伊都能売(いづのめ、出口聖師の神格) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・伊都能売(いづのめ、出口聖師の神格)

 

 “吾々大本人の唱導する、伊都能売の御魂とは、如何なる神格を具有する神であるかと云ふに、古来仏教家の間に唱へて来た、観昔に等しきものである。神道にては、木の花姫命と称へて居る神の事である。

 観音の性質を調べると、報身の観音あり、法身の観音あり、応身の観音あり、或は蔵通別(ぞうつうべつ)教の観音あり、円教の観音あり、理想の観音あり、事相の観晋あり、分身の観昔あり、本体の観音があつて、その一々の意味が、幾分づゝ違つて居る如くに、木の花姫命の性質又は御活動の点に於ても、幾分の違いがあるのである。

 扨て茲に読明せんとする、観音即木の花姫なる伊都能売神は、右のやうな狭い意味の者では無く、色合の付いた木の花姫でも無い。仏祖の言葉をかりて云へば報、法、応三身一体の観音、即ち木の花姫神であつて、絶対的の一実法如の観音、木の花姫をいふのである。

 木の花姫榊は、本有無作(ほんゆうむさ)の一実体神であつて、決して世界の森羅萬象の存在より推理せる所の、運命上の唯一神論的の神でも無く、又単に自然界の因果律を見て宗教化した、酬因感果(しゅういんかんか)上の一神格でも無い。木の花姫神は、無始本有妙覚円満の神であって、天地宇宙に遍満し一切の時、一切の処を悉く照覧する処の神である。仏家の所謂、無所不至の宇宙の一大生命である。大本尊である。然も体の上に於ては、本然として衆生と一如なる神格を有し玉ふ神であって、所謂汎神的一神観上の、或は一神的汎神観上の神格が、即ち伊都能売神で、又の名は木の花姫神、仏称聖観音である。

 信仰の上から見れば、世界一切教化の現象とも云ふべきものは、悉く、観音即木の花姫神の活動であつて、天地八百萬の神も、仏教の諸々の仏も、諸宗教の神々も、世界一切の教典も、一切の教化的人格部ち釈迦も、孔子も、基督も、皆悉く木の花姫神、観音の顕現である。世界一切宗教の本尊神は、悉く木の花姫神 即 観晋即伊都能売神の活現であつて、世界を創造せりと云ふ基督教の神や、婆羅門教の大自在天大梵天、ウラル教の盤古神王の如きも、木の花姫神即観音の一顕現として見らるゝのである。厳の御魂、瑞の御魂の神も、亦た伊都能売神の分身的活現であります。”

 

 “伊都能売神は慈愛の本源であつて、如何なる罪悪者をも救済して、一人も漏さない絶対無限の慈悲の神である。精神界は勿論、現界に於ける人間一切の苦悩を払ひ清めて、天国に導き玉ふ愛善神であつて、その愛善たるや絶対無限である。故に既成宗教の唱ふる如き、審判的思想は全然無いのである。善悪を超越し且つ審判思想を打破する、大愛大善大慈悲神であつて、一人と雖も蒼生の滅亡するのを忍ぶことの出来ぬ愛の生神である。而して霊肉の調和に就ても、難行苦行の修行を経過せず、信仰と歓喜との内に実現せしめんとする、真の絶対愛に住する神である。”

 

       (「出口王仁三郎全集 第一巻 『伊都能売』より」

 

*出口聖師と等身大に作られた伊都能売観音像(陶製)は、京都府亀岡市の大本の聖地・天恩郷の「ギャラリーおほもと(作品展示室)」で拝観できます(展示品が入れ替わることもあるので、事前にご確認ください)。