平成4年5月、新しいデータセンター竣工後、私が新規に受注したお客様は、食品4社、広告1社、通信1社という6社でした。今では広告1社、通信1社は既に退去して他社のデータセンターに引っ越していました。勿論、引っ越したのは私が担当を外れたから後でした。
たまたま食品業界ばかり4社(飲料会社3社、冷凍食品会社1社)を受注したのですが、自分で意図したわけでもなくたまたまそういう事になっただけですが、後から考えると何か因縁めいて面白く思えました。

最初に飲料販売会社のコンピュータを、素人の技術者ばかりで苦労したものの、データセンターに何とか移転させたので、ノウハウが蓄積されました。以降は、新しいお客様候補の情報システム部員からの質問には何でも答えられるようになりました。
飲料販売会社はたまたまデータセンターを探している場面で出会ったので決定は早かったのですが、以後のお客様は平均で1年くらいはかかって受注をしました。1年というのは提案や質疑応答ばかりで、当時はパソコンではなくてワープロの終末期だったのですが全て自分でワープロを打ちました。一応名ばかりの技術者はいましたが、顔つきが貧相で無神経な田舎者に見える連中で、お客様の印象を悪くしたくないので連れていきませんでした。営業部長も同じで、顔が悪いばかりでなく仕事をしていないという目つきなので、会社としての評価を下げないために注文をもらうまでは同行はしてもらいませんでした。

2番目に注文をもらったお客様は冷凍食品会社でした。この会社は私が勤務していた会社から徒歩10分くらいでした。私の勤務していた会社の近くのバス停から6個くらい先のバス停でいけましたので、バスの時間をみてバスを待って乗ったり歩いたりして通いました。
訪問するお客様の場所が余りにも近いのも考え物で、お客様と真剣勝負をした後でほっと一息つきたい時や気分転換をはかるには非常に不向きでした。お客様に通う途中にデパートでもあればそこで品定めでもして時間をつぶして気が紛らわせますが、繁華街を外れていて古い昔の下町風情で気を紛らわすようなものは何も無いので、隅田川の流れを見るくらいしかできないのが少々つらいと思いました。
余り綺麗でも無いビルの一室に大きなコンピュータが設置されていて、情報システム部もその横にあったのですが、雑然として印象は余りよく無かったという風に覚えています。
この会社とは飲料販売会社同様に私とは相性もよく、酒なんぞ飲まなくても十分に楽しくつきあうことができた会社でした。どういう風にデータセンターを受注したのかは次節以降です。
思い込みの激しい部長が会社を退職してほっとした気分になりました。その男の会社の中の仕事の仕方も知っていて本性を見抜いていたことや、自分の身の程も知らずにあれこれと知ったかぶりをする人間性にあきれていて嫌悪感があったので、目の前からいなくなっただけですっきりとした気持ちになったのだろうと思いました。
私の勤務していた会社には、色々な種類の人間がうようよしていて、ある意味面白いとも感じている面もあるだけでなく、人間性に欠陥があったり、ごますり専門の人間が重用されていたりすると気分が悪くなることもありました。

この思い込みの激しい部長が会社辞してから10年以上も経過してから、私が定年間際になったころ新任の部長が年度計画のレビューを社外の人に依頼して行うということを始めました。
最初は興味津々でしたが、そのコンサルタントは以前営業マン教育の講師と称していた元外資計コンピュータの営業マンでした。この男は以前にも書いたとおり、会社の幹部に取り入って最初は営業のお手伝いみたいなことをして素人の経営幹部を取り込んで、会社の素人営業マンの教育を生業としていました。その後も、表舞台からは見えなくなりましたが、あの手この手で会社の中に入り込み細々と仕事を続けているようでした。相変わらずの営業マン教育かと思いきや、年度計画のレビューというので少々驚きました。
1年目は嫌々ながらの参加でしたが、2年目に驚いたのは、そのレビューの席にあの思い込みの激しい部長が現れたので2度びっくりしました。こんな男の話など聞く耳を持たないというので嫌な時間を過ごしました。
この男も会社を辞しても仕事がなく、営業力もないので、昔世話をしたこの元外資系コンピュータの営業マンが仕掛ける仕事のアルバイト役で現れたのでした。ビルの一室にある小さな部屋で体裁だけのレビューと称する会議は、私には何かきな臭いものを感じさせるばかりでした。

