闇を彷徨う金髪の野獣 (ナチズムの根源) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ヒトラー・ナチス台頭前のドイツ人の集合的無意識  (ユング心理学)

 

 “C・G・ユングはヨーロッパにおけるオカルティズムの伝統がいかに人類の集合的無意識に深く根差したものであるかを雄弁に語った。古代エジプトの『ゾシモスの書』から、グノーシス主義を経過して中世錬金術で開花した後、現代人の夢やヴィジョンに継起する夥しい象徴的モチノフを積分しつつ、彼はその根底にある元型的布置の存在について指摘した。オカルティズムはほとんど二千年の歴史を持つキリスト教のである。また同時にユングは現代人の心性が、意識の無意識に対する絶対的優位の主張のあまりにエゴが病的に肥大した状態にあり、象徴的意識を意識の前面から欠落させてしまったことの危険について警告を発し続けた。中国は道家金丹教のテクスト『太一金華宗旨』に付した心理学的注釈から、最晩年のナチ論、ヨブ論、UFO論にいたるまで、さながら無意識の憑依による自動書記を思わせる粘液質の難解な文体の背後に、私たちは無意識的なものの復権を学問的信用を賭けてまでも一貫して唱え続けるユングの医師としての倫理的姿勢を読み取ることができよう。オカルティズムに関しても例外ではない。量子物理学者パウリとの共著において、ユングは占星術を手掛かりとして従来の科学の客観的因果関係による思考を超え、主観・客観という古典的二元論に対してエピステモロジックな揺さぶりをかけようとしている。”

 

 “中世趣味と北方憧憬、反キリスト的異教志向、これは何も今世紀のドイツの生んだ〈病的〉な産物ではない。何よりもニーチェが、ワーグナーが夢想し追及したものではなかったのか。私にはここで特定の思想家、芸術家にナチスの、ラシスムの烙印を押して、その〈戦争責任〉を追及する意向はさらさらない。なるほどここに列挙した芸術家たちはナチスによって奨励され、ある者はかなり深い地点にまで足を踏み入れてしまった。とはいうものの、彼らは当時の「ドイツ問題」に敏感なあまりに、異教の神話に向かったのであり、それはすぐれてゲルマン民族の集合的無意識の表象として新たに把握してみる必要があるだろう。ニーチェが愚妹の改竄によってナチスのイデオローグに変貌したという過去をもつからと言って『ツァラトゥストラ』を唾棄する態度こそ、ヒットラーとスターリンに続く焚書坑儒を呼び、『華氏四五一度』の悲劇を招き寄せるのだ。

 異教の多神は覚醒する。彼らはユダヤ・キリスト教の一神の掲げる灯の周辺に影として長い間うずくまり、息を秘めて隙を伺っていたのだ。すでに一九一八年の段階においてユングの下した次のような心理的診断を人はどうしてやすやすと無視して進んだのだろうか。

 

「キリスト教の世界観が権威を失うにつれて、『金髪の野獣』が地下の牢獄の中をますます威嚇的に彷徨い歩くことだろう。かれはいかなる時にも荒廃の結果を突如としてもたらす準備ができているのだ」

 

 かくしてヒットラー、この確信しきったドン・キホーテは数々の象徴を身にまといつつ、金髪のロシナンテに乗って無意識に突入する。風車小屋の向こうには断崖しかない。その後は「うつろなる者たち」のすすり泣きが聞こえるばかりだ。”

 

 “ヴァン・デル・ポストを前にしてユングは語る。「悪が生命ある実体でありえない限り何人たりとも自分の影を真剣に見つめることができないであろう。ヒットラーとスターリンは単なる『完璧さの偶然の欠如』を表しているにすぎなくなるだろう。人類の未来はこの影の認識の如何に負う処が大きいのだ。……悪とは、心理学的に語るならば、恐ろしいまでに現実なのだ。その力量と現実性を、たとえ形而上学的であろうが、過少に見てしまうことは致命的な過ちである。残念ながら、この点がキリスト教の根源なのだ。」

