国祖国常立尊の「封印」と「復活」が意味すること | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

 「初発の神諭」


 「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神(うしとらのこんじん)の世に成りたぞよ。梅で開いて松で治める、神国の世になりたぞよ。この世は神がかまわねばゆけぬ世であるぞよ。いまは獣類(けもの)の世、強いものがちの、悪魔ばかりの世であるぞよ。世界は獣の世になりておるぞよ。悪神に化かされて、まだ眼がさめん、暗がりの世になりておるぞよ。これでは世は立ちては行かんから、神が表に現われて、三千世界の天之岩戸開きを致すぞよ。用意をなされよ。この世はさっぱり新(さら)つに致してしまうぞよ。三千世界の大洗濯、大掃除を致して、天下泰平に世を治めて、万古末代つづく神国の世に致すぞよ。神の申したことは、一分一厘違わんぞよ。毛筋の横幅ほども間違いは無いぞよ。これが違うたら、神はこの世に居らんぞよ。いずれの教会も先走り、とどめに艮の金神が現われて、天の岩戸をひらくぞよ」(明治二十五年旧正月)

 

 “主神のご顕現なる、国祖国常立尊は、至厳志直の神政により、地の世界を治めていられたが、万(よろず)の神々によって、世の艮(うしとら)の隅に隠退させられ、長いあいだ、蔭から、この世を守りつつ時節の到来を待たれた。その間のご神名を、艮の金神と申し上げる。妻神の豊雲野尊(とよくもぬのみこと)は坤(ひつじさる)に隠退せられ、これを坤の金神と申し上げる。万の神々、すなわち人類は、神をないものとして、体主霊従的行動をつづけてきたが、ついに、このままでは、大破滅より外ない事態となった。そこで、いよいよ国祖が、再び表に現われて、一切を霊主体従の神律に立替え立直して、永遠に栄える『みろくの世』を実現される……。

 というわけであって、『初発の神諭』は、その最初の大宣言である。”

 

 “……人々が神を無視すれば、神は押し込められているのと同じである。人の心のなかに、良心はあっても、良心の声を、ぜんぜん無視する人にあっては、その良心は、心の隅に隠退している姿である。

 しかし、どんな悪人も、結局においては、良心の声にふるいおののかざるを得ない。というところに、厳然たる神の権威がある。『大本神諭』は、宇宙良心の叫びである。

 

 “長い間、体主霊従を黙認していたのは、ここに深淵な、神の経綸があるのであって、地上の世界では、すべてのものは、まず最初、体主霊従――利己主義(われよし)によって成長するのである。

 人間の生涯をみても、成人期までは、もっぱら体主霊従であり、利己主義であり、自分の体の成長のためには、他を犠牲にしてとんちゃくしない、親の苦労に、気がねしているようなことでは、子どもは大きくなれないのである。

 全体的な人類の成人のためにも、体主霊従の時代は、ある意味で必要であった。体主霊従によって物質文明が発達したのであって、今日までを、人類の体的成長期とみることができよう。大局からすれば、すべてのことは、計算ずみであり、神の経綸には、少しの誤りもないのである。また、善悪のむくいについても、それを体験することによって、真の悟りが得られるのであるから、教訓のためにも、鍛錬のためにも、苦難の体験は、重要な意味のあることであって、決して、神の大愛に反するものではない。

 いわんや、ご退隠の間といえども、蔭からさまざまに、み心をくだいて、お守り下さっていたのであって、あるいは釈迦を降し、キリストを降し、マホメットを生み、老子、孔子などを生んで、人類の善導に努めしめられたのも、みな大神の大慈大愛によるものである。

 

〈 世の中の一さい万事の出来ごとは神のよさしの経綸(しぐみ)と知らずや 〉

〈 何ごとも神のこころのそのままになりて進める世の中のみち 〉

〈 かりごもの乱れたる世を立直す大経綸は神のみぞ知る 〉

 

(大本教学研鑽所「大本のおしえ」(天声社)より)

 

*人間が、小宇宙として大宇宙と照応の関係にあるのであれば、この国祖国常立尊の封印と復活は、我々一人一人にも当てはめて考えることができるはずです。私は、原初において龍体であったという国祖の御再現、「第二の天の岩戸開き」とは、言いかえれば、火の洗礼=聖霊のバプテスマのことであり、ヨガで言えば、人体の根の国底の国である尾骶骨に封印されている蛇、クンダリニーの覚醒と上昇のことではないかと思っています(「霊界物語」には『臍下丹田』と書いて『あまのいはと』とルビが振られています)。そして、聖典「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」に『クンダリニーの覚醒は、ヨギには解脱を与え、愚者には苦悩のくびきを与える』とあるように、そのときまでに、ミタマが磨けていない者達、心身の浄化を怠っていた者達は、クンダリニーの火に焼かれて悲惨なことになるのかもしれません。

 

・「霊界物語」の拝読によるミタマ磨き 

 

 (昭和二十年十二月八日、(第二次大本)事件解決奉告祭において)

 “――お仕えする祭員はどういうふうに潔斎させていただいたらよいでしょうか。  

  「場所もないし、先ず、心構えが大事や、それには霊界物語をしっかり拝読さしてもらえばよい、それが何よりの潔斎じゃ」

とおっしゃられた。

 聖師様の瑞御霊(みづのみたま)の潔斎は、火の洗礼の潔斎である。先ず、精神を清浄にすることが何より大切である。そして勿論現実的にこちらも肉を食べたり、いろんな穢れたようなことを勿論してはいけないが、一番大事な心構えを、そういうことで教えて頂いた。”

 

(「大本教学」第二号 浅井道郎『大本の祭式について』)

 

 

*エドガー・ケイシーは、20世紀になって戦争が多発する理由について尋ねられ、「人々が神を忘れてしまったからだ」と答えています。皇道大本で説かれる「国祖国常立尊が根の国底の国に封印されている状態」を、人々が神仏を忘れてしまった状態、神を無視している状態と見なすならば、「大本神話」の内容は、キリスト教や仏教、イスラムなど、他のすべての宗教にもあてはまるのではないでしょうか。特に、20世紀になってからのファチマやガラバンダルなど世界各地での聖母マリアの御出現ともたらされた警告は、「大本神諭」と同種のもののように思います。神様はいまだに、全人類、我々の一人一人全員の身魂の中で「封印された状態」にあり、私は国祖の御再現とは、人体内に「封印された神」が覚醒されること、目を覚ましたクンダリニーの上昇によって、我々の内なる神性が発現すること、とも解釈できるのではないかと思っております。おそらく各人が自分の内なる神性に目覚めるだけでなく、他の人々の内なる神性をも認めることが出来るようになったときに、そのときこそ艮の金神様・国祖国常立尊の完全なる御復活が成就するのであって、それはまた、全ての宗教の目的とも一致するはずです。

 

・「教会」の最終目的  〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “未来において人間の中で発達することになる自由な宗教性はすべて、「単なる理論ではなく、直接的な人生の実践において、個々の人間の中に実際に神性の似姿が認められる」ということをよりどころとするのです。そうなるともはや宗教が強制されることもなくなります。もはや宗教を強制する必要がなくなるのです。というのも、そのときには、それぞれの人間が他の人間と出会うということがすでに、宗教的な儀式、秘跡となるからです。そのときには誰も、物質界に外面的な機構を持つ特別の教会によって宗教上の生活を支える必要がなくなります。人生全体が超感覚的なものの表現となることによって、教会がもちうるただ一つの意図は――もし教会がそれ自身を正しく理解するならば――「教会それ自体を物質界で不要のものとすること」のみになるのです。”

           (ルドルフ・シュタイナー「天使と人間」イザラ書房より)

 

*シュタイナーと同じく、出口王仁三郎聖師も『みろくの世になったら宗教はなくなる』と言われています。しかし一方で、『宣伝使(聖職者)は永遠に必要だ』とか、『徐々に(みろくの世へと)向かっていくのであります。ある日突然そうなるというわけではありません』とも言われており、皆が同時に、一足飛びに宗教不要のみろくの世に入れるということではなさそうです。私には、数々の警告を受けながら、頑なに神様の方を向こうとはしない者たち、自ら意識的に霊的な備えをしようとはしない者たちが、みろくの世に入れるとは思えませんし、実際に聖師様は、『みろくの世に置いてもらえぬ者たち』がいることも言っておられます。

 

*たとえいくら天変地異や世界戦争が起こって、人類が危機に瀕するような事態となっても、人々が神に立ち返らない限り、国祖大神、艮の金神様は相変わらず封印されたままです。また、天災に備えて様々な準備をしたり、予想される外国からの侵略に対して防衛力を増強することは必要なことではありますが、それら天変地異や戦争が『金神の渡る橋』であって、国祖の御再現を成就させるために、つまり人々の意識を神に向かわせるために引き起こされるものであるならば、まずは人々が改心して、神様の方に向き直ることの方が遙かに重要であって、それ以外に根本的な解決をもたらしてくれるものはありません。

 

*節分が近づいてきましたが、「大本神諭」によると、国祖国常立尊は、ちょうど節分の日に大地の東北(ウシトラ)の地である日本に封印されました。そして、天運循環してついに時が至り御再現になられたのも、同じ節分の日でした。大本の信徒にとって節分は特別な意味をもっており、出口聖師は、「節分大祭」の『大祓行事』は、『紫微天界の神事を地上に降ろしたもの』と言われています(残念ながら、今は当時の節分祭とまったく同じではありません)。

 

・節分の意義

 

 “……日本の人民が知らず知らずに地の先祖の大神を、悪魔邪鬼呼ばわりをしてきたのである。思えば実にもったいなき次第であった。しかし、知らぬ神に祟りなし、大神の広き厚き大御心によって、今日まで見直し聞き直しのり直して赦してくださったのであるが、もはや時節到来して、艮の大金神の御教示を聞かして頂いた以上は、今までの不調法を全部お詫びして一切万事を、みろくの世のやり方に改めなければならぬのである。それで、大本の節分祭は、国祖大神御大難の記念日を追懐して、従来の知らず知らずの御無礼と、御気障りのお詫びを申し上げると同時に、過去一年間のお礼と、来たる一年間の神様の御守護を願い、天津罪、国津罪、許々多久の罪穢れを速川の瀬に流し捨つる大神業であり、又國土を清め奉る大神事である。”

 

 (「神霊界」大正九年二月号 出口瑞月(王仁三郎)『節分の意義』)

 

 “大本では艮の金神が押しこめられたのも再現したのも節分の日であることから、節分の大祭にとりわけ深い意義を感じ、厳粛に祭典を執行する。

 豆まきの行事も

  「福は内、鬼(艮の金神)も内」

と唱和して、

 煎豆の代わりに生豆をまく。

  ひろった人はその生豆を大地にまいて収穫をあげ、天地のめぐみを感謝している。”

 

        (出口和明「出口なお、王仁三郎の予言・確言」光書房より)

 

*皇道大本においては、現在も広く一般に行なわれている「鬼は外」の掛け声と共に煎り豆をまくのは、艮の金神調伏・封印のための呪詛とみなされています。昔は仕方がなかったかもしれませんが、もはや国祖が新たな神政の開始を宣言された以上は、これまでの「鬼は外」の掛け声で煎り豆をまく節分は、この世界の主宰神である国祖への反抗行為に他なりません。もちろん、無知によるものであるかぎりは罰せられるとまでは思いませんが、これは恩寵を拒否するということでもありますし、三千世界の主宰神である国祖(鬼)を外に追いやっておいて、福が来るはずがありません。また、出口王仁三郎聖師の「王仁」も、本来は「鬼」です。出口ナオ開祖の「お筆先」で示された聖師(本名:上田喜三郎)の新しい名は、鬼三郎で(『きさぶろうはおにさぶろう』)、いくらなんでも「鬼」はひどいということで「王仁」の当て字が使われるようになりました。節分の鬼とは、実は出口王仁三郎聖師のことでもあります。

 

*それから、大本の節分祭では「甘酒」がふるまわれますが、これは、「天地の元の神様が世にあがられましたとき、お祝いとしてお供えになったのが甘酒でありまして、その甘酒をあやからして頂く……」(出口すみ子二代苑主)もので、大神様の乳の象徴でもあります。

 

*ちなみに、岡山の黒住教や奈良吉野の金峯山寺、そして整体協会でも、節分の掛け声は「鬼も内」です。

 

 

・堕天使論 〔ヤーコブ・ロルバーの「新黙示録」〕

 

 “ヤーコブ・ロルバー(1800~1864)はグラーツに生まれ、そこで生涯を過ごした。1840年3月15日、彼は特殊な体験に悩まされることになる。「心の近くから聞こえる」声が彼に「ペンを取り、書き記せ」と命じたというのである。

 この日を境にロルバーの人生は一変する。彼はトリエステにある劇場の聖歌隊第二指揮者という華々しい地位を約束されていたにもかかわらず、この職に就けば「声」の命ずる任務を遂行することができないという理由で辞退してしまったのだった。しかも結婚する予定もとりやめてしまう。ピアノ教師をしながら細々と暮らす―― これが彼の残りの人生であった。

 その一方で、彼は「声」の命ずるまま、日夜ペンを握って書き続けた。その草稿は一万ページに及んだが、まったく修正箇所は無かったという。

 彼の著作には科学に関する記述も含まれているが、その知識は当時の科学レベルからは考えられないほど高度である。これは明らかにその記述の主体が人間ではない、つまり神であることを示すためのものと考えられる。事実、彼の展開する原子や分子に関する解説や天文学に関する知識は、今日の科学に匹敵するものなのだ。十九世紀当時では、この知識を評価することすらできなかったと思われる。彼の著作が二十世紀の我々に宛てられたものだとする見解があるのはこの所以である。

 とはいえ、彼の著作が「新黙示録」と呼ばれていることに示されるとおり、記述の大部分は宗教に関するものである。「新黙示録」では、人間と宇宙の起源から今日に至るまでの軌跡について解説が加えられ、聖書に示される神の真の意図が明らかにされている。そこには堕天使ルシフェルに関する記述も含まれており、まさに記念碑的大著と呼ぶにふさわしい。

 彼の記述によれば、神が神秘的な御業によって自らの内にすべてを知る精霊を見いだすとき、激しい力の緊張が生まれるという。そして神は自らに語りかける。「私は思考を自らの外に置くことによって、自らの力が達成し得るものを知ることができる」

 行動を伴わなければ神といえども制限された範囲内でしか自らを知ることはできないという。行動を通じて自らの力を知り、そこに喜びを見いだす。これは芸術家が自らの作品を通じて初めて自らの内に秘められたものを知り、そこに喜びを見いだすのと同じである。だからこそ神は媒体となる存在を創造し、次のように自らに向かって繰り返し語りかけているのだ。「我が内に永遠の力が眠る。だから存在者を創造し、それにすべての力を与えることにしよう。そうすればその存在者が内包する力によって、私は自分自身を知ることが出来るのだ」

 

 こうして総ての力を与えられた精霊が創造された。この精霊こそルシフェル(光をまとうもの)であった。この名の由来は容易に理解されることだろう。ルシフェルは自らの内に認識の光を生み、いと高き精霊として内なる魂の両極性を十分に理解していたのである。

 自らの内に神に反抗する極が存在していることを十分に認識していたルシフェルは、神性を奪取しようとくわだてる。このとき彼は自分自身を無限の存在とみなすという誤りを犯している―― 創造されたものであるかぎり有限なものでしかありえないにもかかわらず、しょせん有限なるものに無限を理解させることは不可能なのだ。ついに誘惑にたえきれず、彼は神を虜(とりこ)にしようとした。その結果、地位を失い、神の好意を失った彼は、ますます誤った衝動に突き動かされ、他の創造物をそそのかして徒党を組む。かくして天界の闘争―― 善と悪との分化―― は始まったのだ。結局、神はルシフェルに与えた力をすべて取り上げることになる。ルシフェルはその徒党とともに生き残ったが、その能力と力のすべてを失った。

 もちろん問題は残った。この堕落したものたちをどうするかという問題である。神はルシフェルとその一味をすべて滅ぼし、改めて第二のルシフェルを創造すべきなのか―― しかしそれは、完全な精霊の創造が不可能である以上、同じ過ちを繰り返すことにはなるまいか?

