真の自己 〔ラマナ・マハリシ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “弟子  神は人格的なものでしょうか?

マハリシ そうだ。彼はつねに最初の人であり、あなたの前につねに立っている「私」である。あなたが世俗のものごとを優先するので、神は背後に隠れているように見える。あなたが他のすべてのものをあきらめ、彼のみを見るならば、ただ彼だけが「私」として、自己として残るだろう。

  弟子  実現の究極状態について、アドヴァイタ(不二一元論哲学)は神性との絶対結合を言い、ヴィシュタドヴァイタ(制限的不二一元論哲学)によれば、適正者のみの結合を言います。そしてドヴァイタ(二元論哲学)では、神性との結合はないと言っています。これらの内のどの見解が正しいと考えられますか?

マハリシ なぜ、未来のある時に起こるであろう事柄について思弁するのかね。「私」が存在すればすべては了解される。彼がどの学派に属そうと、彼が熱心な求道者であるならば、まず最初に「私」は何かを見つけ出させよ。そうすれば、究極状態がどんなものであるかを知る時間はたっぷりあるだろう。「私」が至高の存在に溶け込んでいるのか、彼とは別のものとしてあるのかがわかるだろう。結論を先に出すのはやめて、開かれた心を持とうではないか。

 弟子  しかしながら、究極の状態についてのある程度の理解は、有益な導きになるのではないでしょうか?

マハリシ 究極の実現状態がどのようなものであるかを、今決めようとすることには、何の目的もない。それには本質的な価値は何もない。

 弟子  なぜでしょうか?

マハリシ あなたが悪い原理に沿って進むからである。あなたの課題は、自己から放射される光によってのみ輝く知性に依らなくてはならない。制限された現われにすぎないものであり、そこからはほとんど光がやってこないものを、知性の一部で批判することは、無遠慮というものではないかね。決して自己には到達することのできぬ知性が、どうして究極の実現状態を確認することができ、ましてそれを決定することなどできようか。それはまるで、蠟燭の光の標準で太陽の光をその源において測ろうとするようなものだ。太陽のそばに来るまでもなく、蠟は溶けてしまうだろう。

 単なる推測に耽る代わりに、あなた自身を、ここで今、つねにあなたの内にある真理の探究に捧げなさい。”

 

(山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」(めるくまーる社)より)

 

・「もの言わぬ賢者」 (賢者は沈黙の行をしていたため、会話は筆談によって行われた)

 

 “「しかし、どこを見たらよいのでしょうか」

 「あなた自身の自己をお探しなさい。あなたは、その中に深いところに隠されている真理を知るはずだ」という答えが来る。

 「しかし、私は無知という空虚しか見出しません」と私はなお主張する。

 「無知はあなたの思いの中にだけ存在する」と、かれは簡潔に書く。

 「お許し下さい。師よ、でもあなたのお答えは、私を新たな無知の中に投げ込みます!」

 賢者は私の蛮勇にあって本当に微笑する。かれは一寸の間ためらい、眉を寄せ、それから書く――

 「あなたは自分の現在の無知を自分であると考えてきた。今度は、退いて叡智を自分であると思え。それは自覚と同じものである。思考は、人を山のトンネルの闇の中に運び込む牛車のようなものだ。それを引き返させると、あなたは再び光の中につれ戻されるのだ

 私は、まだ少し私を迷わせるかれの言葉を沈思する。これを見て、賢者は便箋をさし招き、鉛筆をしばらく空中に浮かせていた後に、こう説明する――

 「この思考の後方への転回が、最高のヨガなのである。今度はわかったかね」

 ごくかすかな光が、私の上に刺しはじめる。私はこのことを黙想する十分な時間が与えられれば、われわれは理解しあうことができるだろう、と感じる。それだから、この点はあまり追及しないことに決める。”(第7章「もの言わぬ賢者」P114~P115)

 

(ポール・ブラントン「秘められたインド」日本ヴェーダーンタ協会より)

 

「私」は誰か? (ラマナ・マハリシ)

 

 “「あなたは『私は知りたい』と言うが、言ってごらんなさい、その『私』は誰なのですか」

 かれは何を言おうとしているのだろう。かれは今は通訳者の助けを突き切って、英語でじかに私に話しかける。私はいささか狼狽する。

 「ご質問の意味がよく分からないように思います」と、私はぼんやりして答える。

 「質問がはっきりしないと言うのですか。もう一度考えてごらんなさい!」

 私はもう一度その言葉に頭をひねる。一つの考えが突然頭をかすめる。私は自分を指さして自分の名を言う。

 「それで、あなたはかれを知っているのですか」

 「生まれてこの方ずっと!」と私は微笑み返す。

 「しかし、それはあなたの肉体にすぎないでしょう!もう一度ききます、『あなたは誰なのですか』」

 私はこの変わった質問にすぐには答えることができない。

 マハーリシーはつづける――

 「まず第一にその『私』をお知りなさい。そうすれば真理もわかるでしょう」

 私の心にはふたたび霧がかかる。私は途方にくれる。この当惑は言葉で表現される。しかしマハーリシーはかれの英語の限界に達したらしい。かれは通訳者の方を向き、答えはゆっくりと通訳されるのである――

