「墓」がないと天国に行けない〔シュタイナー〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “墓は不要と考える現代人は少なくないと思う。大叔父にもらった本には、死者の霊魂は墓に拠って修行する、と書いてあった。墓がないと修行できず、困るのだというのである。そして、墓がないために墓を欲している霊魂の例が述べられている。

 二〇世紀の神秘学者ルドルフ・シュタイナーは、死者は墓の形によって天への道を学ぶ、と述べている。そうならば、墓がないと、天上への道が分からずに、迷ってしまう可能性があるということになる。自分でよく冥界・幽界・霊界・神界の地理をわきまえているなら、墓の助けを借りなくても天に赴けるだろう。そうでない場合、墓という地図・指標が必要になってくる。そのことを知らずに、宗教無用の埋葬をした場合、遺族に思わぬ迷惑をかけないともかぎらない。葬儀・墓石不要と言っていたのに、死んでみたら訳が分からず、遺族に助けを求める霊魂もいるはずだ。家族にも心霊知識がない場合、さまよいつづけることになるかもしれない。

 位牌は死者と遺族が出会う媒体だ、とされている。去年の暮、カトリックの聖具店に行ってみた。家庭用の祭壇がいくつも展示してあり、そのなかの和風の祭壇は仏壇にそっくりである。また、位牌も十字架形のもの以外に、仏教の位牌そっくりのものも販売されている。

 正月を京都で過ごして関東に戻る前日、知り合いの親友が亡くなった。翌々日、その知人から「舅の帰幽後、たえがたい空腹を覚える」という電話があったので、「お供えをするように」と話した。そうしたら、すぐに空腹感が消えて感謝の気持ちに満たされた、という連絡があった。私の見るところ、知人の親友は舅が亡くなってから、病巣ができたように思う。舅の遺体は病院に献体された。遺体がないためもあろうが、唯物論者の遺族は葬儀をしなかった。墓も位牌も仏壇・祭壇もない(知人の親友も埋葬の予定なしとのことである)。

 先に述べたように、独力ですみやかに往生・成仏できるのは、生前に真剣に彼岸について探求してきた人である。探求者・修行者でない場合、死後多かれ少なかれ迷うのが普通だろう。順調なら死後二年くらいで霊魂は落ち着く、と日本では言われてきた。

 仏教の説く「無」を霊魂否定と受けとる人もいるし、聖書の文言に基づいて死後に霊魂は存在しないと主張するキリスト教の一派もある。宗教哲学や神学を学ぶのは大事なことだが、心霊世界の現実についても知ろうとしないと、実際の霊魂の問題に対処できない。心霊知識の欠如が蔓延すると、霊界の現状を把握できない死者たちが戸惑い、その思いが地上に伝播する。その思いを遺族が感知できないと、死者を供養することもなく、混乱が続く。”

 

(日本心霊科学協会「心霊研究」2010年3月号 西川隆範『瞑想と儀式-その由来・発展・未来像を探る(肆拾捌)』より)

 

 

 “今日でも古い風習が残っている土地に行くと、教会のまわりに墓地があります。なぜそうなっているのか、私たちは理解しようと思います。だれもが墓を建てられたわけではありません。しかし、教会がみんなにとって共通の墓でした。「私を物質界・地上に結び付けていた身体から正しい方法で離れるために、私はどのように広がっていこうか」という心魂の問に対する答が教会なのです。教会の形は、身体を捨てた心魂が欲する形なのです。

 古代に由来する文化は、精神世界についての感受・感情・直観との関連においてのみ理解できます。教会を建て、まわりに墓地を作った人々の感情を、本当に感受しなくてはなりません。

 「私たちから離れてゆく心魂よ。おまえが欲する形態を、私たちは建設する。そうすれば、おまえがまだ身体のまわりを飛び、まだ身体の近くにいるとき、おまえが死後に受け取りたい形をすでに持つことができる」という感情が、彼らにはありました。

 教会の形が、問いを発する心魂への答えでした。このように、建築の芸術性に目を向けると、地上生の終焉が示されます。

 たしかに、すべてが変容していきます。死者崇拝から発した建築が、最高に生命を形成するものになりえます。それを私たちはゲーテアヌムで試みました。

 しかし、もともと物質的身体を捨てた心魂の原則から建築は発展したのだ、ということを理解しなくてはなりません。人間が死の扉を通過したときに、実際に身体を越えて成長する心魂の原則から、建築は発展したのです。”

 

 (西川隆範訳・ルドルフ・シュタイナー「シュタイナーの美しい生活」(風濤社)より)

 

 

 “人間が死の門を通っていくときには、それまで秘せられていたすべての魂の力や憧れも表に現われて、死者となったその人の魂に影響を及ぼします。その人が生前、心中ひそかに抑えていた願いのすべてが浄化期(カマロカ)を生きる魂の中に現れます。この世で霊学の敵であった人たちも死の門を通った後では、霊学をこの上なく熱心に求めようとします。霊学嫌いな人が死後になると、霊学を求めるようになるのです。

