「回向」について 〔山崎弁栄上人〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “これは弁栄聖者が仰ったお話でありますが、三河の国に或るお寺がありました。お子さんが多く、もしぽっくり自分が死んでしまったら妻子が路頭に迷うであろうと住職が心配しまして、お金を作ってやりたいと思いました。別にお金を貯めるということがいけないというのではありませんが、そのお金の儲け方が非常に悪かった。人の道はずれた悪辣なやり方をしました。ところがその住職は病気になって命短く死にました。それで弟弟子があとの住職になりました。

 死んだ住職は無間地獄に堕ちました。「わしは無間地獄に堕ちている。こうした冷たさに毎日苦しんでいる」とあとの住職に食らい付きました。それは身を裂かれるばかりの寒さでした。「私の冥福を祈ってくれ」といってどこかへ行ってしまいましたが寒さだけが残りました。寒塗(かんづ)に堕ちたのですね。

 三回忌の時であります。先の住職が又やって来て「大いに苦痛が安らいだ。今一息のところであるからよくお念仏して回向してくれ」と頼みました。それで今の住職は一週間不眠で別時をしました。ところがお寺のことですからよんどころない用事で檀家に行くことになりました。その外出する時、「私の留守中入ってくださるな」と言って出て行きました。

 大体人間というものは、絶対入ってはいかんと言われると、よけいしてみたくなるものでございますね。そこでお母さんは、「覗き込んじゃいかんと言うが一体何があるんであろう」と思って、留守中に襖を開けて覗き込みしました。すると死んだはずの前の住職の後ろ姿が見えました。それで今の住職はその話を聞いて、「袈裟衣をつけてお内仏の前で拝んでいるのであれば、寒塗の苦しみも安らいだのであろう」と安心致しました。」。

 礼拝儀四頁の三行目に「もし三塗勤苦の處にありて此の光明を見たてまつらば」とあります。三塗というのは、地獄・餓鬼・畜生、こういう地獄道・餓鬼道・畜生道を三悪道と言います。それとまた「塗」又は「途」というのは道とか塗炭の意味ですが、地獄のことを猛火で焼かるる世界というので火塗という。それから餓鬼の世界のことを刀で身体を切りさいなまれるような苦しみというので刀塗という。また畜生道を互いに食い合う世界というので血塗と、こういうふうに申します。”(P43~P44)

 

 “ところが三塗勤苦の苦しい処におりながら、如来様のお光明を拝む。お念仏はできないんでございますが、御回向ということによって、如来様はその者はどこにいるかということはご存じだから、お光明を以てお照らし下さる。すると火塗・刀塗。血塗に堕ちている衆生は、そのお光明を拝むと苦しみが止まる。そこでその三つの世界に生きながらえている寿命が終わったならば、そこから生まれ変わって人間界の身となり、お念仏できるようになり、やがて救われるようになる。そこのところを「皆休息を得て亦苦悩なく寿終の後皆解脱を蒙らむ」とお釈迦様おっしゃったわけです。

 弁栄聖者は「御回向するとその御回向の功徳によって、三悪道というこの宇宙世界の監獄にいる方々の苦しみが止まるから、御回向は差し入れみたいなものだ」とおっしゃいました。それで「今の仏教は差し入れ仏教だ。三悪道に堕ちない人を作るという処に本来の仏教の目的がある。」という意味のことをおっしゃたんでございますね。”(P48)

 

(「杉田善孝上人御法話録 全十章」(光明会本部聖堂)より)

 

・現存者(生きている人)への回向

 

 “ふと思い出したのが、杉田善孝上人がご紹介して下さった、新潟県柏崎極楽寺の故籠島咲子夫人の逸話。

 弁栄聖者との霊的因縁が深く、聖者ご遷化(1920年)後、仏眼を開かれた方。その咲子夫人が、関東大震災の1923年9月1日の前日、念仏三昧定中に如来様(霊応身)から啓示を受けられました。

 

 「明日、関東で焦熱地獄が起こる、その被害が少なくなるように、ご回向をしなさい。」

 

 仏教で回向というが、それはお坊さんのお決まりの仕事で、果たして効果があるのか?この種の疑問を持たれている方も多いと思います。結論を言えば、「回向は届く」といいます。

 

 「位牌を拝みますか。それはまちがっていましょう。位牌を拝むのではなく、位牌の霊を如来様にお救い下さいとお願いするのです。」

  (田中木叉著『日本の光(弁栄上人伝)』 )

 

(笹本戒浄上人)「私は別回向を致しません」。

(弁栄聖者)「それは矢張りなさった方が宜しうございます」。 

  ( 『笹本戒浄上人全集3 無我と輪廻と回向』光明会本部聖堂出版 )

  (注)総回向に対し、別回向とは、特定の対象者に対する回向のこと。

 

 私たちの根底は如来法身であり、不二平等でありますので、他者との感応道交が起こりうる、といわれています。

 私たちは、亡くなった方に対し「仏さん」、または、「成仏してください」、と言ったり、祈ったりします。

 実際はどうかといいますと、

 「亡くなった方への回向により、その方がその回向の功徳によって成仏することはないが、その回向の功徳によってその回向を受けた者が、成仏へと歩みやすくなるのである」

と言われており、この回向の解明は、とても腑に落ちます。

 

 「回向」とは、生存者の死者への恩返し、また、生存者のおつとめ、義務でもありましょう。

 「絆」は、死によって終わることは決してない。

 

 なお「回向」は、より事実を正確にいえば、

 「生きている者への回向の方が、より効果的である」

と弁栄聖者はいわれています。

 「一心十界」。

 生きている者の方が、心がより可動的であるからだと思います。

 

 現代人は、実生活において、この世の生への関心が強すぎ、死後、死者と向き合う時が疎かになってはいないでしょうか?

 今回の大震災を契機に、考え続けています。

 

(「“大ミオヤの使者” 山崎弁栄(べんねい)聖者」にまなぶ)HP(2012年3月12日付記事)より)

 

*光明会とは、「光明主義」を説いた近代の宗教家的偉人・山崎弁栄聖者(1859~1920)を通して、浄土宗祖・法然上人(1133~1212)の信仰を現代に生かしていこうとする人たちの集まりです。主に各地の浄土宗の寺院で定期的に念仏会を開いています。今年の5月20日、21日には、神奈川県相模原市の光明学園相模原高等学校で「第47回 法のつどい」が行なわれる予定で、法要中に、亡くなられた方ならびに現存者へのご回向があります(一霊千円)。

 

*光明会発行の機関誌「ひかり」は、私も購読しているのですが、非常にレベルの高い内容で、大変勉強になります。

 

*引用させて頂いたsyou_en氏のブログ『「“大ミオヤの使者” 山崎弁栄(べんねい)聖者」にまなぶ』は、長らく更新が止まっていますが、こちらにも数々の貴重な教え、情報が紹介されており、「霊性」を探求しておられる方々にとって非常に参考になるブログです。

 

*もちろん、光明会による回向でなければならないというわけではありませんし、回向が仏教の本来の目的というわけでもありません。しかし、各自が自分の信じる宗教の流儀に従って『回向』することは、亡くなられた方々の救いや、生きている者の霊性の向上だけでなく、これから起こるであろう災害の被害を少なくするためにも必要なことだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング