霊性とファッション 〔R・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私たちの普通の衣装は、本来二つの要素からできていることが分かります。冬、私たちはオーバーを羽織り、寒さから身を守ります。これが衣服の一つの要素、すなわち身を守るという要素です。しかし、これが衣服の唯一の要素なのではありません。

 特に女性の場合、衣服は単に寒さから身を守るためだけのものではありません。美しく見せるために、衣服を身にまとうのです。しばしば、ぞっとするようなファッションもありますが、衣装は美しくあるべきです。趣味が良いか悪いかによりますが、いずれにしても衣服はきれいであるべきですし、着飾るべきです「外界に対する防御」と「装飾」が、衣服の二つの課題です。”(P89)

 

 “「装飾」とは、いったい何を意味するのでしょうか。身を飾ることによって、人間の精神を外的に表現しているのです。原始的な民族において、服装がどのように発生したかを理解する必要があります。そして、原始的な民族は現代人のように自立していなかったということを明らかにしなくてはなりません。今日では、だれもが自分は自立した人間だと思っています。確かに、そうです。「私は自分の分別を持っている。その分別によって、自分が何を行なうかを考え出すのだ」と、思っています。

 特別にうぬぼれた人なら、自分を改革者だと思います。そんなわけで、今日では世界に無数の改革者がいることになります。つまり今日、人間は自分を完全に自立したものと見なしています。

 昔の人や、昔の民族にはそのようなことが、そもそもありませんでした。昔の民族は、「グループで一体」と、思っていました。そして、ある神霊存在を自分たちの集団心魂と見なしていました。「この集団心魂が自分たちを結び付けている。自分たちは身体の一部のように、この集団心魂に属している」と、彼らは考えていました。

 この集団的なものを、彼らは一定の姿形を有するものと考えました。そして、それを衣装で表現しました。例えばギリシア人は、この集団心魂を頭の上の兜のようなものと考えて、兜をかぶりました。兜は装飾上必要なものではなかったのです。「兜をかぶることによって、私は集団心魂に似た者になる」と信じていたのです。

 同様に、鷲、禿鷹その他の動物、梟などを集団心魂と考えました。そして、集団心魂に似た者となるために、羽根飾りのついた服装をまといました。このように、衣服は大体、霊的必要から発生したのです。”(P94~P95)

 

 “確かに、たなびくような服を好む人もいるし、体にぴったり合った服を好む人もいます。たなびくような服は、「鳥のような衣装、羽根のついた衣装にしたい」という思いから発展しました。翼が気に入っている人々です。ひらひらした服は、自分の器用さに大きな影響を与えます。体の向きを変えるとき、腕は優美な動きをします。そのようにして、人々は器用になります。「着飾るのは、精神的なものを衣装のなかに表現しようという意志の現われなのだ」と、言えるのです。

 単なる防寒具に反対するつもりはまったくないのですが、単なる防寒具は俗物根性を表しています。身体の保護のためだけに服を着ようとすると、人間は俗物になります。身を飾ろうとすると、俗物ではなくなります。身を飾るのは本来、人間のなかにある精神性を衣装で表現することなのです。”(P95~P96)

 

 “のちに社会が文明化されると、これらのことがまったく混乱してきました。例えば、つぎのようなことを明らかにしなくてはなりません。過去の民族は、太陽が人間の心臓、胸に特別に影響すると思っていました。「太陽が正しく影響することによってのみ、私は勇敢な人間でありうる。太陽光線が外的に皮膚に作用するなら、私は全身毛むくじゃらになっていただろう。そうではなく、太陽光線は内的に心臓に作用しなくてはならない」と、彼らは思いました。

 心臓が太陽と関係づけられるのは正当なことなのです。このような太陽との関係について、まだいきいきとした知識を持っている人々は何をするでしょうか。そのような人々は喉のあたりに、太陽を表すペンダントをします。太陽を表すものを、首にかけるのです。彼らはそのようにして歩きます。そうすることによって、「太陽が心臓に影響を与える、と私は信じる」と宣言しているのです。

 のちには、このようなことが忘れ去られました。ペンダントがもともとは太陽が心臓に影響を与えることのしるしであったことを、文明人は忘れました。かつては深い意味のあったものが、単なる習慣になったのです。そして人間は、習慣に従ってそのようなものを身に付けながら、なぜそれを身に付けるのかが、何も分からないのです。”(P96~P97)

 

 “例えば、ベルトを取り上げてみましょう。ベルトは、人間が「私は中央で区切られている。動物は区切られていない」と知っているために、できたものです。例えば、人間が有する横隔膜が、動物にはありません。動物は中央部で区切られていないのです。信じられないことですが、このようなことを今日の人間は忘れています。”(P99)

 

 “現代の服は色彩豊かではありません。なぜ色彩が失われたのでしょうか。超感覚的なものは、色彩によって最もよく表現されます。色彩を喜ぶ人は、超感覚的なものを把握するのに適しています。今日では灰色、できるかぎり色彩を排除した色が好まれます。「夜には、どの猫も灰色に見える」ということわざがあります。そもそも現代人は光、つまり霊的な光を見ないのです。現代人には、すべてが灰色になったのです。そのことが、衣服に表されたのです。

 どんな色で自分の身を飾ればいいのか、分からなくなりました。それで、色で身を飾ることをやめたのです。衣服はすべて、人間の超感覚的部分について古代にはまだ知られていたことがらに関係しています。文明全体が灰色になりましたが、人生のある領域では元来の色彩が残った部分があります。しかし、それが本来、何に由来するのかは知られていません。”(P101)

