教育の根本理念 (「神」と「民族」) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “教育の根本理念については、出口聖師が昭和十年に執筆された「教育の四大基礎」に云いつくされています。そこには、

 

 イ、倫理上の基礎

 ロ、地理上の基礎

 ハ、歴史上の基礎

 ニ、民族使命上の基礎

 

の四つが挙げられ、それぞれに解説が加えられています。これを要約しますと、

(イ)  は、確固たる倫理的基礎をもって政治経済その他の諸学が統一されることであります。その意味で政治を学ぶことは同時にそれが人格教育とならねばならぬ。それについて〈神より来たる絶対的倫理によって教育が倫理的基礎をもち、それによって統一されなければならぬ〉といわれていることを忘れてはなりません。

(ロ)  はそれぞれの国には国々独特の風俗習慣があります。たとえ短所があっても、それを極端に削りすぎると表の長所にも穴があきます。その故に、日本は日本独自の個性をもつ教育によって都会、山村等の地理的条件に即応した行動性をもつ教育が本当であるといわれています。

(ハ)  歴史は民族精神の発展を示すものです。歴史の中には道徳が実験されています。宇宙の意志もその民族の経験をとおして表現されています。ですから、その国の歴史を主体にした教育は人類の理想に向かうその民族の役目に基づくことです。

(ニ)  個人に各々社会的役目のある如く、民族もまた、世界における役目をもつものであります。ヨーロッパが自然科学の創造により人類に貢献した精神に学ぶとき、東洋にも、これからの世界に向かう役目があります。その中で日本は何をなすべきか、これが、これからの日本の教育の礎の中にしっかりとおかれなければなりません。と、こういわれています。

 さて、イ、ロ、ハ、ニの四大基礎は、それぞれが別々に存在するものでなく、これらはどの基礎にもつながっている一つのものであります。と、最後にこうお示しになっています。

 この原理を、どう具体化してゆくか、これが今後のわたくしたちへの命題であると思います。”

 

          (「おほもと」昭和33年2月号 『あとがき』より)

 

 

・ルドルフ・シュタイナーと「民族」

 

 “高橋 右翼思想とシュタイナーの関係でひとこと付け加えますが、シュタイナーは「民族」というものをたいへん重視していて、オカルティズムの究極の目的は個人が民族に還ることだとさえいっているんです。けれどもその場合、なぜ民族に還るのかといえば、それは民族の将来のために個人が奉仕するためである、といっています。奉仕できるまでに魂が成熟したときに、民族に奉仕するのです。

 けれども右翼の思想の多くは、民族によって自分が救われるために、民族に還ることを暗黙の裡に前提としています。これは全く逆なんです。民族の自己同一性が問題となる時、個人が自分の救われる場所をそこに求めるということになると、自分の民族の既成の伝統や文化の中に還ることになります。しかし、シュタイナーのいう民族に還るということは、仮に過去に栄光を背負った民族が今は衰退していても、霊性を発達させた人がその民族の中に己れを同化させることによって、その民族が新たな生命を得て甦り、再び新しい文化を生み出す能力を獲得するようになるその過程の問題なのです。ですから保守主義的態度をとるわけではありません。人類の未来のために、ある民族の創造性をいかにして甦らせるか、ということなのです。そしてそれこそがオカルティズムの意味を二分する決定的な観点だと思います。”

 

         (高橋巌+荒俣宏「神秘学オデッセイ」平河出版社より)

 

 

・偏狭な民族主義は人類を退廃へ導く 

 

 “シュタイナーは、現代史の中に二種類の霊的な力が激しく衝突するのを見ていた。一九一七年十月二十六日の講演で、次のように述べている。「光の霊たち」は「いま人間にインスピレーションを与え、自由の観念と感性を、自由への衝動を発達させようとしている」。それに対して「闇の霊たち」は「人種的、民族的な関連、血に根差した古い衝動」を現代によみがえらせようとする。「人種、民族、血統の理想をはびこらせることほど、人類を退廃へ導くものはありません」とシュタイナーは警告した。”

 

 “民族主義を意識的に煽っている人間たちがいる、とシュタイナーは考えていた。彼らを駆り立てているのは、特定の民族至上主義や愛国心ではなく、「純粋な破壊衝動」である。”

 

 (高橋明男「〝光の霊″と〝闇の霊″の激突」より)

 (「歴史読本臨時増刊 特集・超人ヒトラーとナチスの謎(‘89-3)」(新人物往来社)に掲載)

 

 

・社会主義的な教育について (ルドルフ・シュタイナーによる警告)

 

