ギー・モケに手を出すな!(Obsの記事) | PAGES D'ECRITURE

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フランス語の勉強のために、フランスの雑誌 Le Nouvel Observateur や新聞の記事を日本語に訳して掲載していました。たまには、フランス語の記事と関係ないことも書きます。

1941年10月22日、ナチス・ドイツ支配下、ヴィシー政権下のフランスで、48人の「囚人」が銃殺されました。そのうち、シャトーブリアンで銃殺された27人の中に、17歳の共産党員の少年、ギィ・モケ(ギイ・モケ、ギー・モケ) Guy Môquet がいました。昨年、フランスのサルコジ大統領は、モケの母親に宛てた最後の手紙を高校生に強制的に朗読させました。
詳しいことは、村野瀬玲奈の秘書課広報室  の以下のエントリーを参照してください。

17歳で銃殺された少年をしのんで

17歳で銃殺された共産党員ギー・モケの手紙

もう先々週になってしまいましたが、週刊誌Le Nouvel Observateur の2008年10月9-15日号、通巻2292に、Touche pas à Guy Môquet ! (ギー・モケに手を出すな!)という記事が掲載されていました。銃殺された多くの若者の中で、なぜ彼が取り上げられたのか、そこには何らかの情報操作の影があります。もちろん、それによって、その手紙の価値が貶められるわけではありません。


Après sa fameuse lettre…

Touche pas à Guy Môquet !



サルコジが、ナチスによって銃殺された共産主義者の捕虜が誰だったかを生徒に思い出させるのは正しかったのか?


全国の中等教育の教室でギー・モケ Guy Môquet の手紙を読ませるというニコラ・サルコジの決定は大きな議論を呼んだ。ブノワ・レイスキBenoît Rayski を激怒させたのは、英雄を信用しないフランス人のこの性向である。MOI(Main-d’Œuvre imigrée、直訳すると、移民の働き手)の庇護を受けたユダヤ人レジスタンスの責任者だったアダム・レイスキAdam Rayski の息子でもある、このジャーナリストの辛辣な筆致は知られている。『Le cadavre était trop grand (死体は大き過ぎた)』の中で、彼はよく知っている微妙な問題に不躾に触れている。左翼である。文字通りの彼の怒りの副題ははっきりしている。『左翼の順応主義に踏みつけられたギー・モケ』。ブノワ・レイスキが耐えられなかったこと、それは左翼が、右翼による決定、したがってその目には疑わしい決定に対して、大多数が振舞ったやり方である。彼は、地味な英雄の息子として、人々が別の英雄についてケチをつけることに我慢がならなかった。『リベラシオン』の記者のまるで無知な嘲笑、自分の役割と組合の間で身動きが取れなくなった教師、あるいはほとんど責任感のない政治家を、乱雑に引用して。総括の形での以下の問いかけはそこから来る。「探検があまりにも険しくなったとき、たとえ道半ばで中断することがあっても、青少年に高みに視線を向けること、それに続く道を辿ることを求めることは、恐ろしくエリート主義的なのだろうか?」

 フランス共産党の元活動家で、元レジスタントで元ジャーナリストの、ピエール・デクスPierre Daix もまた、フランス人であることに誇りを持ち、対独協力とヴィシー政権を拒否した、これら若き激情家たちと極めて親しく交際した。ギー・モケはこうした若者たちに属していた。しかし、シャトーブリアンで銃殺されたのは彼だけではなかった。そこで、なぜ彼の名前がその山の中から出てきたのか?なぜPCF(フランス共産党)は、例えばクロード・ラレClaude Lalet などよりもこの少年を前面に出したのか?「共産主義学生同盟の重要な責任者で、1940年秋からレジスタントだったラレは、そのために1941年2月に重い禁固刑を宣告されていた。その刑の終わり、1941年夏に、行政的収容は、後にシャトーブリアンで銃殺される人々に彼を合流させた。彼はその中で、明白なレジスタントだという証拠を持っていた。彼は捕虜の中で唯一の、元からの受刑者だった。」 調査の過程で、ピエール・デクスは我々に、ジャック・デュクロJacques Duclos (当時のフランス共産党指導者)が裏工作の実行者であることを知らせる。ラレは当時、独ソ(不可侵)条約に反対していたために正統的な共産主義者ではないとみなされていた。モケはイデオロギー的により体裁が良かった。その上、彼は最も若かった。

 この事実に関して、ピエール・デクスは、これらの「記憶の否認」と当時認められていた唯一の歴史的現実のために彼自身が操られるままになっていた方法に関して自問するためにそれを利用する。つまり、党の現実である。「出来事から出来事へと、少しずつ進む歴史に依存する歴史科学の見通しと手段。」 彼にとって、20世紀に芽生えた2つの否定論の分析が続く。共産主義のテロルを否定したものと、現在もなおナチスによるユダヤ人絶滅計画を否定する否定論である。

 ある過去が終わったか終わらないかを決めるのは何か?この問いに関して、「歴史の否定」は照明をもたらす。ピエール・バイヤールとアラン・ブロサによる作品集は、この問題が西ヨーロッパでも極東でも同一であることを証明している。ピエール・デクスの記憶の拒否にブノワ・リスキの意識の拒否が呼応する。情報操作にはメディア化が後を継いだ。ベルナール・ラポルト(ラグビーの前フランス代表監督)が、負けた試合の直前にはフランスのラグビー・チームにギー・モケの最後の手紙を読むのが良いと信じていたことが思い出される。思想の混乱は結局、歴史を汚してしまう。

 ギー・モケはレジスタントとしてではなく、人質として殺された。1941年10月22日の、上級司令官の殺害に続く、シャトーブリアン収容所の27人の銃殺された収容者に、ナントの監獄の21人の囚人を加えなければならない。銃殺用の柱の前に引き出された48人に、翌日、スージュ収容所の50人の捕虜が続くことになる。したがって、ギー・モケだけではない。しかし、彼だけがナチスとヴィシーの弾圧による他の犠牲者を代表することになる。なぜなら、捕虜の名簿はフランス警察によって提供されたからである。ある者にとっては大きすぎる死体、またある者にとっては厄介な死体である。フランス人がその歴史を墓地で作るよりは、学校で作るほうがおそらく良いことだろう。忘却は歴史の裏側だけではない。それはまた正義の裏側でもある。


LAURENT LEMIRE



LE NOUVEL OBSERVATEUR 2292 9-15 OCTOBRE 2008


ここで引用した記事は、

« Le cadavre était trop grand », par Benoît Rayski, Denoël, 120 p., 10 euros.
« Dénis de mémoire », par Pierre Daix, Gallimard, 160 p., 14,90 euros.
« Les Dénis de l’histoire. Europe et Extrême-Orient au XXe siècle », sous la direction de Pierre Bayard et Alain Brossat, Editions Laurence Teper, 390 p., 27 euros.

の3冊の本の書評としてかかれたものであり、通常の記事のようなWeb上の原文は見当たりませんでした。

上に述べたように、どんな経緯があっても、政治的に利用されることがあっても、ギー・モケの手紙の価値が貶められることはありません。