この時、新任部長の能力の程度も知れたので、以後は段々と疎遠になるのは当然のなり行きでした。自分の頭で考えられないのを他人に頼ることに疑問をもちました。しかし半期毎に何十万円という金が捨て金だというのは明白だと私には思えたのでした。
建前ばかりを言う風土の会社には、案外裏事情が多々あって不思議に思う事が多々あります。大抵誰かが画策していることを想像するのは当然ですが、そういう風に勘ぐられても仕方の無い事案とも思いました。
思い込みの激しい部長は、ソフトウエアのパッケージ販売の成功が自分の実力だと信じているらしく、その後も色々な事業に手を出しました。
一番の失敗作はパソコンでホスト計算機のソフトウエアを動かすというものでした。どこからこういう奇妙な話を持ってきたか不明でしたが、営業や技術の組織を作って本格に販売したので、結果として被害を被った会社が出ました。5年くらいは続けたと思いますが、他事業部のことなので最後はどういう後始末をしかたかは不明でしたが、多分その事業部内で後始末の費用処理をしたのだろうと思います。

最初にこの話が社内で紹介されたときに、真っ先に「これは詐欺話だ」と思ったのは私だけだと思います。そもそもホストコンピュータなるものが如何なるものかも知らないで、ソフトウエアがパソコンで動くなどとは常識あるコンピュータの営業マンであれば普通に否定される話だと思いました。しかし社内でも一番の実力者と思われていた部長の発案なので易々と承認されたのだろうと推測しましたが、それに加えて技術力も無い連中の集まりでは反論もできなかったという事情もあったのだろうと思います。
この話が世間に少し流布されると、私の担当していたお客様からも「是非とも検討したいね」といって検討のために製品説明依頼がありましたが、私は即座に「変なものに手を出してはいけません。私は推奨しません」と断りました。勿論その時にはお断りする理由を説明したのですが「安いからね」という未練たらしい言葉もお客様から出ました。
宣伝に乗せられて購入したお客様は当然ながらシステムがまともに動かないので、自然と事業が失敗に終わりました。しかしながら事業を失敗しても、その部長は意気軒昂だったので、普通の神経の人では無いと感じました。
社内ではサラリーマン根性の根の座った連中が役員をしているので、こういう失態は騒ぎを大きくせず内々に納めてしまいたいという気持ちがあって大問題にはならなかったと思いました。それに他人よりも自分が大事という普通の日本の会社なので、被害を受けた会社のことなどもうやむやになったのだろうと推測しました。

それから記憶に残るこの男の大失策は、飲料販売会社の親会社からPR用ビールの無償提供があった席で、この男が飲料販売会社の営業マンの前で「我が社のマーク入りビールを作りましょう」と言ったことでした。酒の勢いでの発言だったかも知れませんが、この言葉を聞いた私はドキッとして「多分これでお客様の信用は落ちる」と思いました。
飲料販売会社は真面目な会社なので軽率な発言には気をつけなければいけなのに、この男は何の考えも無く発言したのだろうと思いました。こうした事を重ねるうちに信用をなくして取引が少なくなるのは自然のなり行きだとも感じました。

この部長は社内で自分の力を誇示するために、事業で儲けた金を使って、社員を研修と称して海外旅行や国内旅行を企画する事がありました。国内の旅行では北海道に行きましたが、この時は他事業部もご相伴になれるというので私も行きました。北海道のリゾート施設で皆が飲んだり食ったりしている時には、私は趣味の写真撮影をした記憶があります。仕事の一環でそういう場所に行っても面白くも無く、短時間で移動するだけの出張の雰囲気だったので殆ど記憶に残りませんでした。

