碁盤を持ち出してきて、東條が片付けるよう指示するという光景が何回も繰り返されていた。単に東條の事が嫌いなだけだったのかもしれないが、それを見ていた橋本は、二人の間に何かあったのではないかと述べている。
そうした東條も、サイパン陥落間近になるとむしろ碁を奨励するようなことを言っていたという。
この頃は情勢の変化でいつ閣議を開くようになるかわからず、といっても当時は携帯電話など無いので急に人を集めるのは容易な事ではない。しかし、碁さえやっていればそこには常に何人かがいる。また、険悪な空気の中で碁だけが人の和を保つという効果に気が付いたからとも言われている。
【晩年】
東條は首相退任後も徹底抗戦を主張したが、昭和20年(1945)に誕生した鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言を受諾し、日本は連合国軍の占領下となる。
戦犯として逮捕は免れないと覚悟した東條は、拳銃自殺を図ったが失敗し、極東国際軍事裁判(東京裁判)にてA級戦犯とされ、昭和23年(1948)12月23日に絞首刑に処された。
東條秀樹の墓(雑司ヶ谷霊園 1種1号12側6番)
現在、東條の墓は雑司ヶ谷霊園にあるが、GHQは東條らA級戦犯が英雄視されるのを恐れ、遺体を遺族に返還することなく、密かに火葬し航空機によって太平洋に散骨したと言われている。したがって墓に遺骨は埋葬されていないようだ。

