広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~ -2ページ目

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  88景 
 題名  王子瀧の川 
 改印  安政3年4月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政2年秋 

瀧の川

 百景で王子周辺を描いた絵は多く、18景「王子稲荷の社」19景「王子音無川堰せき世俗大瀧ト唱」49景「王子不動の滝」、118景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」とこの絵を含めて5つに及ぶ。 なぜ王子周辺が多いかというと理由は2つある。

 1つは、王子は江戸から1泊しないと観光ができため武士が少なく(在府の武士は外泊が許されないため)庶民の行楽地であること、
 もう1つは広重が過去に描いた構図をそのまま百景に流用するケースが多かったことがあげられ、今回はそのケースの1つである。下図は天保後期に描かれた滝の川である。さらに、天保後期のこの絵も、ももともとは江戸名所図会の構図そのものである。
東都名所佐野喜_王子滝の川(天保後期)
東都名所佐野喜_王子滝の川(天保後期)

 この絵に描かれたものを見てみよう。右側に滝があり、過去の絵には描かれていなかった。 形は不動の滝に似ているが、不動の滝はもっと下流に当たる。この滝は、安政年間に造られた名主の滝のようである。現在の岩屋弁天跡(さくら緑地)と名主の滝公園は500mくらい離れているので、当時としても1つの絵で収まる距離ではないのだが、広重が創作して描いたようだ。19景「王子音無川堰せき世俗大瀧ト唱」でも説明したが、広重は王子周辺を多く描いているのに、この時期王子に来た形跡がない。そのため、人づてに聞いた内容を絵にしたと考えられる。

 この滝から流れ出ている石神井川をここでは「瀧の川」と呼び、絵ではUの字にその流れを描いている。滝に打たれている人や、近くで休憩する人などがいて、絵は秋の分類がされているが、夏の避暑地を描いている。
 中央の洞窟の前に鳥居があるが、ここが岩屋弁天である。その岩場の上方に屋根だけ見えるのが金剛寺である。岩屋弁天の前の橋が松橋と呼ばれ、松で造った橋であったからだという。
 山々は幾つかの木が紅葉に染まっている。ここは金剛寺周辺は紅葉の名所でもあった。

 さて最後にいつものように、この絵の描かれた日を推測してみたいのだが、過去に描いた構図に、実際に名主の滝を見に行ったわけでもないのに想像して付け足した絵がいつ描かれたかを推測するのはもはや意味がない。名主の滝は、安政年間に王子村の名主「畑野孫八」が庭内造ったのだが、詳細な年号までは不明だ。広重がわざわざ過去の絵に付け足していることから、改印より前の安政3年4月より前には観光地として有名になっていたのだろう。以上から、改印より前の秋、すなわち安政2年秋に描かれたと想定される。


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江戸・町づくし稿〈別巻〉


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斎藤月岑日記6

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 景数  87景 
 題名  井の頭の池弁天の社 
 改印  安政3年4月 
 落款  廣重筆 
 描かれた日(推定)  嘉永3年ころ 


井の頭の池弁天の社


 名所江戸百景のシリーズの中では、最も離れた地のこの絵は、江戸時代初期の命綱とされた神田上水の水源に当たる井の頭池を描いている。

 江戸開府当初、今後の江戸の発展には水が不可欠と考えた家康は、豊富な水量がわき出る井の頭池に目を付け、大久保忠行に上水開削を命じた。完成したのは3代家光のころとされ、神田上水と名付けられた。神田上水は、116景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」、40景「せき口上水端はせを庵椿やま」48景「水道橋駿河台」を通って、江戸の江戸城内、神田、日本橋までの水源を供給していた。
 それまでの水源は、溜池、牛ヶ淵、千鳥ヶ淵などを利用していたことを考えると、上水が引かれたことで生活が便利になったことは間違えない。

 名所江戸百景が描かれた江戸の範囲は、広重がいままで描いてきた浮世絵から見ると、明らかに広範囲に及んでおり、その範囲をどのように決めてか長年不明だった。広重と浮世絵風景画によると、「嘉永改正府郷御江戸絵図」という当時の地図に全て収まることから、この地図を描く範囲としたことが近年の研究でわかってきた。