会社に大損害を与えた事や客先の信用を無くすことを堂々としてきたこの部長は、役員で退職するときも社員が大勢集まって謝恩会みたいなことをしていたので、社員の多数の勘違いがすごいものだなあと思って笑えてしまいました。
私の勤務していた会社は転職前の会社とは違って、均質化を求めない社風もあって勝手気ままというように思えることも多々ありました。そういう風土なので私のような一見おとなしそうに見える頑固者でも長く勤務することができたのだと思います。

私が子会社へ出向になってデータセンターの営業を担当するようになってから、別の事業部ではソフトウエアの販売をしていましたが、年々数倍も売り上げが上がるという鼻息の荒いものでした。そういう状況を冷静に見れない部長はどんどんと社員を増やしたので、20年も過ぎた今頃では使い物にならない高齢の社員がごろごろとするという事態に至っています。一時期の風であるというような事とか、そもそも社員がやるほど仕事かと判断する能力に欠けているように思えました。
そのソフトウエア販売を統括していた部長は売り上げが上がるのでやり放題でしたが、横で見ている私には将来が危ういと思えましたがその通りになりました。
親会社の新規事業部門でも同じ事があり、こちらはハードウエアの卸販売でしたが風の吹いているうちは勢いがありますが、世の中の動きが変わるとあっという間に転落していきました。潮の変わり目がわからなくて惰性で続けているのでそういう結果に陥ったのですが、子会社で手がけていたソフトウエア販売も全く同じでした。

私から見れば当時売り上げが毎年何倍になったと言って自慢をしていましたが、そのソフトウエア販売の販売元は倍以上の売り上げ増でした。そういう見方からすれば努力が足りないという評価になりますが、この営業部長は増えた増えたと強気でした。
理由は不明でしたが外資系のコンピュータ会社から続々と転職の社員を受け入れているのも違和感がありました。人を見る能力が無いので有名なコンピュータ会社名に惑わされていたのだろうと思いましたが、私がそういう人たちと接して感じたのも使い物にならないという印象でした。事業の勢いが亡くなると自然にそういう人たちはいなくなりました、外資系のコンピュータ営業マンというのはそういう嗅覚には優れていてさっさと次の職場を求めていなくなりました。
こういう仕事の仕方は、この営業部長が事業部長になり役員で退職した後もずっと続いて、当たりの商品があるうちは景気がいいのですが、浮かれているうちに落ち目になっていくという事を多々目にしました。

この営業部長に対しては事業部も違うので何の感情も持っていませんでしたが、一つだけ許せないことがありました。外資系のコンピュータ会社から営業マンを自分の判断で採用していて、その中に私が担当していたデータセンターの建築について、子会社の素人の社員にデータセンター建築をそそのかした張本人だったからでした。そういう口八丁の人間なので、売り上げがあがっていることで頭が一杯の部長には判断ができなかったのだろうと思いました。その男は事業が落ち目になるといの一番で退職していきました。
私の所属する事業部の2代目の事業部長は前章で記述した通りの変わり者で偏屈でした。実家は金持ちであるという風に聞いていましたが、余裕があるという態度ではなくせせこましい貧乏人のような印象を与える人でした。どうしてこういう人が事業部長になったのかは不明ですが、この会社にはこういう不思議な人が事業部長とか取締役とか社長になるので私にはその理由が全く理解できまず、よくある年功序列ということだろうと思いました。この事業部長が連れてきた技術部長が今回の主役です。

