80景 金杉橋芝浦 | 広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~

百景が描かれた時代背景、浮世絵の細部、安政地震からの復興を完全解説!

 景数  80景 
 題名  金杉橋芝浦 
 改印  安政4年7月 
 落款  廣重筆  
 描かれた日(推定)  安政3年10月12日 

$広重アナリーゼ~名所江戸百景の描かれた日~-金杉橋芝浦


 この絵は日蓮宗徒が池上本門寺に、10月13日の日蓮の入滅の前日に行われる「お逮夜(たいや)」に合わせて、金杉橋を渡っている風景を描いたものである。
 講中の幟をたずさえ、笠をかぶり、「井桁に橘」の紋が入っている傘のような万燈(まんどう)と、「南無妙法蓮華経」と書かれた玄題旗など、立派で派手な集団である。幟の中に「魚栄持」という文字も見れるが、これは版元である魚栄が出資者という意味で、版元を持ち上げている。
 「井桁に橘」の紋は本門寺の寺紋で、日蓮は、遠く祖先をたどると藤原共資が井戸の傍らの橘の下で拾った子供をわが子として育て、その子孫であるとされる。子孫には譜代筆頭の井伊家があり家紋は橘紋である。もっとも橘紋は十大家紋の1つに数えられ、井伊家だけでなく他に大名・旗本に100家以上が用いているが。

 安政地震による金杉橋周辺の被害は少ないものだったが、安政3年8月の台風の被害はひどかった。岸から距離のある薩摩公の上屋敷が大破という状況であったため、海岸に近い金杉通りは、人家がことごとく大破し、破船が打ち上げられていた。

 金杉橋は江戸名所図会でも取り上げられていない普通の橋であった。あえてこの橋を取り上げているのにはわけがある。
 絵の遠景に深川の地が小さく描かれているが、そのなかで少しだけ屋根が大きい建物がある。これが深川浄心寺である。改印のある安政4年7月9日から浄心寺で甲州身延山の祖師七面宮の御開帳が60日間の日程で行われた。この絵は、御開帳の宣伝目的だったのである。浄心寺とお逮夜を1つの絵に収めるには、見晴らしの良い金杉橋しかなかったわけである。

 江戸末期の御開帳は、年に何か所も行われ、その当たりはずれは前評判で決まるというのが通説であった。本来ならば、御開帳よりも前に絵を出していなければならず、改印と御開帳の月が一致しているというのは少しおかしい。宗徒が急に思い立ったのか、お店の入銀物と比べるとちぐはぐな感じもある。
 しかし、浄心寺の御開帳は大成功で、参詣者が群集で押し寄せ、未明から開門を待っている状態となった。お逮夜の行列といい、日蓮宗の底力を感じる。

 最後にこの絵の描かれた日の推測であるが、前述したようにお逮夜のある10月12日の夜に10数kmの距離にある池上本門寺に到着するには、江戸を午前中に出れば良い。よってこの絵は、安政3年10月12日を描いた絵ということになる。

この記事で参考にした本
定本 武江年表〈上〉 (ちくま学芸文庫)
定本 武江年表〈中〉 (ちくま学芸文庫)
定本武江年表 下 (ちくま学芸文庫)
安政風聞集
家紋歳時記

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