 この絵に描かれているものを見てみよう。手前の社が弁財天で、人々は橋を渡って参詣している。服装をみると晩秋の服装のようだ。
 その後ろにはふんだんな水量の井の頭池が描かれている。一説によると池には7つの涌き口があるという。そのなかを5羽の白鷺が優雅に飛んでいる。遠景の山々は日光連山であろう。
 
 最後にこの絵が描かれた日を推測してみよう。嘉永3年刊行の絵本江戸土産3篇に同様の構図の絵があり、これを参考にして描いたと推測できる。また江戸名所図会にも同様の絵があることから、広重としては嘉永3年ころにはすでに構図ができあがっていたと考えられる。

絵本江戸土産 井の頭の池弁財天社
絵本江戸土産 井の頭の池弁財天社


 
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広重 名所江戸百景


広重と浮世絵風景画

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 景数  86景 
 題名  四ツ谷内藤新宿 
 改印  安政4年11月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年10月 


四ツ谷内藤新宿


 馬のお尻を全面に描いた印象的な浮世絵で、広重得意の近像型構図の1つである。

 題名には四ツ谷、内藤新宿とあるが、実際描かれているのは内藤新宿の旅籠で、大木戸の外側にあたる。そのため四ツ谷は実質描かれてない。
 絵の右側は馬の尻で、馬が草鞋を履いているのが特徴的である。

 「馬の尻」については、内田実の「広重」に逸話が一つのっているので紹介する。

△馬の尻
  これも、「江戸から東京へ」の「紺青の廣重」と題する一項にあつた。
 廣重が或る時、京橋鞘町の髪結床へ行つて自分の順番を待つてゐると、先番の若い衆達が口々に」廣重ッて奴は堪まらねエな.今度出た内藤新宿の馬の見なんざあ巧めえもんだぜ」と絵双紙屋へ最近に現はれた江戸百景の月旦をして居た。髪結床の亭主は目配せで以て其の所に居るのが廣重だと知らせても芸術評に夢中になつて居る若い衆の耳には一向入らない。余り褒め方が激しいので廣重も居堪らず「又来るよ」と云つて逃げるやうに床屋を出た。

 このように「広重」には内田実が広重と親しかった人などから取材し、生の声を幾つか集めて載せており、このような逸話から広重の人格が伺えるのである。この絵は、好意的に評価されているように思う。
 髪結に広重がいるとあるが、このときすでに剃髪している。しかし有名人である広重も、どのような風貌であるのか、一般町民は知らなかった。現在、広重の風貌が良く知れるようになったのは死後に、死に絵が幾つか出て、現在では3世豊国の死に絵が一般的に広重として世に伝わっている。

 名所江戸百景での広重の取り組みには、近像型構図の導入と、無名地域の取り上げの2ツがあると思う。この絵はその両方を持ち合わせている。今まで江戸名所図会で、大木戸、あるいはその内側が描かれることはあったが、大木戸の外側の旅籠を描くのはめずらしい。
 良くみると旅籠の名前が読めるところがあるので、入銀物であるかもしれない。手前から「すおくや」「市川」に見える。旅籠の造りは、土蔵造りではないが、当時はやりの黒塗りにしており、それなりにの高級感がある。
 
 安政地震の被害は、内藤新宿にはほとんどなかった。大木戸から近い内藤家下屋敷とその往来にについて以下のような記録がある。

内藤新宿内藤駿河守様御下屋敷新宿往還都而此辺格別之痛無御座侯

 さて最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、残念ながら確証となるものがない。人の服装が冬の服装であるので、改印近くで描いたものと推測できるため、安政4年10月ころの絵であろう。
 
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斎藤月岑日記6
京都造形芸術大学 紀要 縦絵の時代より
広重 (1978年)

復刻 日本地震史料 第四巻 嘉永元年より慶応三年まで 及び年表


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 景数  85景 
 題名  紀の国坂赤坂溜池遠景 
 改印  安政4年9月 
 落款  廣重畫 
 描かれた日(推定)  安政4年5月15日 


紀の国坂赤坂溜池遠景


 左側に堀、右側には大名行列を描き、堀の遠景に町屋を配置して奥行きを出している。百景の中では俯瞰でもなく近像型構図でもないが、登り坂を下り坂のように描いているちょっとめずらしい構図である。また広重が赤坂辺りを描くことも珍しい。