技術部長は背も高くてがっしりした体格の大きな男でしたが、唯一の欠点は白髪頭という事でした。事業部の前技術部長を異動させた後釜に座ったので、当然周りの者からは白い目で見られることをわかっているらしく、言葉遣いも丁寧で低姿勢でした。これは事業部長とは正反対の態度でした。自分がいるべき場所の理解がよくできていたという事だと思います。
会議とか事業部の飲み会で話をして身の上がわかりました、自分で不満を言いたかったのかも知れません。自宅はますおさん状態で、大きなみかん農家の娘を嫁にしたので、その実家に住んでいて極めて質素な生活をしています。その質素ぶりは「毎日の味噌汁に具がないことです」と笑って言っていましたが、実家では言えない不満を酒の場で鬱憤を晴らすように言っていました。
事業部長との二人三脚なので毎日事業部長が帰るまでは自分も帰らないというような律儀な毎日を送っていました。たまには二人で帰ることもあったので、金持ちの事業部長からおごってもらっていたのかなと思うときもありました。
仕事上ではこの技術部長と少し摩擦を起こすようなこともありましたが、私も相手も何とか妥協点を探ろうという行動に出たので大事にはなりませんでした。しかしながら、某客先に駐在しているシステム開発エンジニアの損益が悪いので、これは切られてしまいました。私もこれは仕方が無いかなと思った件がありました。
この部長も次の変わり者の事業部長が自分の子分を技術部長にした時には異動になって元の地方の所属に帰って行きました。それから10年後に突然社内のメールでこの男の訃報が流れたので驚きました。
私よりも一回り以上も若いのに亡くなったのは、社内の軋轢と実家の見えざる圧力に抗しがたく亡くなったのではないかと推測したのでした。

人に気に入られて出世するのはよいとしても、並の人より早くに人生を終わるというのは、本人も納得がいかないまま最後を迎えたのではないかと思ったのでした。私に言わせたら、もっとやりたい放題して勝手気ままに過ごした方が死ぬに際しては悔いが残らなかったのではないか、とかいろいろと考えさせられました。
私がデータセンターの営業を担当してから5・6年後にはこれから紹介する4社のコンピュータを預かるようになり、事業部長から部下をつけようと言われたことがありました。私一人では多忙すぎるので、それはそれで嬉しかったのですが、事業部長から注文がつきました。
異動の対象となった男はトレードマークとして鼻の下にチョビ髭を生やしていて、社内でも名前よりも「あの髭ね」と言われるような男でした。事業部長は「俺は髭男が嫌いでね、異動する前に髭を剃るように言ってくれんかね」と言われて呆然となりました。そんなことなら自分で「おい、異動する前に髭をそってこい」と電話ででも言えばすむと思えたからでした。
この異動させられる男も多分その事業部ではうさんくさいと思われていたのかも知れませんでした。大概異動と言えば何も問題無ければ普通には対象とならないので、何か上司には気に入らないことでもあったのだろうと思いました。

今時は顎髭とかが流行っているので違和感が小さく感じられますが、それでも私には髭の顔が何ともいえず好きにはなれません。西洋人は顔の彫りが深く毛も太いせいもあって、男は髭男の方が普通に女性にもてると聞いたことがありますが、日本人のようなのっぺらな平べったい顔に髭は似合わないというのが自説です。それに髭を生やすというのは何か劣等感でもあってはやしているのかとも思ってしまいます。
私は仕方なく事業部長に言いつけれた通りその男のフロアまで出向き「実は私も困っているんだ。事業部長から、あんたが異動する当日には髭を剃った顔で出てくるように言われているんです」と事情を説明するとともに、何とか実現させなければいけないかと思って「異動後は仕事もたくさんあって、将来は明るいよ。出世の階段を上がると思って髭を剃ってきてくれませんか」とも言って少しは持ち上げたのでした。
結果としては、異動した当日には髭を剃って現れて事業部長に挨拶をしていたので、事業部長はご満悦でした。私は当日まで気が気がなかったのですが、何せ髭を剃るというのは本人の意思なので、どうなることかと心配をして少しは神経をすり減らしました。
この男は普通の男で特色が無いと思っていたら、ボクシングのセコンドをしているというので、担当したお客様に売り出して好評でした。しかし仕事は普通のサラリーマンで上司の意向をうかがうような仕事ぶりだったので、私の受注した客先とは段々と疎遠になり売り上げも自然と落ちて行きました。客先の上司と調子よく自分の会社の上司とつきあっていればよいという風に考える社風そのものでした。

