81景 高輪うしまち | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  81景 
 題名  高輪うしまち  
 改印  安政4年4月 
 落款  廣重画  
 描かれた日(推定)  安政3年7月5日 


$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-高輪うしまち


 この絵で注目したいのは、虹、台場、大八、西瓜である。まず虹であるが、広重は虹のある構図は、掲載の天保初期の東都名所の他数枚しか確認されておらず非常にめずらしい。秋の景となっているが、西瓜があることから、新暦でいう8月頃の夕立後の風景ではなかろうか。

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-東都名所芝愛宕山上之図(天保初期)
東都名所芝愛宕山上之図(天保初期)


 大八車は安政年間では珍しいものではないが、うしまちという題からすると皮肉っぽい。牛町は江戸の運搬用の牛を独占して扱う町であり、大八のような牛を使わないで運搬する手段が出てしまっては、町の死活問題である。牛町は牛の独占権を改めて主張したり、大八を制限する訴訟も起こしている。その牛町に大八が置いてあるというのは、この時代それだけ大八が一般的になっているということであろう。

 続いて台場であるが、台場は安政元年11月に工事を終了しており、このとき完成したのは、第1、2、3、5、6台場で、第4台場は7分、第7台場は3分の完成だった。しかし予算と情勢変化のため、そのまま工事中断となった。第4台場は一番浜寄りにあり、未完成だったため、くずれ台場と呼ばれた。
 さてこの絵で見える台場はどれかというと、・・よくわからない。絵のように台場を見ると左から7、3、6の順になるが、第7台場は3分とおりの完成なので、他の台場に比べ規模も石垣も整っていないが、絵ではほぼ同等である。また建造物があるはずだが、ここには描かれてない。したがって、この絵は故意に台場を全て描いておらず、また建造物も描かなかったというのが正しい見方だろう。このような推測から写実的ではないため、描かれてた日を特定するには難しい。
 
 安政地震での台場の被害は、第2台場で守備していた会津藩の陣屋が13名が即死している。その他、液状化現象による地割れ、石垣の孕みが起こった。
 安政地震の翌年の安政3年8月25日の未曽有の暴風雨では、牛町の被害は甚大であった。安政風聞誌によると、

 高輪牛町は土地が窪んでいるうえに、海が近いので、高潮が床まで上がった。それに驚いて、飼っているたくさんの牛を小屋から出して逃がそうと、飼主はもちろん、牛飼たちも大勢で起こしたが、諺でも暗闇から牛を引き出すとかいうように、いっこうに動かないので困りはてたという話だ。すでに昨年の地震のとき、馬を逃がして困ったのとは、うらはらの話だと、その心痛を思いやったものだった。

 とあり、地震で牛が逃げ出す始末、高潮では動かなくなる始末であったことがわかる。

 最後にいつものように、この絵が描かれた日を推測してみよう。まず台場は地震で破損したため、修理が行われた。しかし絵では修理を行っている気配はない。その修理が完了し、当時勘定奉行であった川路聖謨に褒美が出ているのが安政3年7月5日であるため、そのときにはすでに修理が終わっていることになる。
 一方、8月25日には未曾有の暴風雨によって高潮に飲まれたこの地域が、絵のように穏やかであるわけがない。したがって7月5日より少し前から8月25日までで虹が出るような天気の日を探してみる。
 斎藤月岑日記によると7月5日の天気は、「雨、昼前頃雷」とあり夏のにわか雨があったようだ。新暦にすると8月5日にあたり、西瓜が食べごろである時期にも一致することから、この日に絵がられたと推測する。

この記事で参考にした本
安政風聞誌

品川台場史考―幕末から現代まで
近世庶民生活史料 藤岡屋日記7
斎藤月岑日記6

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