 大名行列や大奥の行列(例えば 9景「筋違内八ツ小路」とか)を遠景から描いたものは比較的多いが、この絵では大きく描いている。
 それでも本来は2列の行列の1列分しか描かないとか、先頭の槍持ちの槍の先端を描かないようにする(槍の形で大名が特定できてしまう)など描き方に配慮があるが、この行列は御三家紀州家の行列と特定できる。
 堀晃明氏「広重の大江戸名所百景散歩」によると、紀州公の行列と特定している。

 大名行列は1列しか描かれていないが2列の筈であり、先頭に2人の供が飾鞘を被せた長い槍を持ち、後方にも2人の供が長い槍を持って従っていた。このように4本もの槍を持つことを許されたのは徳川御三家のみ。場所から紀州家の上屋敷があることから、紀州公のものである。

 広重の浮世絵の中で武士の姿が、どの絵も気品あるように描かれているのは、彼が武士の出身であり、広重自身も最後まで武士の礼節を捨てなかったことによると、ヘンリースミス氏が指摘している。この絵の大名行列も服装、足並、顔つきなどで敬意を払っている描き方であることがわかる。

 その他に描かれてるものを見てみよう。左側の堀は弁慶堀、堀割工事を請負った弁慶小左衛門から名づけられた。その後ろの町屋は赤坂の町並みである。右側の行列の右には広大は紀州家の中屋敷があった。屋敷の火見櫓が見える。
 弁慶堀は、内堀の外桜田門から半蔵門までと、ここに描かれている外堀の食違門から赤坂門までの堀と2か所で同じ名前となっている。どちらも請負人が同じで同じ名前が付いたのであるが、当時混乱はなかったのだろうか?
 現在は内堀を桜田濠、この堀を弁慶堀と呼ばれている。

 弁慶堀の前に掲げられている高札は、宮尾しげを氏は堀での釣を禁じた「魚捕禁止の札」であろうと推測しているが、森川和夫氏の考察では、上水に対する注意書きと指摘している。上水は通常四ツ谷の大木戸から伏樋だが、この辺りで一部地表に表れていたとされる。そのため、釣り、水浴びを禁じた高札があった。

 その他、弁慶堀後ろに見える左側の森は、山王権現社の森、中央にある火の見櫓は溜池の横にあった定火消のもの、右の森は広島藩下屋敷の森である。
 この辺りの安政地震の被害であるが、山の手にあったため赤坂、紀州家上屋敷に大きな被害はなく、火災も起こらなかった。


 さて最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、改印近くの紀州公の登城を調べて候補を挙げてみた。続徳川実紀によると、紀州藩はこの年は国許へ帰る年で、出府は不明だが安政4年6月7日には、国許到着の御礼がされている。そのため、この絵はそれよりも前と想定される。
 その前は、4月27日(天気 雨)、5月10日(天気 曇りのち雨)に登城している。この年は5月が閏月であった。それ以外にも朔日と15日の総登城があるが、武士でごったがえすこの日だと堀端で絵を描くどころではなかっただろう。また4月27日は雨であることから、絵の内容に適さない。
 5月10日は、今まで通り来年5月まで引き続き火盗改メを勤めることを、御先手の坂井右近に申し渡している。それからほどなく閏5月を使って紀州に帰ったのだろう。

 よってこの絵は安政4年5月10日、坂井右近へ火盗改メの任期延長を任命した後の帰路の絵であると推定する。
 
この記事で参考にした本

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
広重 名所江戸百景
斎藤月岑日記6
続徳川実紀50

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 景数  84景 
 題名  目黒爺々が茶屋 
 改印  安政4年4月 
 落款  廣重画 
 描かれた日(推定)  安政3年10月前半 


84景 目黒爺々ヶ茶屋


 爺々ヶ茶屋とは変な名前だが、その名は由緒正しい。三代家光がこの地で鷹狩を行うとき(八代吉宗、十代家治とも言われる)、好んでこの茶屋を利用し、老店主の彦四郎を爺、じじいと親しく呼んだことによる。
 目黒の台は富士山の眺望に優れ、江戸名所図会、名所江戸百景、絵本江戸土産といった当時の江戸名所本毎に数点で取り上げられているほどだ。

