83景 品川すさき | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  83景 
 題名  品川すさき 
 改印  安政3年4月 
 落款  廣重筆 
 描かれた日(推定)  安政3年4月 


品川すさき


 82景の八ッ山から見ると、少し南側に目黒川が海に流れ出る直前に北に屈折し、対岸が岬となっている部分があり、洲崎と呼んだ。岬の先端には絵のように弁財天があり、橋が架かっているのは目黒川、その手前は品川の妓楼の土蔵相模である。単に洲崎だと潮干狩りや初日の出の名所である深川の洲崎と混同することから、「品川すさき」と題名したのだろう。
 
 82景の月の岬からみると位置が少し南側で、向きも南側になっている。これも前出であるが当時の台場と各洲の関係は以下のとおりである。これによると品川洲崎から南を見ると位置からして手前から4、1、5番と思われる。ただし台場が図のように見えるわけがなく、構図上台場をこの位置に持ってきたことがわかる。
 また絵には描かれていないが、洲崎にも陸続きの台場があり、これを御殿山下台場と呼んだ。


江戸湾台場澪の図



 御殿山下台場は、他の台場と同様に入札で、北品川宿年寄の利兵衛・徳三郎・示豊之助,赤坂伝馬町土方の嘉兵衛,麻布本村町家持ちの清右衛門らが落札している。完成後、現在は台場小学校の敷地となっていて今でもその面影があるという。この台場が小学校の敷地として取り込まれていく様子が航空写真で残っているので、おそらく発掘すれば石垣くらいは出てくるものと思われる。

安政地震での台場の被害は、御殿山下台場は因幡国鳥取藩が守備していたが,被害はあまりなかったようである。そのときの第5台場の守備担当は,出羽国(山形県)庄内藩であったが「酒井家(庄内藩)安政地震留事」によると,第2台場を守備している会津藩より助けを求める船がきたので,早速向かったところ,すでに火事が発生していて手がつけられなかったという生々しい状況を伝えている。

絵本江戸土産 品川洲崎



 さて、最後にこの絵が描かれてた日の推測であるが情報が乏しい。安政4年の絵本江戸土産に同様の構図が描かれているが、改印と比べ江戸土産の方が後であるため、百景の絵の方が描かれたのが早い。特に目立ったものがないため、今回は改印直前の安政3年4月としておく。

この記事で参考にした本

広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))

品川台場史考―幕末から現代まで
斎藤月岑日記6
絵本江戸土産 7編

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