日本人のこれまでの過去の教育は、「ひたすら勉強して、どこまで知識が詰め込まれているか?」という記憶力の部分がメインで、概ねマークシートや記述で「質問に対する正解を答える」ことで、知識や教養があると頭脳的評価をされてきました。
「この詰め込み教育そのものが、もう今の時代に合わないのではないか?」というのも昔からあちらこちらで疑問の声もあがっていました。
しかし、ゆとり教育の失敗により、また文部科学省は現在は詰め込み教育型の勉強方法に戻りつつあり、「とにかく勉強!」という意識が、子どもから大人まで隅々に行き渡っているのが日本や韓国・中国などのアジア圏の「上からの教育」の現状だと思います。
しかし、こと投資の勉強に関して言えば、このような上からの詰め込み教育型の勉強の仕方が、ほとんど役には立ちません。
投資には、決められた答えというものは存在していません。専門家やプロでも分からないのです。だから外すことがしょっちゅうあります。
そして「結果」として起きたことが「答え」となり、大学の試験問題のように「問題」と「解答」で決まっているのではなく「原因」と「結果」によって、答えが導き出されるわけです。そこには時間軸も入っており、より複雑な結果が導き出されてしまいます。
少子高齢化とグローバル化という原因によって、日本の社会はこれからどのような結果を生じるのか?というような問題を考え、その先について予測行動するのが投資研究です。
私は「投資には、過大な勉強は不要、ただ実行あるのみ」という投資哲学?を持っていて、いろいろな本や週刊誌などの記事を読みはしますが、それは「頭で考える材料」として、いろいろな物の見方という意味で、頭の体操のつもりで読むことが多いです。
中には、極端なことを言う専門家や投資家も居ます。まるでオオカミ少年のように凄まじい予言めいたことを言う人も多く、賛否両論でいろいろな反応が見受けられます。
しかし、極端な見方ができる人というのは、ある意味では「頭の体操」にはもってこいの人だと思います。自分でも想定していないようなことをガツンと言われると、そこまで考えないとダメ?みたいな感覚に陥ることもしばしばあります。
投資の勉強で重要なのは、3パターンぐらいの答えを予測するということだと思います。つまり、①うまくいくケース、②うまくいくのもあればうまくいかないのもあるケース、③うまくいかないケース。
ユーロ財政などの問題を考える場合も、自分の主観を交えずに、すべてのシミュレーションを検討し、どの状況になったらどのように行動するのが最適かを考えることが、リスク分析を冷静に計算する手法だと思います。
そして、今、何より重要なのは、学ぶ以上に実際に行動に移して、多少の失敗をも経験しておくことではないでしょうか。
小リスクでの失敗は、後の肥やしになる場合がよくあります。「損して得取れ」ということわざもありますが、人間は失敗した時の記憶が強く残りやすい性質があり、それを何度か経れば、リスク計算能力が一般より高まるとされているからだと思います。
「事件は会議室で起こっているのでなく、現場で起こっている」のと同じように、「投資もまた学校で学ぶものではなく、市場で起こっている」ものなのではないでしょうか?