同時期に描かれた「絵本江戸土産」7編(安政4年)にも爺ヶ茶屋があり、その説明には、

同その二 爺々(ぢぢ)が茶屋 むかし寛永のころかとよ。大樹この野辺に放鷹ありて,ここに立ちよらせたまふといふ。そのころ老人夫婦あり,これを歓待(もてな)し奉る。よつて爺々が茶屋とよぶ。されば今老夫ならぬも爺々といふ名を負はしたる。いとも殊勝の旧跡なり

などと、先ほどの説明と同じようなことが書かれている。

絵本江戸土産 目黒爺ヶ茶屋


 この場所は、現在は権之助坂から1つ南側の坂とされ、現在の田道橋当たりとされるのが一般的である。現在も目黒川へと下る道は、今日も茶屋坂として残っている。舗装されてはいるが、道の曲がり具合は変わらない。

 ところで「目黒のさんま」という落語は御存じだろうか?ある殿様が出先の茶屋で、食事を所望したところ、さんましかないということで、焼きさんまを出したところ大層気に行った。
 後日、屋敷でさんまを所望したところ、脂っこいのは殿様に毒だ、ということで蒸して脂を抜いたものを差し上げたが、さっぱりうまくない。「これはどこのさんまだ?」「日本橋のです」「いかん。さんまは目黒に限る」というお話。
 この噺の原型がこの茶屋にあると思われる。しかし実際に落語に出て来る場所は目黒元不二であるが。

 さて最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、残念ながら日付の手掛かりになるようなものがなにもない。季節は刈田が終わった晩秋で、町人の服装が冬用になっている。一方、富士山はまだ頂上から1分ほどの冠雪である。
 同時期に描かれ季節も同じと推測される25景「目黒元不二」では富士山は3~4分の冠雪なのでそれよりも前の日付と考えられる。25景「目黒元不二」は安政3年10月21日と推測していることから、この絵は安政3年10月前半に描かれたものと推測する。
 
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広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))


広重 名所江戸百景


江戸・町づくし稿〈別巻〉


絵本江戸土産
斎藤月岑日記6

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 景数  83景 
 題名  品川すさき 
 改印  安政3年4月 
 落款  廣重筆 
 描かれた日(推定)  安政3年4月 


品川すさき


 82景の八ッ山から見ると、少し南側に目黒川が海に流れ出る直前に北に屈折し、対岸が岬となっている部分があり、洲崎と呼んだ。岬の先端には絵のように弁財天があり、橋が架かっているのは目黒川、その手前は品川の妓楼の土蔵相模である。単に洲崎だと潮干狩りや初日の出の名所である深川の洲崎と混同することから、「品川すさき」と題名したのだろう。
 
 82景の月の岬からみると位置が少し南側で、向きも南側になっている。これも前出であるが当時の台場と各洲の関係は以下のとおりである。これによると品川洲崎から南を見ると位置からして手前から4、1、5番と思われる。ただし台場が図のように見えるわけがなく、構図上台場をこの位置に持ってきたことがわかる。
 また絵には描かれていないが、洲崎にも陸続きの台場があり、これを御殿山下台場と呼んだ。


江戸湾台場澪の図



 御殿山下台場は、他の台場と同様に入札で、北品川宿年寄の利兵衛・徳三郎・示豊之助,赤坂伝馬町土方の嘉兵衛,麻布本村町家持ちの清右衛門らが落札している。完成後、現在は台場小学校の敷地となっていて今でもその面影があるという。この台場が小学校の敷地として取り込まれていく様子が航空写真で残っているので、おそらく発掘すれば石垣くらいは出てくるものと思われる。

安政地震での台場の被害は、御殿山下台場は因幡国鳥取藩が守備していたが,被害はあまりなかったようである。そのときの第5台場の守備担当は,出羽国(山形県)庄内藩であったが「酒井家(庄内藩)安政地震留事」によると,第2台場を守備している会津藩より助けを求める船がきたので,早速向かったところ,すでに火事が発生していて手がつけられなかったという生々しい状況を伝えている。

絵本江戸土産 品川洲崎



 さて、最後にこの絵が描かれてた日の推測であるが情報が乏しい。安政4年の絵本江戸土産に同様の構図が描かれているが、改印と比べ江戸土産の方が後であるため、百景の絵の方が描かれたのが早い。特に目立ったものがないため、今回は改印直前の安政3年4月としておく。

