児童画の意味 (浅利式色彩心理診断法) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “昭和二六年(一九五一年)、絵画の画面上に現れる色彩の意味について、私は意外な事実のあることに気づいた。この事実については本文で詳細に述べるとことにして、その事実とは画面上の紫色が疾病傷害に強い相関性を示しているということである。つまり、画面を『見えざる人体』と仮定し、方眼状に分割して出現する位置を測定すると、その絵の作者の病気や傷害の身体上の位置を示しているのであった。その身体上の、つまり外見上にそれが観察できるばかりか、内部疾患までが、紫色によって透視されているのである。この事実は小学生と中学生の絵によって確かめられたが、一九五二年には幼児(三歳以上)にも同様な事実のあることが明らかとなったのである。

 密かに愛媛県松山市の古い友人である渡部徹氏に、この発見の一部を追試してもらったところが、氏の勤務する高校生たちの絵にも同様の事実が認められたのである。

 美術教師である限り、美術史にとり上げられている近代画家が、写実主義から離れて、個々人の思うがままに描く絵には、その作者の独自な『個性』が現れるものであることを信じている。だが、画面に病気などが暗示されているという話など、誰も信ずる者はいない。この事実を発見した私自身が、この事実を疑ったばかりでなく、『こんなことはあり得ない』、何か観察を誤っているのではないか?と疑ってみたばかりか、反対の事実を探す試みすら実行に移したのであった。

 紫色が身体と相関すると一応認めて、では、赤はどうなのか、橙、黄、黄緑は?緑、青は身体とどのような関係があるのだろうか?一九五二年、赤色の使用されている大量の絵の中から一枚の注目すべき作品を見つけたのである。この絵は中学一年男子で、つい数日前に、この生徒は弄火により、あやうく火事を引き起こすような行動があり、マッチを持っていて学級担任から説教されていた生徒であった。この作品の赤色は画面上の紫色で現れる場合の「手または耳」の位置に強烈なタッチで赤が塗られていたのである。

 画面に弄火癖が現れることが判明し、病気も現れるということ、この二つの事実について統一的な理解をするためには、一方が『行動』を意味し、一方は『生理』を意味しているので、心理学と生理学との領域にまたがっていることになる。どう理解したらよいことであろうか。私はまず紫色についてより深く、広く、その出現の法則性を追求した。その概要をプリントして、雑誌「児童心理」と「カラー」に投稿してみた。昭和二八年六月、当時、東京教育大学助教授であった現埼玉大学教授長島貞夫氏の眼にとまり、その発見が公表された。また、日本色彩社は私の発見を数回にわたって採用してくれたのであった。

 さらに、単行本「児童画の秘密」が刊行されると「週刊朝日」書評欄にとり上げられて、一挙に二〇〇〇〇部が売れ、「児童画と家庭」「児童画とセックス」と発表し、新聞と雑誌などにも数多く紹介され、「紫色は病気の色」ということは一般大衆に浸透していったのであった。

 だが、絵画研究上の発見としての価値に満足していた私は、心理学者の猛烈な反対論を受けるに及んで、にわかにこの事実を心理学的に検討する必要に迫られた。著名な色彩学者であり自他共に第一人者と思われていた東京工業大学の稲村耕雄氏でさえも「色彩論」(岩波新書197)の中で私の発見を手酷しく批評し、紫の意味を「あやしげな予言をマコトしやかに書いている図画教師」といって、『「色と性格」の追求はもしその結果が正しければ、占いどころではない、ロールシャッハ・テスト級の評価さえうけられるであろう』と、直感的に浅利の発見の来たるべき姿を予見している(同署151、153頁)。

 紫色が生理学的現象に相関し、他の色が心理学上の現象に相関しているという私の発見が持つ意味はしだいに明確に浮彫されていった。人間が心のままに色を選ぶ時に、紫色を生理に関係すると仮定すると、他の色は心理に関係するということは、心理と生理とを対立的に理解しようとするならば矛盾として考えられるが、色彩選択に視点を置いてみれば、心理と生理とは、現象の両端に位置するものであり、本質的には区別すべきものではないということになるであろう。心理学が取り扱う精神活動と生理学の取り扱う脳の生きた活動とは、一元的に、色の意味の中に吸収されるべきものなのである。だから私の発見を説明する場合、読者は、この選択的な色彩の意味を生理的なものとして理解することも、心理的なものとして考えることもともに誤りであるという必要はない。したがって、色彩選択が心の働きであるということも、脳の働きであるということも、ともに正しいのである。