この事業部長も変わり者で社内では有名でした。異動する前にはフロアの全員が不安な日々を過ごしました。社内でも不評の噂があって、社内情報には全く疎い私でも不安になるほどでした。
事業部長が赴任すると一緒に技術部長も連れてきて、前任の技術部長を首にして何処かに異動させてしまいました。以後は、この事業部長と技術部長が事業部の運営を相談しながら決めていました。まるで個人商店のオーナーさんのような仕事ぶりでしたが、そういう流儀が許される会社もすごいなと思わされた数年間でした。
データセンターの営業を始めての初年度、飲料販売会社から注文をもらったのは12月で、翌月1月には正月休みで、1月の最初は年始の挨拶というので部内での新年の挨拶が終わってから一杯飲み出した時に、社長が現れて言訓示を垂れていました。社長職なのでサラリーマン根性の根が座った輩が自然に挨拶に行くのだろうと思っていましたが、この初代社長はなれないせいか各フロアを年始の挨拶で回っていました。そういう慣習はつい今年もあったので社風かもしれません。

私は当時は初めてのことだったので野次馬根性で聞いていましたが、その中でも「この事業部で問題なのはデータセンターです。どうもこの事業はのどに骨が引っかかったようで気持ちが悪い。早く骨をとってほしいね」ということでした。
まるで会社の事業に対する情熱とかはなくて、赤字だからやっかいだと言っているだけでした。毎日あくせくしている私らの営業の最前線で仕事をしている身にもなってみろと言いたくなるほど反発の気持ちが起きました。
元々そういう事業を決めて決済した人間が言う言葉とは思えませんでしたが、そういうことではなくて、その程度の人が社長になっていると思えばよく理解ができるのでした。

そういうひどいことを言われながらも、その場に言わせた人たちは拍手をするという異様な光景になったのでした。営業部長は元々やる気などはさらさら無くて、親会社のXX事業部の営業マンから飲み会に誘われのが楽しみだったらしいので、社長の一言に何も気にするようなことは無く、ひときわ大きな拍手をしていました。
その後もデータセンター事業は赤字が続いたので、営業部長は建物や設備の償却期間を延ばすことを画策して少しは一時期の赤字が少なくなるように見せるようにしていました。
私はそういうことには関わっていなかったので、営業部長とか物知り振りした技術者とが算段しているのを冷ややかに見ていました。自分の時だけは何とか見栄えよくと取り繕っているのは役人と同じ発想だと思った時でした。そのときの借金は今でも残っているらしく返済をしているようです。
飲料販売会社のコンピュータを預かるところから始まり、その親会社の一部のサーバーも預かるようになって一段落したころでした。平成8年くらいのことだったと思います。
データセンターは不便な場所柄もありなかなかお客様が集まらなかったのですが、阪神大震災があった後に情報システム部の意識も変わってデータセンターにコンピュータを預けるという意識が高まり、私の担当していたデータセンターも一部を除いてほぼ満床にすることができました。