 「たった一つのなすべきことがある。あなたの自己を見つめよ。このことを正しいやり方でするなら、あなたは自分の問題のすべてに対する解答を得るであろう」”(第9章「聖なるかがり火の山」P149)

 

 “「あなたがおっしゃるこの自己とは正確には何なのでしょうか。仰せの通りだとすると、人の内部にもう一つの自分があることになりますが」

 かれの口元は一瞬、微笑にゆがむ。

 「人が二つの自分を持つことなどができますか」と、かれは答える。「この問題を理解するには、人はまず、かれ自身を分析する必要があります。長い間、他者の考える通りに考えるのが習慣であったために、いまだかつてかれは、正しい態度でかれの『私』に直面したことがないのです。かれは自分というものの正しい概念を持っていません。あまりに長い間、自分を肉体であり頭脳であると思ってきました。それだから、この『私は何者であるか』という探求をする必要があるのです」

 「あなたは、この真の自己を説明してくれ、とおっしゃる。何を言うことができますか。それは、それから人の『私』が生じ、それの中にそれが消えて行くはずの、それなのです」

 「消える?どうして人が自分の個人の感覚を失うことができるのですか」

 「あらゆる人の心にまず一番初めに出てくる思い、原初の思いは『私』という思いです。この思いが生まれて初めて、他のあらゆる思いは生まれてくることができるのです。第一人称代名詞『私』が生まれた後に初めて、第二人称代名詞『あなた』は現れるのです。もしあなたが『私』という糸を心でたどりながらついにその源に到るなら、あなたは、それが最初に現れる思いであると同時に最後に消える思いであることを発見するでしょう。これは、経験することのできる問題です」

 「そのような自己の内部への心理的探求を行うことが十分にできるとおっしゃるのですね」

 「そうですとも!最後の思い『私』が徐々に消えて行くまで、内に入って行くことができるのです」

 「何が残るのですか」と私は尋ねる。「人はそのとき全く無意識になるのでしょうか。それとも馬鹿になるのでしょうか」

 「そうではない!反対に、人の真の性質であるところのかれの真の自己に目ざめると、かれは滅びることのないあの意識を得て、ほんとうに賢くなるのです」

 「しかし『私』の感覚も間違いなくそれについて来るはずだと思いますが」

 「『私』の感覚は個人、つまり肉体と頭脳についています」

とマハーリシーは静かに答える。「人がはじめてかれの真の自己を知ると、ある別のものがかれの存在の奥底から生まれてきて彼を占領します。そのあるものは、心の背後にあります。それは無限で、神聖で、不滅です。ある人々はそれを天の王国と呼び、またある人々は魂とかニルヴァーナとか呼び、われわれヒンドゥは解脱と呼んでいます。あなた方は好きな名で呼んだらよいでしょう。このことが起こると、人は本当に自分を失ったのではなく、むしろかれは自己を発見したのです」

 最後の言葉が通訳者の口から出ると、あのガリラヤを放浪した教師が語った忘れがたい言葉が私の心に閃く。実に多くの善良な者どもを当惑させた言葉である。生命を得んと欲する者はそれを失い、生命を失う者はそれを得ん

 何とふしぎにこの二つの文句の似ていることか!しかしこのインドの聖者は、彼自身の非キリスト教的な方法で、極度に難しく、またなじみ難く思われる心理学的な道を通って、この思想に到達したのである。”(第9章「聖なるかがり火の山」P164)

 

 “次の段階では、私は知性から離れて立ち、知性が考えつつあることを意識してはいるが、同時にある直感的な声によって、それは単に道具にすぎないのだ、ということを警告されている。私はこれらの観念を、ふしぎに超越した形で見まもっている。今までは単に普通のプライドの的であった考える力が、いまはそれから逃れなければならぬものとなる。なぜなら、私は驚くほど明確に、自分が無意識のうちにそれのとりこであったことを知るからだ。つづいて、知性の外に立ってただありたい、という突然の願望が起こる。思考よりももっと深いところに潜りたいのだ。自分が頭脳の不断の束縛から救われたら、しかも自分の注意力はめざめ、活発に働きつつそうなったら、どんな感じがするか知りたい、と思うのである。

 離れて立ち、まるで他の誰かのものでもあるかのように頭脳の働きそのものを見まもり、思いがどのように生じて消えるかを見ることができる、というのはすでに十分ふしぎなことだが、人がまさに、人間の魂の最も奥深いところを隠している神秘を透過しようとしている、ということを直感的に悟るのは、更にもっとふしぎなことである。私は未知の大陸に上ろうとするコロンブスのように感じる。完全に制御され静められた期待が、スリルを与える。

