安政コレラと江戸の病気 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

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百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 歌川広重は、安政5年9月2日(1858年)にコレラで死んだという。このときのコレラは安政コレラといい、江戸だけで26万余が死んだといわれ、棺おけの数が足りず、荼毘所では処理できないほどの死体が運ばれた。
 江戸時代は平和な時代であった一方で、医学は進歩せず、さまざまな死病に見舞われた。

 安政5年7月に米艦ミシシッピー号が中国から持ち込まれた安政コレラは、長崎から大阪、京都を経て、同月には早くも江戸のに到着している。文化3年にも日本にコレラが上陸しているが、このときは、箱根を越えることがなかったため、江戸では初の体験となった。
 江戸の死亡率は罹患者のうち1/3と言われ、武江年表を記している斎藤月岑も姉と姪をコレラで失っている。斎藤月岑の武江年表にもその他の著名人として狂歌師 六朶園、燕粟国、俳人 西馬、得蕪、狂句点 老五代緑亭川柳、小説作者 山東京山、柳下亭種員、楽亭西馬、浮世絵師一立斎広重、軍書講談 貞山、浄るり語り 三世清元延寿太夫(藤田やと云ふ)、三味線弾杵屋六左衛門、鶴沢才次、の名を挙げている。

 当時長崎でオランダで西洋医学の講義をしていたポンペが「日本滞在見聞記」に当時の様子を残してている。ポンペが驚いたのは、当時3千万人いたとされる日本の人口の割に、医学が遅れていることだった。
 特に目につくのが、眼病、疱瘡、梅毒、労咳、麻疹である。また心臓や肺の疾患が多いのは着物の胸がはだけているせいであるとか、やたら熱い湯船に入るため、皮膚が弱くなっていると書いているが、真偽は定かではない。
 
 梅毒は公娼や私娼の蔓延から、幕末の娼婦の7割は梅毒とのことだった。梅毒は、第1次の症状としては瘡ができるがそれも直になおり、それが一人前の証しとされた。やがて2次症状として、全身の痛み、鼻などの骨が欠落し、皮膚がゴム状にぶよぶよになり、やがて死にいたる病気である。戦後ペニシリンが出るまで特効薬はなかった。

 疱瘡は天然痘とも呼ばれ、現在では世界で絶滅宣言されている病気であるためなじみがないが、死亡率はおよそ罹患者の4割とされるが流行によって強弱があるようだ。幕末には牛種瘡が開発され、徐々に予防されるようになった。

 眼病が多い理由に、火をおこすときのススが目に入るためとポンペは語っている。その他に熱い湯に入ること、寄生虫の影響を挙げているが、当時盲目の比率が世界的に高かったという。また眼病の治療を特にしていないことも挙げられる。

 労咳はいまでいう肺結核のことで、当時は無防備であったことから、家族の中で誰かが発症すれば、家族中がかかってしまうという性質がある。

 はしか(麻疹)は一般的に20年に一度流行することが知られている。これは流行によって免疫が付くが、免疫力がなくなった若い世代が増えると再び流行するため、とみられる。江戸年間で流行したのは、1730年、1753年、1776年、1803年、1824年、1836年、1862年となっている。特に1862年ははしかの狂歌が多数出回わった。疱瘡は器量定め、はしかは命定め、とされたこの死病を笑いで吹き飛ばす江戸町民のバイタリティはすざましい。

江戸 病草紙―近世の病気と医療 (ちくま学芸文庫)

定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)