丁度その頃、飲料販売会社の課長さんから「今度は大きな話がありそうです」というので飲料販売会社の情報システム部長を訪問してお話を伺いました。
「親会社は大阪に別の会社のデータセンターを借りているのですが、ビジネスは東京に偏っていることもあり、東西にデータセンターを借りるという構想が持ち上がっています」という説明でした。東西に分散してコンピュータを設置すれば万が一の震災でもビジネスが継続できるという意味もあったようです。
私は「それで、何処のデータセンターになるのでしょうか?競争になるのでしょうか?」と質問すると、情報システム部長はにこにこしながら私に向かって「お宅のデータセンターでいいのじゃないですか、うん」と言ったので驚きました。
何事にも厳しい会社だけに、再び何処かの会社と競争でもさせられると困ったことになると想像していたのですが、案外にすんなりと増床しますという回答に驚き、大変に嬉しく営業マンとして一番やりがいがあったと感じた時でした。
親会社とは別途色々な人と親しくさせて頂きましたが、この場合は飲料販売会社の情報システム部長さんが私の勤務していた会社のデータセンターを推してくれていたようでした。
この会社だけではありませんが、お客様と一緒に歩むという私の営業マンとしての姿勢が評価されたのだろうと思いました。そういう姿勢は会社の連中から見ると嫌な奴だと思われることだったかも知れません。私の勤務していた会社では並の評価しかされなかったので、会社に行っても面白くなく思うことも多々ありました。お客様を訪問して無駄話でもしていた方が余程楽しいと感じることもあったのは、多分そういうことが影響していたのだろうと思いました。

飲料販売会社の親会社は将来を見越してデータセンターの半フロアを全部借りるという事を聞いて再び驚かされたのでした。当面はサーバー1台しか設置しないのに、広々とした場所を借りたので、ケチな会社と思っていたのは自分の思い過ごしだったと思い知らされました。
契約前には、例の社長と姻戚関係のある取締役が見学に来られるというので緊張しました。一度以前に見学しているので、設備とか屋上からの眺めとかは省いてくださいという指示があり、データセンターのコンピュータを設置する予定の場所だけを見てもらいました。相変わらずの威圧感のある態度で見学していましたが特別にコメントも無く「大丈夫だな」と言って終わりでした。経営者として物を見ているのかなと感じさせられた時でした。
取締役がデータセンターから帰るときは前回同様、飲料販売会社の情報システム部長が同乗して帰りました。何事にもそつが無い「さわやか」な情報システム部長は、この取締役に引き立てられて親会社の常務まで昇進したのではないかと思いました。
飲料販売会社の情報システム部長が異動になってからは「さわやか」な新任部長があちこちの会議に顔を出して自分を売り込んでいました。情報システム部員は、前任の部長は自分たちの犠牲になって転勤させられたという気持ちがあったので、新任の部長にはやりにくいという気持ちから積極的に会議に出ていたものと思います。普通の会社では部長だからというので威張り腐るのがふつうだと思いますが、この部長にはそういう事がありませんでした。又、社風としても上意下達というのがしっくりこない時もあるように感じていました。

この会社とは毎月データセンターで会議あって、1ヶ月間の間に起きた障害とか、新しい業務の説明とかが行われていました。新任の部長も参加するというので最初は少し緊張しましたが、折角不便な場所まで来ていただいたので、会議の終了後は近くのうなぎ屋で一杯飲むようになりました。
この鰻屋は今ではどうなったかは分かりませんが、老舗の料亭風の座敷があって、ここでは普通に色々な酒のさかながが出て、最後に鰻の蒲焼きというのがコースになっていました。部屋から小さなの庭が見える場所の障子は下がガラス張りになっいて、薄暗い庭には猫が我々の食べているものをうらめしそうに見ているのが面白くて、何時もこの猫が現われるのを楽しみにするほどでした。そうではなくて、逆に猫が我々の会話をきいていると風に思うと夏目漱石の小説の世界になっいたいたのかもしれません。