 私は研究の初期においては、絵が形成される三つの要素、すなわち、形態・構図・色彩を分離したものとして追求していった。だが、事実は分離した状態の絵というものは存在せず、常に三位一体不可分のものであったから、それぞれの要素に分解して得られた結論をもって最終の結論としたのである。だから本書には「形態標識」「構図標識」「色彩標識」の三表に示したように、それぞれの意味が一覧表になっているが、この三つの標識を使用して得られる意味が画面の内容となるのであって、一つの標識だけの使用では事実の真相を知ることは困難なのである(標識の使用法についても本文で詳細に述べるであろう)。

 あらゆる科学が科学的であるためには理論と仮説が、証明という事実を提示しなければならないことは当然のことである。だが絵画研究、それが心の働きによって作り出されるものであるが故に、美術とか芸術とかいうコトバによって科学的研究対象にはならないものであると考えられて今日に至っている。だが、私の発見を利用することによってこの領域もまた立証の方法が発見され、いかなる頑固な反対者も「証明」の前に降伏せざるを得ないのであった。

 証明の伴った事実を集積すると、そこに法則性が現れるのは形而下の学に見られる特長であることは周知のことである。美術は美学が示した如く、形而上の、観念上の、科学的研究の対象外のものとして永く神秘に包まれてきた。だが、私の発見を利用することによって、それは神秘性を失うのである。

 次に私は研究の基礎的条件を規定し、絵画制作の方法を個人の心理内容に干渉する諸条件を除去するために「浅利自由想画法」を創案した。この方法によって得られた絵の内容を分析する際に前述の「三つの標識」を使用すると、作者個人の心理内容が把握できるので、逆用することによって一つの新しい心理診断として利用できることを示した。これには「無条件テスト」と名づけ、心理学の求めてやまぬ心理診断法として斯学に領域を主張することとなったのである。おそらく読者の関心はこの新しい心理診断法に向けられていることであろう。また私も「誰にもできる色彩心理診断法」という意図をもって、読者の期待に応えようとしているのである。

 本書は色彩を主要な研究対象としている。だが、色刷りの入る出版物は一般書の倍のコスト高となるので、原色頁には制限を加えねばならない。また全く類書のない、発見を述べるのであるから、多くの事例作品を掲載すべきであるが、写真版を使用した絵については能う限り文章によって説明に努めたい。そして可能なかぎり多くの立証資料を提示してみたい。ここに述べられる内容についてはそれが日常ありふれた出来事であり、誰の眼にもふれるようなことでありながら、その本質的な意味に気づかない新しい視野に立って展開する隠された人間の行動を白日下にさらけ出す精神分析的な一面があるので、フロイトやユングの方法を学習した人々にとっても全く新しい問題を提示する。したがって、私にとって初歩的な内容と考えられるものも、この発見の領域に理解の歩をふみ入れるためには省略することのできない事項については特に多くの紙数を割り当てることにしているので必ずや全体像を把握できるものと信じている。

 たびたび私は東京大田区山王の山王研究所でこの発見を講じてきたが、昨年三月には、幸いにも小川捷之氏(横浜国立大学助教授)の司会で講演の機会に恵まれた。この時の記録にもとづいて本書を質疑応答の形式でまとめようとしたのは同氏の訳書、ユング「分析心理学」のスタイルに啓発されたからに外ならない。また、同日、聖心女子大学島田一男教授と歓談の時を過ごした際に、本書に一文を寄せてくださるようにお願いしたところ快諾を得たのも忘れ得ぬ出来事であった。これによって巻頭を飾ることは私にとって誇りとするところである。”

 

 “紫色の太陽について拙著の中ですでに多くの診断例を発表してきたが、昭和四八年八月に著者は福岡行きの全日空に乗るために羽田に着いた。機中で読むための雑誌を買おうと書店の棚を見ていると「小説新潮・九月号」に長編推理小説、森村誠一という字が目にとまった。目次を見ると、

   異常の太陽  森村誠一

   二つの太陽と紫色の海、父を殺された子供の

   異常な絵から刑事は真犯人を割り出したが!

