景数 | 82景 |
題名 | 月の岬 |
改印 | 安政4年8月 |
落款 | 廣重畫 |
描かれた日(推定) | 安政4年8月15日 |
月の岬という場所は、百景のなかでも特定されていない場所の1つとされているが、通説では芝田町西側の三田台地の月見に好適な場所を指していて、1つは品川州崎、もうひとつは「八ッ山」と考えられている。仮に八ッ山より南のいずれかとすると、当時名所となった台場が絵中に入ってくるので、八ッ山より南のいづれかであろう。
同時期に描かれた「絵本江戸土産」にも月の岬があり、
「この所北は山、東南は海面にて、万里の波濤眸をさへぎる。実にや中秋の月この所の眺めを第一とす。月の岬の名も空しからず」という説明文を付け、絵中の浜に迫る台地に「八ッ山(谷ッ山)」と書き入れていて、場所が確定しているように見える。
ところが堀氏は、品川の北には小さな茶屋と八ッ山茶屋があったと記しているだけで、この絵にあるような豪華な料理屋があったとは書いていない。さらに左手障子に映っている女は髪に挿されている5本の簪から遊女と見ることができる。当時の遊女は3本、5本、7本という奇数の簪を挿す習慣があった。
とすると浮世絵研究家宮尾しげを氏がいわれたように、広重は品川の名高い妓楼「土蔵相模」(品川すさき)をここへ借りて来て設定したとも考えられる。
場所の議論はこれくらいにしておいて、描かれているものを観てみよう。
絵に大きく描かれている座敷は、ふすまの下側には複雑な木目模様の欅木目、白鳥と呼ばれた首長の食器は磁器が使われており、とにかく豪勢だ。土蔵相模をこの地にもってきたという推測もうなづける。
絵の内容は、月が出切って、月見の宴が一段落した後の風景とみられる。
海に見える風景は、方向から品川台場がギリギリ見えない位置である。海上には碇やっている大型の帆船と、澪に灯が入っているのか、帆船とは異なる澪がいくつか見える。この年代は本格的なまだ灯台が石川島にできたばかりで、海上にはないはずなのだが、安政年間にあったのか?今後の研究対象だ。
さて、最後にこの絵が描かれてた日の推測であるが、中秋の名月であることは明白であるので、安政4年8月15日ということになる。ところがこの日は小雨で、斎藤月岑日記には「名月中止」と書かれている。改印が同月であるため、この日を先取りして描かれたものだろう。
この記事で参考にした本
広重の大江戸名所百景散歩―江戸切絵図で歩く (古地図ライブラリー (3))
品川台場史考―幕末から現代まで
斎藤月岑日記6
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