 ルシフェルの自覚を促すためならば、取るべき道は一つしかなかった。ルシフェルの堕落が過ちによるものであるならば、いかにして彼にその過ちを贖(あがな)う機会を与えたものか?神の英知が彼の堕落の可能性を予見できなかったとはどういうことか?

 

 ルシフェルの謀反ののち、神が意図した物質世界の創造について、「声」はロルバーに「水晶のたとえ」をもって説明している。水晶はひとたび結晶してしまえばもはやその本質を変えることはできない。水晶はその本質に従って長斜面体、六面体、八面体などさまざまな形に結晶する。もし水晶が純粋なものでなければ、熱(愛)によってこれを溶かし、愛の熱波がひいてから再結晶させねばならない。これは人間の意思の解放についても同じことがいえるだろう。こうして純粋な水晶を産み出すことができる。賢明な化学者であれば誰でも純粋な水晶を結晶させることができるのだ。そして、「声」はロルバーに次のように語った。

 

 見よ、私は賢明な化学者である。私は不純物―― すなわちルシフェルとその追随者を愛の温水の中で溶かし、その魂を再び結晶化させることにしよう。こうすれば純粋透明な水晶となるだろう。この謀反は鉱物と植物の創造から人間の創造へと至る過程において勃発した。ルシフェルの魂がすべての物質世界を包み込んでいる以上、その魂は人間という形をとって現出しようとするに違いない。……

 このために、物質世界は、もしくは全宇宙は、もしくは物質的創造物としての人間は生み出された。人間の内面においてルシフェルの魂はその悪意の度合いに応じて幾重にも包み込まれ、闘争、誘惑、そして苦難にさらされる。その目的はまず第一に自らの欠点を徐々に気付かせること。第二に自らの自由意志で改悛すること。……いかなる場合であっても自由の原理が第一であり、完全の原理は第二である……すべての眼に見える創造物は堕落し、物質に束縛されたルシフェルとその追随者である偉大なる霊の断片から成る。……

 見よ、私がこの横柄な天使の存在のゆえに為していることを。この天使が高慢から解放されていたならば、地球も太陽も、いかなる物質も創造されていなかったことだろう。……いまだ完成せざる子供たちの成長に、洞察と完全性が増してゆくことに、これによって発生する行動に私は崇高なる喜びを見いだす。努力により達成される完全性を見る彼らの喜びは私の喜びでもある。

 

 ルシフェルの謀反を寛大に解釈したこの神の美しい言葉、そして堕落した天使と追随者たちをその自由意志に基づいて天界に復帰させるために神が選んだ手段を称賛せずにはいられない。さらに「声」は「放蕩息子のたとえ」をもってルシフェルに関する説明を続けている。すなわち、聖書において「放蕩息子のたとえ」ほど意味のある記述は他にない……ルシフェルの名には失われた息子の要素がすべて含まれているのだ。事実、今日の人類はアダムの不運な種子を受け継いだ失われた息子だけで構成されている、といっても過言ではない。「放蕩息子」とはすべての人間を意味する……神の言葉に従って生きる者たちは贖罪を通じて生まれ変わり、失われた息子はあるべきところに帰るのである。

 

 さらに「声」は堕天使を物質界を通じて天上に帰らせる神の壮大な計画について語った。もちろん、その達成には想像を絶するほどの時間がかかることだろう。いつの日か、非物質的な地球が無限の宇宙を回り、祝福された自由な天使たちが無限の宇宙に満ちあふれ、その祝福された世界が永遠に続くようになる、という。しかし、その日がいつ来るのか、人間の思考で推し量ることはできない。仮に数字を得たとしてもそれを理解することはできないのである。

 

