跡見花蹊女史の観音信仰 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “次の信仰談は、女子教育の先覚者跡見花蹊女史が如何に観音信仰に篤かったかを現跡見高等女学校校長杏子女史が親しく語られた御話である。

 

 跡見家は仏縁のある家柄であるとともに勤王の家でありますから、神仏に対して代々の人が尊敬の念を抱いてゐました。殊に先代(花蹊先生)はさういふ点でぬきんでて居りました。

 仏教に深く帰依して、信仰心厚く、喜びに満ちて日々を楽しく過ごしてゐました。先代ほど幸福な仕合わせな方はないと、今も沁々と感じて居ります。よく夢の話をして、

 「大悲の御手にすがってゐるのをみた」

などと話し、心から安らかに、人のして下さるとほり有難くお受けして朗らかに仕合わせに自分の身が楽土にあるといふことを深く信じてゐた方でありました。

 それだけに仏様にはよくお仕へなさいまして、八十七歳で逝くなられますまで、仏様の朝のお給仕は、お茶を沸かすからして自分でして、人手にふれさせませんでした。

 毎朝お花を手向けるのに、自分の家に小さいお庭のやうなものがほしいと始終言ってをられました。それを聞き知った生徒の父兄の方たちが、白子の方に地所を購って下さったので、そこに花園を作らうと思ってゐるうちにつひに逝くなられましたのは、ほんとうに残念でございました。

 先代は元来、非常に自重する方であり、自立自生といふ方でありましたから、自分のことは何でも自分でしました。それに仏教信仰の精進心が大変かたい方でありました。

 日露戦争当時には、皇軍の勝利を祈るため、毎朝早く起きて、心に曇りのない食事の前に香をたいて、法華経二十八巻の浄写をすることを日課としてゐました。それとともに浄土三部経も浄写されました。この二つは跡見家の宝物といたしております。

 また或る年の夏のことでありました。仏教修業のため、私が信州の山中にまゐることにいたしました。そのことを私が言ひますと、その時ばかりは大へん怒られまして、何故自分を連れて行かないかと申されます。然し何としてもまゐりますところは高い山で、何も彼も不自由であり、暑中でも水で手を洗ふと氷の様に冷たい寒いところでありますから、年寄りの方はお連れ出来ないと申しました。

 すると先代は、それでは一週間の間、自分の家で山中ですると同じ修業をするから、と申しまして、私の留守中七日の間、朝は三時半に起きて、終日念仏修行をされました。如何に年を取って居りましても、精神の為には、自分でするといったことは、必ずやりとげる方でありました。

 私が修業ををへて山から帰るときに、菩提樹の花の咲いてゐる枝をお土産にもってまゐりますと、先代が大へん喜ばれて、

 「この菩提樹に就いては話がある。自分は菩提樹の葉と実を絵表にして描けといふお示しを頂いていたが、菩提樹を見ることが出来ないでゐた。自分が七日の間精進潔斎してゐたからこれをお授け下さったのだ」

と申しまして、非常な喜びで之を写生し、弁栄上人のお描きになった阿弥陀を拝包して、雲上出現の阿弥陀をかいてよろこばれました。

 観音さまを深く信仰してゐまして、浅草寺にはよく参詣しました。

 さうしたことと、身体の小さい方でしたから、私が先代を「観音様にしませうね」と云ひますと「さうして貰はう」といってゐられましたのを、先代が逝くなってから安田善二郎氏の御長女の安田てる子さんがきかれて、観音様を作るのはどうぞ私だけにさせて戴きたいと仰って下さって、現在、学校の中講堂におまつりしてある櫻観音を御寄贈下さったのでございます。

 そして先代の抜けた歯と、白骨にした歯をおいてゐましたので、これを櫻観音の蓮台の裏から入れました。それこそ跡見女学校の持仏として、また生徒を指導する大きな精神として、おまつりしてをります。

 中講堂に集まる時は先づ櫻観音を礼拝して十句観音経をとなへ、それから訓話なり修身なりの話をすることに致して居ります。”

 

(中根環堂「観音の霊験」(有光社)より)

 

*跡見学園女学校の創立者、跡見花蹊先生は、教育者、日本画家とてしてだけでなく、熱心な仏教信者としても知られていました。一時期日蓮宗に傾倒しておられましたが、その後、山崎弁栄上人の光明主義に帰依され、弁栄上人の高弟であった笹本戒浄師の指導の下に長年念仏修行をされて、「見仏」など様々な霊験を得ておられたことが伝えられています。貞明皇后様と御面会になられたときには、弁栄上人の御遺稿『人生の帰趣』とともに、同じく弁栄上人の手による米粒片面に六歌仙とその代表の歌一首づつ六首を書かれたものや、米粒全面に般若心経二百六十二文字を書写されたもの等を献上しておられます。

 

*上の文中には「杏子女史」とありますが、これは跡見李子(ももこ)女史の間違いであろうと思います。この方は跡見家の養女で、跡見高等女学校の二代目の校長になられた方ですが、やはり光明主義に熱心に帰依され生涯仏道修行に精進されました。