 

(「地球ロマン」創刊4号 四方田犬彦『ヒットラーと北方の神々」より)

 

 “ユングはしかし、一九三六年の三月に『ヴォータン』という一文を書いて、中世をはるかに過ぎた今日、ドイツの若者の間に、熱狂が巻き起こっているのは、長いこと眠っていたゲルマン民族の古代神話の中の神ヴォータンが、死火山のようによみがえって、活動を始めたからであると述べ、さらに、ヴォータンの目覚めとユダヤ人排斥運動との偶然の一致は、指摘しておく価値があると付け加えている。その動きは、ついに第二次世界大戦を巻き起こすこととなった。

 ユングはさらに、終戦直後に発表されたスイスの週刊新聞の紙上で、インタヴューに答えて、この戦争はある一人の指導者や、また個々のドイツ人の責任にかかわるものではなく、まさに、この荒ぶるさすらいの神ヴォータンが全ドイツ人の心に憑依して、集団的狂気を引き起こしたためだと述べている。

 このインタヴューは、実は戦争終結以前に行なわれたもので、たまたま発表の時期を得て、全世界の反響を集めた。彼はそれに答えて、有名な『破局の後で』という一文を一九四五年にまとめて発表している。”

 

(秋山さと子「ユングの心理学」(講談社現代新書)より)

 

 

・ワルプルギスの夜

 

 “一九四五年四月二十九日午後、ヒトラーは愛犬である狼犬のブロンディを射殺させ、三十日午前二時半、部下たちに別れを告げに食堂に現われた。

 その目は膜におおわれ、どんよりとして「麻薬を飲んでいるような」状態だった。彼はすでに、平生よく陥っていた「夢中遊行状態」に入っていたのだ。ヒトラーが立ち去ると、不思議な光景が展開された。皆がいっせいにダンスを踊り始めたのだ。

 午前二時半の舞踏会は異様だった。「重苦しくおおいかぶさっていた大きな雲がふわりと離れ去ったかのような」「恐ろしく暴君的な魔法使いが姿を消したような」と彼らは形容している。

 午後三時半、ヒトラーは拳銃で口を射抜き、エバ・ブラウンは毒薬で自殺。四月三十日—―それはドイツの民間伝承によれば、「ワルプルギスの夜祭り」の日である。ハルツ山脈の最高峰ブロッケン山の頂上にドイツ中の魔女、魔術師が集まって酒宴を張り、魔王を中心に一年中の凶事の計画を練るという悪魔信仰の日なのである。”(小泉源太郎『ナチス神秘学事典より』

 

(’89年3月「歴史読本臨時増刊 特集超人ヒトラーとナチスの謎」(新人物往来社)より)

 

*北欧神話のヴォータン(オーディン)は、本来は正しい神であって、荒々しい性格ではありますが決して単なる破壊や殺戮の神ではありません。しかし、ゲルマン民族がキリスト教化されて1500年以上もの間、古い神々は無意識下に抑圧され続けていたということであれば、その蓄積されたネガティブなエネルギーは相当なものだったでしょうし、だからこそ当時のドイツはかくも異常なまでの集団的狂気に呑み込まれてしまったのだろうと思います。ただそういうことであれば、同じようにもとは多神教であったにもかかわらず、一神教にとって代わられた地域、つまり現在のイスラム圏についてはどうなのか、ひょっとして同じようなことが起こりはしないか、もし狂気の兆候が現われ始めたときには、どうすれば良いのかが気になります。既に存在する狂信者集団としては、まさにアフガニスタンのタリバンなどが当てはまりますが、彼らが大衆の熱狂的な支持を受けているとは思えません。ただ、彼らが女性を極端なまでに抑圧し、人間を高次の存在と結びつける「芸術」を頑なに否定することには、イスラムがどうのとかいう以外に、何か別の理由があるような気がします。

 

 

 

 

 

 

 
 


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