 面白そうだぞ!!(読者も同感であろう)

 福岡に着いて、出迎えの人たちに「駅の売店にある小説新潮を全部買ってくれ」と頼んだ。五冊しかない。長崎行きのバス発車時間が迫って、五冊を抱えて乗り込んだ。講演の中で著者は話した。

 「……児童画研究の専門家でさえも、浅利診断法がわからない。だが森村誠一氏は理解しているばかりか、診断法に通暁している。私の本を片手に刑事は子どもの絵の中から犯人を探しあてる。ぜひ、読むことだ」五冊の雑誌がたちまちなくなり、長崎市内の書店からも小説新潮は売り切れた。

 日本全国での森村氏の人気は松本清張をしのぐ勢いだ。この推理小説を読んだ人たちが、浅利式診断法という発見のあることを知り、読んでみたいと思ったのであろう。拙著「紫色の太陽」はたちまち二〇〇〇〇部を売り尽くしてしまった。さらに拙宅への訪問者が増してきたから今さらのように著者はこの一編の小説の影響におどろかされたのである。

 この小説の主人公である刑事は当然作者の投影である。彼は殺害された男の息子が小学校で描いた絵を見た。画面に二つの太陽があり海が紫色なのだ。太陽の後光が鋸歯状になっている。後光が鋸歯状なのは死を意味する。つまり「死の紋章」デスパターンと名づけていることを刑事は知る。すると太陽が二つあるということは一人が子どもの父で、それが殺されたのだから、他の一つの太陽は加害者、犯人だということになる。やがて意外な人物が推理されてくる。

 無断で詳しく書くと著作権法上の侵害になるので、森村誠一著「異常の太陽」を直接読んでもらいたい。

 さて、後光が鋸の歯のようだというのは三角波の形をしている。この紋様は地球上のあらゆる古墳の副葬品に見られるものである。そして考古学者は鋸歯紋と名づけている。著者の集めた子供たちの絵にもこの紋様が現れるから、考古学的研究法によらなくても児童画によって意味を決定できるに違いないと考えていた。

 児童画に鋸歯紋が現れた時には一〇〇パーセント死者に関係のあることを突きとめた。図版21は中学三年生男子が受験勉強に疲れて首吊り自殺したその日に、美術の時間に飾皿に描いたものである。ある年の一二月四日のことであった。この円形の皿に鋸歯が出ている。これを描いたのはその日(月曜日)の三、四校時である。

 この絵は逆に見ると魚の頭のように見える。鋸歯紋が死者追悼の意味として副葬品の紋様に現れることがあるかと思うと、本児のように自殺の予告とも考えられるように「死の紋章」、「死のシンボル」なのだ。

 赤穂浪士の吉良家討入の装束に、新撰組隊士の装束、その隊旗にデスパターンが使われている。そして彼らは死を決意していたことも事実であり、死を最高の栄誉としたに違いない。”

 

 “TBSテレビで著名な野村アナウンサーが司会の番組がある。電話がかかったので出ると、

 「先生は子どもの事故死や予知力について研究していらっしゃるそうですね」本家が出演しないと偽者が出てくる。だから快諾した。放送時間がきてカメラが児童画を写し出した。

 テレビ画面に「水死する五分前に撮影」と出たので読者はこの子が水死したのだなと先を読み取ったことあろう。

 父母と本児は連れだって、父の運転する車で海水浴に出かけた。本児は水中メガネを使っていたがあまり泳ぎは得意でないから浅瀬のところに遊んでいた。浜辺から父はカメラを向けて兄や本児、妻を写していた。その時「助けて!!」と叫んで本児は水中に潜った。

 近くにいた大人たちに助けられて「まだ大丈夫だ、人工呼吸を!!」「それ救急車!!」と人々は本児を助けるために奔走した。五・八キロ離れた病院から救急車がきて、あるいは助かるだろうと思われた。

 何ヵ月かが去った。ある日、本児の遺品を片づけていると画用紙が数枚、机の中にあった。それをコピーに写したのが、四枚の絵である。父の眼で、この絵を見ると全部が不思議であった。家から海岸までの途中の景色、海岸から病院までの距離、しだいに遠くなる海、そして最後に叫んだ、あの「助けて!!」。