会議に出席していた新任部長と課長と私の三人であれこれと世間話をして、私はウーロン茶ばかりでいい気分の二人の相手をしていました。
新任部長は元々神奈川の出なので自宅も神奈川にあると言っていましたので、東京への転勤は幸運だと言っていましたが、しばらくすると再び大阪に異動になってしまいました。子供はたまたまイチローと同じ年の息子がいたので何時も自宅では「イチローはこんなに稼ぐよ」とプレッシャーをかけていると言うのが口癖でした。会社の内部の情報とかを聞かせてもらえたので自分の動き方も自然と分かるので大変に助かったという面もありました。
酒の飲めない私が酒の銘柄や種類をあれこれいう事も無くお酒を楽しく飲んで頂き、最後には必ずタクシーを呼んでお送りしたので悪い気持ちではなかったと思います。
そういう関係がしばらくして続いたので、次の大きなビジネスの広がりにも自然とつながったのだろうと思いました。
ちなみに、会議に部長さんが来られなくて課長さんだけが出席するときは、鰻屋は帰宅の路線とも違うので辞めて下さいという要請を受けて、地下鉄の駅の近くの中華レストランが定番の場所になりました。それも毎回同じだと飽きるだろうと思って、データセンターの近くの飲み屋を探すと、地元の人しか来ないという風情の看板が小さく出た飲み屋を探し出して行きました。お客は近所の人ばかりらしい喧噪な場所でしたが、出てくる料理はそういう店にありがちな新鮮でおいしい物ばかりでした。
こういう関係が部長や課長と出来ている間は、条件は厳しい会社でしたが対面で相談にのってくれたので業績は順調にのばすことが出来ました。

酒飲みでないだけに、酒におぼれずお客様と接することができたことが良かったのだろうと思いました。
接待で酒を飲むと言えば、自分が酒飲みなのでお客様をだしにする営業マンが私の周りには大勢いましたので、そういう連中とは全く違う飲み方をしていたということだと理解していました。
親会社も新規事業の先行きの雲行きが怪しくなってきた頃には、新規事業をしている小さな子会社を整理し始めました。私の所属していたデータセンター営業グループにも、そういう会社に勤務していたという男が異動になって配属されました。背が高く顔の長い特徴のある顔をしていました。当然ながら、新しい職場での仕事の仕方が分からず、毎日一番廊下に近い席で、椅子にもたれて煙草の煙をたてて過ごしていました。データセンター営業グループでは、1社だけ既存ユーザーの営業を担当していました。1ヶ月に1回、請求書を客先に持参するのが仕事でした。
私は一日中外出しているので、殆どその男が何をしているのかは分かりませんでしたが、社外には殆ど行かないことは分かっていたので、不思議だなと思っていました。

その男が異動してきてから1年後くらいのことだったと思います。後日聞いた話では、電話が事務所にかかってきてパソコンを何十台か見積もって欲しいという依頼があったそうです。当然ながら、その暇な男は漸く仕事が来たとばかりに見積書をせっせっと作り持参したそうです。案外すんなりと注文書をもらえたのでご指定場所に納品したのだそうです。
実は、これからが事件だったのですが、請求書を出そうとすると相手の社長が韓国に行って不在と言われ、何時帰国するかと聞いても返事がなかったと言うことでした。ここから、営業部長と二人で客先の会社に行ったりするようになったのですが、当の社長は不在で事情不明という事態が続きました。何とか連絡をというので、しばらくして電話で連絡が取れて支払うという話になったということでしたが、最終的には金はもらえませんでした。見積書を提出してからかれこれ1年も経過していました。金額的には1千数百万円の代金だったのですが、営業部長は事業部内で内々に処理せざるを得ないことになりました。最後は営業部長が一人で紙ファイルを持って自身で始末を付けました。

この時には営業の中では、与信はどうだったのかとか、相手を何故信用したのかと色々の話がでました。しかし、そういう怪しい相手だというのを見抜くのは営業マンで、自信が無ければ営業部長に相談すべきところを、すんなりと話が通ったので油断したのだろうと思いました。又、相手もこういう人間ならばだましやすいと思ったのだろうと思いました。
普段から大勢の顧客に接していれば自然と人というものが見えてますが、毎日何もすることが無くてかかってきた電話に飛びつくようでは、やはりすきがあったのだと言われても仕方が無いと思いました。
この男もしばらくしてから「故郷の北海道に帰ります」と言って職場を去って行きました。