 しかし、どのようにして、量り知れぬ年を経た思考作用の専制から自分を離すのか。私は、マハーリシーが決して思うことを強いて止めようと努力せよ、とすすめたことがないのを思い出す。「思いをその起源までたどって行け、真の自己が自らを現すのを見まもれ。そのとき、あなたの思いはおのずから消えるであろう」というのが、かれが繰り返し与えた助言である。それゆえ、思いの誕生地を発見した、と感じるので私はその注意をこの一点までつれてきた強力に積極的な態度をすて、完全に受け身の態度になる。相変わらず餌食をねらうヘビのように執拗に注意深くはあるが。

 この平衡を得た状態が優勢を占めるうちに、ついに、私は賢者の予言が正しかったことを発見する。思いの波は自然に消えはじめる。論理的合理的感覚のはたらきは零点にまで落ちる。およそ今日までに経験した最も不思議な感覚が、私を捕らえるのだ。急速に成長する私の直観力のアンテナが未知の世界にまでとどきはじめるので、時はくらくらとゆらぐように思われる。自分の肉体の感覚の報告はもはや聞こえも感じられも思い出されもしない。私は、自分は何時でもものの外側に、この世界の秘密のまさに縁のところに、立つであろうと思う。‥‥‥ 

 ついにそのことが起こる。思いは、吹き消されたろうそくのように消えてしまう。知性はそれの真の基礎のうちに引っ込んでしまう――つまり意識が、思考に邪魔されないではたらくのである。私は、自分が少し前から感づいていたもの、すなわちマハーリシーが確信をもって断言していたことを、認識する。心は、超越的な源泉から発するのである。頭脳はちょうど熟睡中のように完全に停止状態に変わったが、意識はいささかも失われてはいない。私は完全に落ち着いているし、自分が誰であっていま何が起こりつつあるかということを十分に知っている。しかし、私の自覚は、別の個人、というせまい限定の中から引き出された。それは、荘厳に一切を抱擁するあるものに変わってしまったのである。自我は尚存在する。しかしそれは、変化した、光り輝く自我である。私であったつまらぬ人格より遥かに優れたあるもの、もっと深い、もっと神聖な存在が意識の中に現われて、私になるのだ。それと共に、完全な自由の驚くべき新しい感じがやって来る。なぜなら、思いは常に行きつ戻りつしている織機の杼(ひ)のようなものであって、それの専制的な動きから解放されることは、牢獄から戸外に歩み出るようなものなのであるから。

 私は自分を、この世の意識の外に見出す。今まで私をかくまっていてくれた地球は、姿を消す。私は光り輝く海のまん中にいる。その海は、それからもろもろの世界が創造されるところの原始の材料、物質の最初の状態である。それは口には表現できない無限の空間にひろがっており、信じられないほど生き生きとしている

 私は閃光のように、空間内で演ぜられているこの神秘的な宇宙のドラマの意味に触れ、それから私の存在の根本の点に戻る。私は、新しい私は、神聖な至福の膝に憩う。私は忘れ川の水の盃を飲んだので、昨日の苦い記憶と明日の心配とは完全に消えてしまったのである。私は神の自由と、ほとんど描写の不可能な幸福を得た。私の両腕は深甚な同情をもってすべての被造物を抱く。なぜなら私は、すべてを知るということは、単にすべてを許すと言うだけでなく、すべてを愛するということなのだ、ということを、能う限りの深い形で理解するからである。私のハートは狂喜のうちに改造される。‥‥‥”(第17章「忘れられた真理の一覧表」P317~319)

  

(ポール・ブラントン「秘められたインド」日本ヴェーダーンタ協会より)

*この本「秘められたインド」は、1934年にイギリスで出版された「A Search in Secret India」の翻訳であり、ラーマクリシュナ・ミッションの日本支部、日本ヴェーダーンタ協会の会報「不滅の言葉」に連載され、その後書籍化されたものです。1930年ごろに、東洋哲学の研究者でもあったイギリスのジャーナリスト、ポール・ブラントン氏は、真理を求めてインド全土を旅し、各地で様々な賢者やヨギたち、マドラスのハタヨギ、沈黙(マウナ)の修行者、占星術師、シャンカラ・アチャーリヤー、そしてラーマ・クリシュナの高弟であり、ヨガナンダ師の自叙伝にも登場するマヘンドラナート・グプタ師(マスター・マハサヤ)など、数多くの霊性の師たちを訪れて教えを受け、最後に南インドのアルナチヤラの賢者ラマナ・マハリシのもとで、霊的覚醒、アートマンの体験を果たします。中井ハルさんの訳も格調高く、素晴らしい内容の本です。