 以上の通り、ヤーコブ・ロルバーに与えられた黙示によれば、物質界の創造はルシフェルと共に堕落した精霊たちを救済し復帰させるため、神が愛をもって予見し、はからった手段であったという。物質界を通じての贖罪の道は長く険しい。しかし、最終的には神へと至るのである。

 

(パオラ・ジオベッティ「天使伝説」柏書房より)

 

*結局ルシフェルとは、我々一人一人のことでもあります。

 

   

・I AM THAT I AM  (主なる神の御名)  エドガー・ケイシー

 

 “出エジプト記(3.14)によると、モーゼ80歳の時、神は神の山ホレブに顕現され、エジプトからイスラエルの民を脱出させる使命をモーゼに授けたとされる。モーゼが「イスラエルの民に対して、わたしに使命を授けた方の名前を何と説明すればいいのでしょうか」と尋ねると、神は、“I AM THAT I AM”という名の神が授けたと答えよ」と告げられた。
 この“I AM THAT I AM”は、日本語聖書では一般に「われは在りて在る者」という直訳的な訳がなされており、新共同訳でも「わたしはある。わたしはあるという者だ」という訳になっている。この謎のような名前故に、神学者たちもさまざまな解釈を示してきた。
 たとえば、カール・バルトは、神は客観的な定義を超えた存在であり、「名前の拒否にこそその本質を持つ」絶対的な「われたること」の告知であろうと解釈する。また、エルンスト・ブロッホは「わたしは、わたしが有るであろう者であるだろう」と訳し、それを「現実的な歴史状況に未来変革的な力としてかかわり続ける者のしるし」という風に理解する。あるいはユダヤ人哲学者マルティン・ブーバーは「わたしは、(まさに)そこにいるであろう者として、そこにいるであろう」と訳し得るとしている。
 一方、リーディングはこの“I AM THAT I AM”にきわめて明解な解釈を与えている。すなわち、最初の“I AM”は自己の内なる霊を表わし、次の“I AM”はより大いなる霊、つまり神を表している。つまり、“I AM THAT I AM”は、神の属性をあますところなく反映したところの自己(=神我)を意味する。あるいは自分(“I AM”)という個でありながら、全体(“THAT I AM”)と一体であることを意味すると考えることもできる。
 “I AM THAT I AM”という神の名の中に、すでに自己(“I AM”)を知ることが神(“THAT I AM”)を知る道であることが示されているのである。
 さらなる探究を望まれる方は、877-2、1158-9、1376-1、2533-8、3574-2等のリーディングが手掛かりになるだろう。”

         (エドガー・ケイシー口述「神の探求Ⅰ」たま出版より)

 

*エドガー・ケイシーは、晩年に、ある人から「あなたの最大の業績は何ですか」と問われた時、躊躇なく「『神の探求』というテキストをこの世に遺したことです」と答えたと伝えられています。このテキストは、日本エドガー・ケイシー・センター会長の光田秀氏によって10数年前に翻訳され、たま出版から出版されましたが(「神の探求Ⅰ」「神の探求Ⅱ」)、この本は途轍もなく貴重な本で、霊的な財産ともなるものです。あと、同じく光田秀氏が訳された「キリストの秘密」も素晴らしい内容で、特にクリスチャンの方にはぜひ読んでいただきたいと思います。キリスト教について多くの人が抱いている様々な疑問に、おそらく解決を与えてくれるはずです。

 

*私たち一人一人の体の中に、ただ一人の例外もなく、今このブログを読んで下さっているあなたの体の中にも、艮の金神様・国祖国常立尊が封印されているのであり、今やその目覚めの時が近づきつつあります。しかし同時に、国祖を再び押し込めようとする悪魔たちの活動も活発になっており、私たちがこのまま「神からの警告」を無視し続け、惰性的な生き方を続けるなら、祈りや瞑想、聖典の拝読、隣人への奉仕などを通じて意識的に神に近づこうとしないなら、そのまま彼ら闇の霊たちに呑み込まれてしまうことになります。どうかそのことを知って置いていただきたいのです。

 

・ルドルフ・シュタイナーの予言  「悪魔アーリマンの王国」

 