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品川台場史考―幕末から現代まで
斎藤月岑日記6
絵本江戸土産 7編

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 景数  82景 
 題名  月の岬 
 改印  安政4年8月 
 落款  廣重畫  
 描かれた日(推定)  安政4年8月15日 


月の岬


 月の岬という場所は、百景のなかでも特定されていない場所の1つとされているが、通説では芝田町西側の三田台地の月見に好適な場所を指していて、1つは品川州崎、もうひとつは「八ッ山」と考えられている。仮に八ッ山より南のいずれかとすると、当時名所となった台場が絵中に入ってくるので、八ッ山より南のいづれかであろう。


江戸湾台場澪の図


同時期に描かれた「絵本江戸土産」にも月の岬があり、
「この所北は山、東南は海面にて、万里の波濤眸をさへぎる。実にや中秋の月この所の眺めを第一とす。月の岬の名も空しからず」という説明文を付け、絵中の浜に迫る台地に「八ッ山(谷ッ山)」と書き入れていて、場所が確定しているように見える。

絵本江戸土産 月の岬


 ところが堀氏は、品川の北には小さな茶屋と八ッ山茶屋があったと記しているだけで、この絵にあるような豪華な料理屋があったとは書いていない。さらに左手障子に映っている女は髪に挿されている5本の簪から遊女と見ることができる。当時の遊女は3本、5本、7本という奇数の簪を挿す習慣があった。
 とすると浮世絵研究家宮尾しげを氏がいわれたように、広重は品川の名高い妓楼「土蔵相模」(品川すさき)をここへ借りて来て設定したとも考えられる。

 場所の議論はこれくらいにしておいて、描かれているものを観てみよう。
 絵に大きく描かれている座敷は、ふすまの下側には複雑な木目模様の欅木目、白鳥と呼ばれた首長の食器は磁器が使われており、とにかく豪勢だ。土蔵相模をこの地にもってきたという推測もうなづける。
 絵の内容は、月が出切って、月見の宴が一段落した後の風景とみられる。

 海に見える風景は、方向から品川台場がギリギリ見えない位置である。海上には碇やっている大型の帆船と、澪に灯が入っているのか、帆船とは異なる澪がいくつか見える。この年代は本格的なまだ灯台が石川島にできたばかりで、海上にはないはずなのだが、安政年間にあったのか?今後の研究対象だ。

 さて、最後にこの絵が描かれてた日の推測であるが、中秋の名月であることは明白であるので、安政4年8月15日ということになる。ところがこの日は小雨で、斎藤月岑日記には「名月中止」と書かれている。改印が同月であるため、この日を先取りして描かれたものだろう。


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品川台場史考―幕末から現代まで
斎藤月岑日記6

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 歌川広重は、安政5年9月2日(1858年)にコレラで死んだという。このときのコレラは安政コレラといい、江戸だけで26万余が死んだといわれ、棺おけの数が足りず、荼毘所では処理できないほどの死体が運ばれた。
 江戸時代は平和な時代であった一方で、医学は進歩せず、さまざまな死病に見舞われた。

 安政5年7月に米艦ミシシッピー号が中国から持ち込まれた安政コレラは、長崎から大阪、京都を経て、同月には早くも江戸のに到着している。文化3年にも日本にコレラが上陸しているが、このときは、箱根を越えることがなかったため、江戸では初の体験となった。
 江戸の死亡率は罹患者のうち1/3と言われ、武江年表を記している斎藤月岑も姉と姪をコレラで失っている。斎藤月岑の武江年表にもその他の著名人として狂歌師 六朶園、燕粟国、俳人 西馬、得蕪、狂句点 老五代緑亭川柳、小説作者 山東京山、柳下亭種員、楽亭西馬、浮世絵師一立斎広重、軍書講談 貞山、浄るり語り 三世清元延寿太夫(藤田やと云ふ)、三味線弾杵屋六左衛門、鶴沢才次、の名を挙げている。