 救急車、病院、教会と本児は絵の中で、近い将来に起こるであろう自分自身の水死事故を描いていたのだ。

 野村アナウンサーは著者に問うた。「このような予知画って本当にあるのでしょうか?」

 著者は答えた。「たくさんあります。ただ親や教師が気づかないだけですね!!」

 北で起こったこの水死事故のTBS・TVを、南で見ていた幼稚園の先生があった。

 この保母さんはある幼児の絵を探すために幼稚園に出かけた。そして目指す画帖を手にすると次々に驚嘆しながら画帖を捲っていった。

 〈やっぱり、Kちゃんも、絵で教えていたんだわ!!〉と思った。

 最近のことである。Kちゃんは国道でトラックに腹部を轢かれた。午後四時一〇分頃の惨事である。救急車で病院へ、午後五時死亡。

 Kちゃんの絵を見た保母さんはテレビで見た内容を同僚に話した。すると一人の保母がいった。

 「そんな占いみたいなこと、私、信じません!!(プンプン)」

 「でも、この絵を見てごらんなさいよ。『ジャックと豆の木』と書いて『最終回』、天に登っていく人、その人が載っている木を鋸で根元から切ってる人、何だか気味が悪いわ、……金魚の折紙だって真中の赤い金魚のお腹がギザギザに切ってある。Kちゃんはお腹を轢かれたのよ。時計の折紙だって、上の時計が四時一〇分、下の時計が亡くなった時間と同じ五時よ」

 「そんなこと信じて、貴女、変よ!!進歩的で教員組合の小中の先生達が尊敬している方が本の中で、占いみたいだと一笑にふしてるわ!!」

 「ああ、あの先生、あの先生の方が変なんじゃないの。やれ観察させろ、自信を持って教えるのだといってるけど、自分じゃ絵なんぞ描いていないし、理論も実践もないじゃないの!!」

 こういう対立は日本国中の幼児教育の現場で起こっている。”

 

(浅利篤「児童画の意味」(ブレーン出版)より)

 

*絵画などの芸術は決して科学で割り切れるものではありませんし、私としては、この浅利篤先生の説にはいくつか同意できない点もあるのですが、しかし、このように児童の描いた絵から、心身の不調、家庭や周囲の環境の問題などを読み取ろうとする試みは非常に興味深く、確かにかなりの説得力があります。この本では、実際に病気などの不調を抱えている子どもに絵を描かせても、必ずしもそれが描いた絵に表現されるわけではない、つまり浅利説が当てはまらない例もあることが正直に述べられていますが、それでもかなりの割合で的中していることは事実であり、全般的に見れば、浅利説を肯定せざるを得ないように思います。そして、この浅利式診断法は、まだ言葉をよくしゃべれない幼児や障害児、認知症の方々とのコミュニケーションに大いに役立つはずですし、当時、多くの色盲の児童が浅利先生が考えた独自の色彩療法によって治ったということでもあります。それにもかかわらず、既に浅利説が発表されてから半世紀にもなるのに、未だに教育や介護の現場で無視されて続けているのは何故なのかわかりませんが(浅利先生が日本共産党を手厳しく批判していたことと関係があるのか?)、ぜひ今からでも、この浅利式診断法を教育や介護の現場で役立たせていただきたいと思います。

 

*現在では「色盲メガネ」という便利なものもありますが、緑色の光を利用する『アサリ式による色盲矯正法』については、「ドールトンの眼 家庭で直せる色盲弱」(竹井出版)で詳しく紹介されています。他にも浅利篤著「色盲矯正と教育(家庭で直す色盲弱)」(黎明書房)という本もありますが、どちらも今や入手困難となってしまっているのは残念です。

(浅利篤「ドールトンの眼 家庭で直せる色盲弱」(竹井出版)より)

 

*この「予知画」のことが紹介されたテレビ番組は、私がまだ小学生のころでしたが、見た記憶があります。交通事故や川で溺れ死んだ子供が描いたという絵を見て、恐ろしくなったのを憶えています。おそらく、東日本大震災やこの度の能登半島の地震などでも、事前にこのような予知的な絵を描いていた子供はいたはずです。これから起こるであろう大災害についても、もしかしたら子供たちの描く絵から、その予兆を見つけることができるかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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