 “もし人間がアーリマンへと続く流れを正しい方法で理解し、洞察し、つい先日お話ししたような正しい軌道へと向かうことがないならば、なにが起こるでしょうか。そうなれば、アーリマンが特定の時期に西欧世界に受肉するとすぐに、人類の文化はアーリマン化されることになります。アーリマンはなにをもたらすのでしょうか。アーリマンはみごとな技術を用いて、霊視的な知識に関して、それまでは大変な苦労と努力と引き換えにすることによってのみ獲得することができたあらゆるものをもたらします。それがいかに計り知れないほど快適なものになるか、考えてみて下さい。人間はなにもする必要がなくなるのです。人間は物質的に安心して生きることができるようになるでしょう。人間は戦争の破局(訳注 この講演は第一次世界大戦直後に行われた)がやってきた後ですら、食べたり飲んだりすることができるようになるでしょう。そして、何らかの精神的努力について、心を煩わせる必要もなくなるでしょう。アーリマン的な流れは、「美しく、善く」進行していくことでしょう。正しい時期にアーリマンが西欧世界に受肉するならば、アーリマンは巨大な秘儀の学院を創設するでしょう。この秘儀の学院ではきわめて壮大な魔術が行われ、かつては苦労することによってのみ獲得できたすべてのものが、人類の上に注ぎ込まれることになるでしょう。わたし達はここで、地上に降りてくるアーリマンが一種の悪魔のような姿をして、人間に対してできるかぎりの悪を働く」などと、俗物的なことを考えてはいけません。そうではないのです。「私たちは精神科学について何も知りたくない」という不精な人たちはみな、アーリマンの魔力に負けてしまうのです。というのも、アーリマンは壮大な方法で、魔術によって非常に多くの人を霊視者にすることができるからです。アーリマンは個々の人間を恐ろしいほど霊視的にするでしょう。しかし、どのように霊視的になるかは、個々の人間でまったく異なっています。一人の人間の見る者は、二番目の人間には、そして三番目の人間には見えないのです。人びとは混乱し、霊視的な知恵の基礎を受け取ったにもかかわらず、互いに争ったり、喧嘩したりするようになります。なぜなら、さまざまな人間が見る者は、それぞれきわめて異なったものになるからです。しかしながら最終的には、人びとは自分の霊視能力にとても満足するようになるでしょう。というのも、かれらはそれぞれ霊界を覗き見ることができるようになるからです。しかし、その結果、地球の文化はすべてアーリマンの手に落ちることになるでしょう。自分の力で身につけなかったものをアーリマンから受け取ることで、人類はアーリマンの手に落ちるでしょう。「いまの状態にとどまりなさい。きみたちが望むなら、アーリマンはきみたちを全員霊視的にするだろう。なぜなら、アーリマンは大きな力もつようになるのだから」というのは人間に与えうるもっとも悪い助言になるでしょう。その結果、地球上にアーリマンの王国が建設され、地球全体がアーリマン化されるでしょう。そして、それまで人間の文化によって築かれてきたものは、いわば崩壊していくことになるでしょう。現代の人間が無意識的な傾向の中で欲しているよくないことが、すべて実現されることになるでしょう。ここで問題となるのは次のような点です。つまり、霊視的な種類の未来の知恵を、再びアーリマンの手から取り去らなくてはならないのです。私たちはここで、「本は一冊しかない。知恵は二つ存在しない。一冊の本だけが存在するのだ」と、いうことができます。ここで問題となるのは、その本を持つのはアーリマンなのか、キリストなのかという点です。人類がそのために戦わないならば、キリストはその本をもつことはできません。そして、そのために戦うことができるようになるためには、人類は「わたしたちはアーリマンが地球上に現われる時点までに、自分自身の努力を通して精神科学の内容を獲得し終えていなくてはならない」と、みずからに向かっていう必要があります。これが、精神科学の果たすべき宇宙的な仕事の内容です。精神科学の果たすべき宇宙的な仕事の本質は、「未来の学問は、このままアーリマン的であり続けることはないだろう」という点にあるのです。〈GA191 274〉”

 

      (渋沢賛+松浦賢「ルドルフ・シュタイナーの大予言」イザラ書房より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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