 

 (西川隆範編訳「ルドルフ・シュタイナー 人間の四つの気質」(風濤社)より)

 

*この西川隆範先生編訳の「人間の四つの気質」の本には、ルドルフ・シュタイナーが1907年から1924年までに行なった講演の中から、特に日常生活に生かせる11の講演の内容が収録されています。ここに引用したのはほんの一部であり、他にも『思考』や『食事』、『病気治療』などについても述べられています。ファッションや装身具のことだけでなく、『旗』を掲げることの霊的な意味や、『記憶力をよくする方法』、『もの忘れを直す方法』なども載っており、非常に内容が濃く、多くのことを学ぶことが出来ます。

 

*高い精神性を実現した方々はファッションなどには無関心だろうと思ったら、どうもそういうわけではないようです。考えてみれば、どんな宗教でも儀式、祭典のときは聖職者は特別な祭服をまといますし、神像や仏像の多くも様々な宝石を身に付け、中には宝冠をかぶっている像もあります。シュタイナーは『単なる防寒具は俗物性を増す』、『身を飾るのは本来、人間のなかにある精神性を衣装で表現すること』などと言っておりますし、これからは『霊性を高めてくれるファッション』が求められるようになるかもしれません。

 

*ペンダントが太陽と関係するものであるなら、意識的にペンダントを身に付けることで、太陽との霊的な結びつきを強めることもできるはずです。そして、これはシュタイナーが言っているわけではありませんが、ネクタイの着用にも同じような意味があるのではないでしょうか。クロアチアの兵士達が着用していたスカーフをフランスのルイ十四世が気に入って真似をしたことがネクタイの起源とされていますが、そもそもなぜこのような民族衣装がクロアチアにあったのか、なぜ瞬くうちに世界中に爆発的に流行するようになったのかを考えると、やはり人類が、もともとこのようなものを首に掛けることを欲していたからで、無意識に霊性を求めていて、それが形になったのではないかと思います。

 

*もしネクタイが霊性と関係があるとしたら、近年のクールビズ、ノーネクタイ運動などは、人間をさらに俗物化してしまうものでしょうし、とても賛同するわけにはいきません。猛暑のときにネクタイをはずすのは仕方ありませんが、冬期にもノーネクタイを主張し、それを皆に強制しようとしている人たちは、自分自身が俗物にすぎないことを告白しているようなものだと思います。

 

*出口王仁三郎聖師も、『太古の神々は首から胸元に鏡をさげていた』と言われており、そのような神様のお姿を絵に描いておられます。言うまでもなく、鏡は太陽のシンボルです。

*出口聖師は、特に女性は常に美しくあろうと心がけるべきで、むしろ老人になるほどおしゃれをするようにと教えられました。『霊体一致の原理により、化粧などの人工的な手段によってでも、その美しさを保ち続けるべきであって、そうして自身の本体である精霊をも歓ばせるのがよい』、とも言われています。ただし、年老いてからの不相応な厚化粧は考えもので、やはり『薄化粧で、贅沢な装身具や派手な衣装は慎むべし』だそうです(参考:「出口王仁三郎全集 第五巻」『美人と化粧』)。出口すみ子二代苑主は、第二次大本事件の裁判のとき、おしろいの代わりに歯磨き粉を顔にはたいて出廷したという話もあります。

 “…天稟の美人は美人としての惟神的特性が備はつてゐるのである。美人として慎むべき徳は、吾以外の醜婦に対し、なるべく美ならざるやう、艶ならざるやう努むるを以て道徳的の根本律としてゐるのは、惟神の真理を悟らざる世迷言である。美人は益々装ひを尽せば、ますます其美を増し、神又は人をして喜悦渇仰の念を沸かさしむるものである。之が即ち美人として生れ来りし自然の特性である。これを十二分に発揮するのが惟神(かむながら)の真理である。又醜婦は決して美人を妬みそねまず、自分の醜をなるべく装ひ、人に不快の念を起さしめず、且又美人に対して尊敬の念を払ふのが醜婦としての道徳である。

 富者となり貧者となり、貴人となり賤民となり、美人となり醜婦となり、智者となり愚者と生れ来るも、皆宿世の自ら生み出したる因果律に依つて来るものなれば、各自に其最善を尽し、賤民は賤民としての本分を守り、貴人は貴人としての徳能を発揮し、富者は富者としての徳を現はし、貧者は貧者としての本分を守るのが天地惟神の大道である。斯の如く上下の万民が一致的に其本分を守るに於ては、神示に所謂(いはゆる)桝かけ引きならして、運否のなき五六七(みろく)の世が現出したのである。瑞月が斯の如き説をなす時は、頑迷固陋の倫理学者、道徳学者は、必ず異端邪説として排斥するであらう。併し乍ら天地の真理の惟神の大道たる以上は、如何ともすることが出来ない。五六七(みろく)仁慈の大神の心の儘に説示しておく次第である。

 あゝ惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)。”

 

(霊界物語 第四十六巻 舎身活躍酉の巻)『惟神の道』より)

 

・ラーマクリシュナの言葉

 

 “……彼は人がやぶれたりよごれたりした衣服を身に着けていると、およろこびにならなかった。「富の女神はつぎのあたった衣服を着ている人からは去って行く」とおっしゃった。”

 

(日本ヴェーダーンタ協会発行「不滅の言葉」第33巻第4号 『マヘンドラナート・グプタ(M)の回想』より)

 

 

 

 

 

 

 


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