 “・・・ボルシェヴィズムからは他にもすでに多くの恐ろしいことが生じてきているにしましても、その最も恐るべきものとなるのは、ボルシェヴィズム的教育方法でありましょう。なぜかと申しますと、それは古い時代から伝えられて来た文化的なものの一切を根絶してしまうであろうからです。最初の世代のうちに直ちにそうなるということはありますまいが、しかし幾世代かのうちには、それだけ一そう確実にこれを成し遂げることができるでしょう。そしてそのために間もなく、あらゆる文化は地球上から消滅してしまうでしょう。これを見通すことのできる人が今いなければならないのです。この部屋におられる皆さんもきっと聴いたことがおありでしょう。ボルシェヴィズムへの讃歌を歌い上げ、しかもそれによって悪魔的なものが社会主義の中へ呼び込まれるのだということには全く気づいていない人達のする話を・・・。

 このことは特に注意しなければならないのです。「社会的な方向に向かっての進歩をするには、それだけ一そう深い教育の側からの人間把握が必要である」ということを知っている人間が、どうしてもいなければならないのです。ですから人々は次のことを知らねばならないのです。「まさに未来の教育者ないしは授業者こそが、人間本性の最も奥深くにあるものを捉えていなければならない。そして、この人間本性の最も奥深くにあるものと共に生きなければならない。大人同志の間になり立っているような普通一般の人間関係を、決して授業の中に適用してはならない」ということを。マルキシスト達は何を望んでいるのでしょうか?彼等は学校を社会主義的に組織しようとしています。校長職を廃止し、それに代わるものは何も置こうとしません。そして、できるだけ子供達を子供達自身の自己教育にゆだねようとしております。そこからは恐ろしいことが生じて来るに違いありません!”

 

 “いわゆる社会主義的プログラムによって、一体今日何を彼等はしようとしているのでしょうか?彼等は子供達を、ちょうど大人同志がするように交際させようとしているのです。これは教育の場において行い得る最も誤った行為であります。私達は子供の心や肉体の力を発達させるにあたって、彼等は大人が他人と交わることを通して自分の力を磨いて行かねばならないのとは全く違う状態にあり、全く違う課題を持っているのだということを認識していなければなりません。すなわち意識下深くにあり心性の中に住んでいるものに向かって、教育と授業は入り込んで行くことが出来なければならないのです。これができなければ先へは進めないのです。それゆえに次のような問いが出されねばならないでしょう。「授業や教育の何が一体、人間の意志本性に働きかけるのだろうか?」と。この問題は一度真剣にとり組んでみる必要があるものです。”

 

    (R・シュタイナー「教育の基礎としての一般人間学」人智学出版社より)

 

*「民族精神の発展」についてですが、当然のことながら、決して排他的な民族主義のことではありません。排他的な民族主義とは、民族の退化であり、単なる破壊衝動の現われでしかなく、結局はその民族を滅ぼしてしまいます。真の民族主義とは、他民族との共存共栄を目指すものです。また、儒教では、修身・斉家・治国・平天下と説かれていますが、平天下に至るためには、その前の治国が前提であって、一足飛びに平天下が実現されることはありません(「霊界物語」では、孔子は神の化身の一人、弘子彦(ひろやすひこ)の名で登場し治国安民の大道を説く)。自国を愛せない人間が他国の人々を愛せるはずがなく、またちゃんと身を修めた人物が排他的な民族主義に陥ることもありません。民族を無視、否定するのではなく、むしろ意識することで、その使命を自覚するようになり(出口聖師によれば世界平和を実現するのが日本人の使命)、それでこそよりいっそう世界に、人類に貢献できるのだと思います。

 故に残念ながら、「神」や「民族」を無視した現代の教育は、欠陥教育であると判断せざるを得ません。今なお教育の現場には左翼思想に染まった教師が相当数存在するようですが、出口聖師は「マルクスはシロアリなり」「マルクス主義は亡びへの道」とはっきり言っておられます。また、ルドルフ・シュタイナーも、唯物論者は絶対に教師にしてはならない、と言っており、エドガー・ケイシーも、「七年の間、純粋に霊的なことを栄養としてきた心は、世の光となる体を作り出すであろう。しかし、物質的なもの、利己的なことのみを栄養として与えられた心は、フランケンシュタインのような怪物を作り出すこともある」とリーディングの中で述べています(マーク・サーストン/クリストファー・フェイゼル「エドガー・ケイシーに学ぶ幸せの法則」たま出版)。

 

 さらに、シュタイナー学校に関わっている方から話を伺ったことがあるのですが、シュタイナー教育では、子どもたちは最初は、親や教師などの大人たちから、彼らの権威のもとで模倣を通じて学ぶのであり、決して幼いころから「伸び伸びとやりたいことばかりやらせてもらえる」のではありません。子供たちのやりたいことがすべて禁じられたり、暴力的に無理やり型にはめられるようなことはあってはなりませんが、他人に迷惑をかけなければ何をしてもいいというわけでもありません。子どもたちがある程度自立し、自分で為すべきことを決められるようになるのは、その模倣の時期が過ぎてからなのだそうです。「精神的に自由な人間をつくるための教育」と単なる「自由な教育」とは全然別のものなのですが、シュタイナー教育をいくらか知っておられる方でも、このことを誤解されていることが多いそうです。