 

 “其の頃のお師匠さま(花蹊女史)と(李子)校長先生のお心を占領しているのは如来の事ばかりで、よくお夢にありがたい事をごらんになるようで、お茶の間のお話は又してもそうしたお話になります。校長先生が或る朝早く、だしぬけに竹内さんに「楞厳経(りょうごんきょう)というお経がありますか」とお電話しておられました。

 「それはありますよ」「ゆうべ不思議な夢を見ました、これから仏様のりょうごん経のお説教があるというので、たくさんの菩薩方があつまっておられました。よく見ると仏様に近いお席の菩薩様は皆、裸で後の方は衣をつけておられました。後の方にもきわだって美しいお方は矢張り裸でおられ、それは観音様だとききました。解脱した菩薩方は皆裸形で、そこまでいっていない方は衣をつけておられるのだときいて、私は思いきってパッと着物をぬいで前の方に飛び出そうとしましたが、ハダカが急にはずかしくなって又肩にかけた、ところで夢から覚めました。」

 

(熊野好月「み手にひかれて」(光明婦人会)より)

 

*光明主義はもともと浄土宗系なのですが、跡見花蹊女史の日蓮上人への崇敬の念は生涯変わらず、弁栄上人ご自身も、散々「念仏」の悪口を云って居った人物であるにもかかわらず、日蓮上人のことを高く評価しておられました。石原莞爾将軍や宮沢賢治も日蓮上人と法華経に熱烈に帰依しておられましたが、おそらく彼の教えでなければ救うことの出来ないタイプの人々も相当数いたでしょうし、日蓮の登場が既存の仏教界にかなりの刺激を与え、それが当時の堕落した僧侶達の問題の改善に結びついていったのは事実ですし、彼によって日本仏教はより完全なものとなったといえるのかもしれません。また、彼の遺言書である「波木井殿御書」に、『艮(うしとら)の廊(わたりどの)にて尋ねさせ給へ、必ず待ち奉るべく候。(霊山浄土へ来られたなら、その入り口である艮(北東)の渡り口で日蓮をお呼びなされ。必ずそこでお待ちしておるから)』とあるのも気になります。

 

*跡見花蹊女史と光明主義の関係については、「”大ミオヤの使者” 山崎弁栄(べんねい)聖者」にまなぶ」のHPにも詳しく載っております。大変勉強になるサイトなのですが、しばらく更新が滞っており、それが残念です。

 

*あと、「弁栄聖者開山のお寺 弁栄庵」のHPもあります。素晴らしいサイトです。ぜひこちらを訪れることで、多くの方々に仏様との結縁を果たしていただきたいと思います。

 

*この本「観音の霊験」は昭和15年に出版されたもので、著者の中根環堂師は戦前に曹洞宗の総持寺が設立した鶴見高等女学校の校長をされていた方です。なかなか読み応えのある本で、「松井岩根大将の興亜観音」などの興味深い話が載っています。この本の中に、浅草寺の清水谷恭順貫首が書かれた「新釈観音経講話」のことが紹介されているのですが、これは長らく絶版となっていたのが昭和46年に「観音経を語る」と改題されて(何故か岡本かの子さんの本と同じタイトル)文一出版から再版されました。しかし、こちらもまた既に絶版となってしまっています。良い本なのに実にもったいないことです。

 

*もともと「観音経」とは、「法華経(妙法蓮華経)」八巻二十八品の第二十五番目の一品であり、本来は独立した経ではなくて「法華経」の一部です。つまり「観音経」を読むことは「法華経」を読むことでもあります。そして「般若心経」も、冒頭に『観自在菩薩行深般若波羅蜜多時……(観音さまが、とても深い智慧を身につけるための修行をしていた時に……)』とあるように、観世音菩薩の教えです。さらに、観世音菩薩の像には頭上に化仏として阿弥陀仏が表わされているように、本地仏は阿弥陀如来です。観世音菩薩は、日本仏教のすべての宗派にとって、宗派の垣根を超えて等しく崇拝の対象となり得る唯一の仏様だと思います。

 

・浄土宗の聖僧、山崎弁榮上人(1959~1920)のお話

 “仏様(阿弥陀如来)の絵ではなく、観音様をかかれるのを訊いた人に、
  上人「釈尊ではだめだったが、弟子の目連の教えで始めて解脱を得たものもある」。”

 

 “上人「ある機類のためには方便教によらざれば労して効なく、またある機類のためには真実教にあらざれば真受しがたし」。”

 

 “上人「今に遠きか近きかはしらず、宗教の革命は必ずきたるべきものとおもえば、うれしくも感じられて候……さてなににしても、やがてきたるべき宗教革命の期までの仕事を、ただむだに働いているか、真実その準備として働いているかの二つにて候」”

 

(田中木叉「日本の光 弁栄上人伝」(光明修養会)より)

 

 

*ちなみに出口王仁三郎聖師は、『富士の神霊である木の花姫は仏者のいう観世音菩薩である』と言われ、達摩とともに、観世音菩薩の絵もかなりの枚数を描いておられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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