「闇を踏み越える」〔ルドルフ・シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “西洋のキリスト教会が、これまでのような霊的生活の指導を続けることができなくなった以上、シュタイナーによれば、もう一つ別の綜合的で徹底した新しい方向づけが必要とされているのである。精神生活の没落を技術の発達という病的な満足感でごまかしているこの時代に、本当に大切なのは、人間と世界とを変革する衝動を精神の世界からくみ出してくることである。この点においてシュタイナーの主張は、単なる概念的な思想構成や何の効果もない道徳的なよびかけ等とは、明らかに違っている。

 右に述べたような活動の展開された一九一九年には、したがってシュタイナーのいろいろな講演の中に、くり返して人類の現状の分析が現われ、それは例えば次のような警告を発するきっかけとなっている。

 

 「もし皆さんが後三十年間、今と同じ形の大学教育を続け、また現在と同じ姿勢で三十年間社会の諸問題を考え続けていくならば、三十年後に皆さんの前にあるのは、荒廃し尽くしたヨーロッパでありましょう。皆さんはそれぞれの分野で、これからもたくさんの理想を提示することができましょうし、それぞれのグループから提出される個々の要求に対して、多くの論議をすることもできましょう。また必死に要求を出すことによって、人類の未来に何らかの寄与ができると信じて発言なさることもできるでしょう。けれどもこれらのいっさいは、もし人間の魂の根源から変化が生じこの世の中と精神的世界との関連を考察することから改革が引き出されてこなければ、まったく無効なものとなってしまうものです。学び直すこと、ないしは考え直すことがなされなければ、倫理的な意味でのノアの洪水が、またヨーロッパを襲うことになるでしょう。」

 

 それゆえに、人間の思索と感情と意志とを豊かにする新しい力を、魂の奥底から引き出してくる必要がある。「そして人間は、自分が魂の奥底で、いかに強く霊的生命の根と結合されているかを、各自で洞察しなければならない。」当然のことながら、ここでいう魂の奥底が、個人的な忘却や抑圧を蓄えているあの心理の深層を意味するものではないのは明らかである。ここでいわれているのは、むしろカール・グスタフ・ユングの分析心理学が典型との関連で集合的無意識と名づけている「創造的原像の世界」だといってよい。

 認識史的な見方をすれば、人智学とそれを前提として生み出された教育は、霊性の忘却の出発点にまで戻り、それを乗り越えようと努力する点からはじまる。シュタイナーは、しばしば「闇を踏み越える」ということを口にしており、これが――「認識心性」の時代である現代においては―― 明瞭な意識のもとに遂行されなければならないといっている。シュタイナーは、現代の学問も文明も決して否定しなかった。シュタイナーの人智学が目指しているのは、現実を補足し完全化することである。

 

 「人類の文化的発展の中へ流れ込まなければならないのは、普遍的で抽象的な精神世界のみでなく、具体的な精神世界が存在し、そこで私達が感じ望み行為するいっさいの行動をも含めて人間は全的に生きているという認識にほかならない。物質的なものそれ自身の中に精神的なものを求め、物質的なものを同時に精神的なものとして捉えることができるようになり、精神的なものの中に物質性へと移行するものを認め、物質的なものの中に活動的に働くものを認識するようになることである。そうすることによってはじめて、私達はまた人間についての認識それ自身をも獲得することができるようになるのである。」

 

 前述の分析心理学の創始者C・G・ユング(一八七五~一九六一)の晩年の著作の中に、この考え方と驚くほどに一致するものを見出すことができるが、彼のこの姿勢が、現代物理学(例えばヴォルフガング・パウリ)との稔り豊かな対話を成立させたのである。人智学もまた、これまでよりもさらに幅広く学際的な対話の中に入っていく必要がある。いうまでもなく、これは人智学者達の姿勢の問題である。”

 

         (ゲルハルト・ヴェーア「シュタイナー教育入門」(人智学出版社)より)

 

 “シュタイナーは、〈 〉が世界を貫いていることは、身体の健全な感情によって分かる、と言う。だから、これを否定する者は、身体的に病気なのだという。また、自分の内部に〈 〉を見出せない者は愚鈍だという。それに対して、キリストを受け入れるか拒むかは、その人の運命の問題であり、キリストを拒む人は不運なのだという(一九一八年一〇月十六日の講演)。〈 〉は宇宙の根源、天地の根拠であり、〈 〉は父の行為を成就する者だ、とシュタイナーは考えている”(P28、29)

 

        (西川隆範「ゴルゴタの秘儀 シュタイナーのキリスト論」アルテより)

 

*文中に、「物質的なものそれ自身の中に精神的なものを求め、物質的なものを同時に精神的なものとして捉えることができるようになり、精神的なものの中に物質性へと移行するものを認め、物質的なものの中に活動的に働くものを認識するようになる」とありますが、出口王仁三郎聖師の教えの核である「霊主体従」の教えは、残念ながら今の教学委員や宣伝使の方々の説明では「単なる概念的な思想構成や何の効果もない道徳的なよびかけ」に成り下がってしまったようにしか思えませんが、本来は、このように解釈され、実践されるべきであるように思います。また、このような認識は「三大学則」とも一致するものです。出口聖師によれば、「古代においては『三大学則』だけで充分であった」ということですが、我々がこの世界全体、万物を「真神の霊・力・体の顕現」と認識することができれば、あらゆる社会問題、環境問題等は解決し、犯罪も無くなります。私は、「霊主体従」の教えや「三大学則」の重要性について、もっと強調されて然るべきだと思っています。