 当時長崎でオランダで西洋医学の講義をしていたポンペが「日本滞在見聞記」に当時の様子を残してている。ポンペが驚いたのは、当時3千万人いたとされる日本の人口の割に、医学が遅れていることだった。
 特に目につくのが、眼病、疱瘡、梅毒、労咳、麻疹である。また心臓や肺の疾患が多いのは着物の胸がはだけているせいであるとか、やたら熱い湯船に入るため、皮膚が弱くなっていると書いているが、真偽は定かではない。
 
 梅毒は公娼や私娼の蔓延から、幕末の娼婦の7割は梅毒とのことだった。梅毒は、第1次の症状としては瘡ができるがそれも直になおり、それが一人前の証しとされた。やがて2次症状として、全身の痛み、鼻などの骨が欠落し、皮膚がゴム状にぶよぶよになり、やがて死にいたる病気である。戦後ペニシリンが出るまで特効薬はなかった。

 疱瘡は天然痘とも呼ばれ、現在では世界で絶滅宣言されている病気であるためなじみがないが、死亡率はおよそ罹患者の4割とされるが流行によって強弱があるようだ。幕末には牛種瘡が開発され、徐々に予防されるようになった。

 眼病が多い理由に、火をおこすときのススが目に入るためとポンペは語っている。その他に熱い湯に入ること、寄生虫の影響を挙げているが、当時盲目の比率が世界的に高かったという。また眼病の治療を特にしていないことも挙げられる。

 労咳はいまでいう肺結核のことで、当時は無防備であったことから、家族の中で誰かが発症すれば、家族中がかかってしまうという性質がある。

 はしか(麻疹)は一般的に20年に一度流行することが知られている。これは流行によって免疫が付くが、免疫力がなくなった若い世代が増えると再び流行するため、とみられる。江戸年間で流行したのは、1730年、1753年、1776年、1803年、1824年、1836年、1862年となっている。特に1862年ははしかの狂歌が多数出回わった。疱瘡は器量定め、はしかは命定め、とされたこの死病を笑いで吹き飛ばす江戸町民のバイタリティはすざましい。

江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)

定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)

 景数  81景 
 題名  高輪うしまち  
 改印  安政4年4月 
 落款  廣重画  
 描かれた日(推定)  安政3年7月5日 


$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-高輪うしまち


 この絵で注目したいのは、虹、台場、大八、西瓜である。まず虹であるが、広重は虹のある構図は、掲載の天保初期の東都名所の他数枚しか確認されておらず非常にめずらしい。秋の景となっているが、西瓜があることから、新暦でいう8月頃の夕立後の風景ではなかろうか。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-東都名所芝愛宕山上之図(天保初期)
東都名所芝愛宕山上之図(天保初期)


 大八車は安政年間では珍しいものではないが、うしまちという題からすると皮肉っぽい。牛町は江戸の運搬用の牛を独占して扱う町であり、大八のような牛を使わないで運搬する手段が出てしまっては、町の死活問題である。牛町は牛の独占権を改めて主張したり、大八を制限する訴訟も起こしている。その牛町に大八が置いてあるというのは、この時代それだけ大八が一般的になっているということであろう。

 続いて台場であるが、台場は安政元年11月に工事を終了しており、このとき完成したのは、第1、2、3、5、6台場で、第4台場は7分、第7台場は3分の完成だった。しかし予算と情勢変化のため、そのまま工事中断となった。第4台場は一番浜寄りにあり、未完成だったため、くずれ台場と呼ばれた。
 さてこの絵で見える台場はどれかというと、・・よくわからない。絵のように台場を見ると左から7、3、6の順になるが、第7台場は3分とおりの完成なので、他の台場に比べ規模も石垣も整っていないが、絵ではほぼ同等である。また建造物があるはずだが、ここには描かれてない。したがって、この絵は故意に台場を全て描いておらず、また建造物も描かなかったというのが正しい見方だろう。このような推測から写実的ではないため、描かれてた日を特定するには難しい。
 
 安政地震での台場の被害は、第2台場で守備していた会津藩の陣屋が13名が即死している。その他、液状化現象による地割れ、石垣の孕みが起こった。
 安政地震の翌年の安政3年8月25日の未曽有の暴風雨では、牛町の被害は甚大であった。安政風聞誌によると、

 高輪牛町は土地が窪んでいるうえに、海が近いので、高潮が床まで上がった。それに驚いて、飼っているたくさんの牛を小屋から出して逃がそうと、飼主はもちろん、牛飼たちも大勢で起こしたが、諺でも暗闇から牛を引き出すとかいうように、いっこうに動かないので困りはてたという話だ。すでに昨年の地震のとき、馬を逃がして困ったのとは、うらはらの話だと、その心痛を思いやったものだった。

 とあり、地震で牛が逃げ出す始末、高潮では動かなくなる始末であったことがわかる。

 最後にいつものように、この絵が描かれた日を推測してみよう。まず台場は地震で破損したため、修理が行われた。しかし絵では修理を行っている気配はない。その修理が完了し、当時勘定奉行であった川路聖謨に褒美が出ているのが安政3年7月5日であるため、そのときにはすでに修理が終わっていることになる。
 一方、8月25日には未曾有の暴風雨によって高潮に飲まれたこの地域が、絵のように穏やかであるわけがない。したがって7月5日より少し前から8月25日までで虹が出るような天気の日を探してみる。
 斎藤月岑日記によると7月5日の天気は、「雨、昼前頃雷」とあり夏のにわか雨があったようだ。新暦にすると8月5日にあたり、西瓜が食べごろである時期にも一致することから、この日に絵がられたと推測する。

この記事で参考にした本
安政風聞誌

品川台場史考―幕末から現代まで
近世庶民生活史料 藤岡屋日記7
斎藤月岑日記6

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 景数  80景 
 題名  金杉橋芝浦 
 改印  安政4年7月 
 落款  廣重筆  
 描かれた日(推定)  安政3年10月12日 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-金杉橋芝浦


 この絵は日蓮宗徒が池上本門寺に、10月13日の日蓮の入滅の前日に行われる「お逮夜(たいや)」に合わせて、金杉橋を渡っている風景を描いたものである。
 講中の幟をたずさえ、笠をかぶり、「井桁に橘」の紋が入っている傘のような万燈(まんどう)と、「南無妙法蓮華経」と書かれた玄題旗など、立派で派手な集団である。幟の中に「魚栄持」という文字も見れるが、これは版元である魚栄が出資者という意味で、版元を持ち上げている。
 「井桁に橘」の紋は本門寺の寺紋で、日蓮は、遠く祖先をたどると藤原共資が井戸の傍らの橘の下で拾った子供をわが子として育て、その子孫であるとされる。子孫には譜代筆頭の井伊家があり家紋は橘紋である。もっとも橘紋は十大家紋の1つに数えられ、井伊家だけでなく他に大名・旗本に100家以上が用いているが。

 安政地震による金杉橋周辺の被害は少ないものだったが、安政3年8月の台風の被害はひどかった。岸から距離のある薩摩公の上屋敷が大破という状況であったため、海岸に近い金杉通りは、人家がことごとく大破し、破船が打ち上げられていた。

 金杉橋は江戸名所図会でも取り上げられていない普通の橋であった。あえてこの橋を取り上げているのにはわけがある。
 絵の遠景に深川の地が小さく描かれているが、そのなかで少しだけ屋根が大きい建物がある。これが深川浄心寺である。改印のある安政4年7月9日から浄心寺で甲州身延山の祖師七面宮の御開帳が60日間の日程で行われた。この絵は、御開帳の宣伝目的だったのである。浄心寺とお逮夜を1つの絵に収めるには、見晴らしの良い金杉橋しかなかったわけである。

 江戸末期の御開帳は、年に何か所も行われ、その当たりはずれは前評判で決まるというのが通説であった。本来ならば、御開帳よりも前に絵を出していなければならず、改印と御開帳の月が一致しているというのは少しおかしい。宗徒が急に思い立ったのか、お店の入銀物と比べるとちぐはぐな感じもある。
 しかし、浄心寺の御開帳は大成功で、参詣者が群集で押し寄せ、未明から開門を待っている状態となった。お逮夜の行列といい、日蓮宗の底力を感じる。

 最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、前述したようにお逮夜のある10月12日の夜に10数kmの距離にある池上本門寺に到着するには、江戸を午前中に出れば良い。よってこの絵は、安政3年10月12日を描いた絵ということになる。

この記事で参考にした本
定本 武江年表〈上〉 (ちくま学芸文庫)
定本 武江年表〈中〉 (ちくま学芸文庫)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
安政風聞集
家紋歳時記

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