 そうすると、次のようなことが生じます。……もしその人に生前、霊学書を手渡そうとしたら、叱りつけられたことでしょう。けれども、死者となったその人に対しては、霊的に深い内容を持った書籍、聖書やお経を読んであげること以上によい供養はないのです。生前の死者の姿を生きいきと心に思い浮かべながら、心の中で、または低い声で、死者たちに読んで聞かせるのです。そうすれば、それが死者に対してもっとも好ましい働きかけになります。そのような例を私たちは人智学運動の内部で数多く経験してきました。家族の誰かが世を去り、後に残された者が、その死者に対して朗読して励ました例をです。そうすると死者たちは提供されたものを深い感謝とともに受け取ります。そしてすばらしい共同生活を生じさせることができるのです。

 まさにこのことにおいてこそ、霊学が実際生活の中でどんな意味を持ち得るのかがわかります。霊学は単なる理論なのではなく、人生に働きかけて、生者と死者の間の壁を取り除くのです。断絶に橋が架けられるのです。死者たちには読んで聞かせてあげること以上によい助言はありません。

 そこで次のような問いが生じます。……

 一体死者は、霊界で教え諭してくれるような霊的存在を見出すことができないのでしょうか?ええ、見出すことはできないのです。死者は、生前結びつきのあった霊的存在たちとしか関係が持てません。死者がこの世で知ることのなかった神霊や死者たちに出会っても、死者はその存在を素通りしてしまうのです。どんなに役に立ってくれそうな存在に出会っても、生前関係がなかったのでしたら何の役にも立ってくれないのです。

(1913年1月21日、ウィーンでの講演)”  

 

 (ルドルフ・シュタイナー「シュタイナーの死者の書」(ちくま学芸文庫)より)

 

*最近「終活」という言葉を耳にする機会が多くなりましたが、それに関するいくつかの記事を読んで、かなり多くの方々が自分の死後に散骨や樹木葬を選択し、墓もつくらず中には葬式すらしなくてよいと思っている方までいらっしゃることに驚きました。「来世」は永遠であって、家を買うよりもはるかに重要なことであるにもかかわらず、あまりにも軽々しく考えておられるのには他人のこととはいえ心配になります。たとえ墓をつくらずとも、せめてお寺の納骨堂とか(寺や教会そのものが墓です)、位牌堂や仏壇、祖霊舎などを通じて死後に何らかの形で供養を受ける必要はあります。身寄りがないとか、家族はあっても子や孫に負担をかけたくないなどの理由もあるでしょうが、そうであれば仏教なら永代供養、神道であれば永代祭祀を生前に申し込んでおけば良いのです。各宗派の本山とか歴史のある寺院であれば経営破綻することはないでしょうし他宗派の方でも受け入れ可のところは多いです。ロレートの「永遠のミサ」もカトリックでなくとも登録でき、登録後は死後も引き続きミサの恩恵を受けることができます。しかし何一つ供養を受けるための手はずが為されていなければ、西川隆範先生が言っておられるように、自分が死後に霊界で迷うだけでなく、子孫にも霊的な障りが起こることになりかねません。むしろ子や孫から心を込めて供養してもらえるなら、家の守りともなれるでしょうし、子孫の開運・繁栄にも繋がります。

 

*そういえば、これまでこのブログで何度か取りあげたことのある江戸時代の霊界通信「幽顕問答」では、古武士霊が様々な怪現象を引き起こして生きている者に憑依してきたのは、身寄りも無く無念の死を遂げた自分の為に『石碑』を建てて欲しいということを伝える為でした。やはり「墓」というものは、死者の霊にとって途轍もなく重要なのだと思います。

(近藤千雄「人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅」(ハート出版)より)

 

*墓とは一般に遺骨を納める場所ですが、何らかの理由で遺骨がなくとも問題ありません。より重要なのは開眼法要であって、たとえ遺骨がなくとも故人の霊魂が供養を受けるための依り代となるものがあればよいのです。とはいえ、「墓相」というのはありますし、遺族が未練がましく遺骨を墓に納めないでいつまでも身近に置いておくのも、遺族の想念によって死者の霊が地上に縛りつけられてしまうのでよくないとされています。また、墓は主に御影石でつくられますが、位牌や霊璽、卒塔婆などはすべて木製です。出口王仁三郎聖師は、墓石はあまり黒くない御影石をよしとされ(自然石は不可)、また『ご神体は紙(カミ)でよいが、霊璽は死者の気(キ)が籠るものだから、ヘギのような薄いものでもよいから必ず木(キ)でつくらねばならぬ』と言われており、それらが木でできているのにはちゃんと理由があります。最近では石やガラス製の位牌もありますが、果たしてそのようなものにも故人のミタマが籠もるのかは私にはわかりません。

 

*浄土真宗では、死後は阿弥陀如来様に極楽浄土へ無条件に救っていただけると説いていますが、実は開祖の親鸞上人は、誰でも無条件に救われるなどとは言っていません。そして、親鸞上人の師であった浄土宗の開祖法然上人は他力と言いながら、在家の者であっても一日に念仏を三万回唱えるようにと言われていますが、果たしてそれを実行している信者はどれだけいるのでしょうか。「妙好人」のような方がそう沢山いらっしゃるはずもなく、戦前の浄土宗の聖僧山崎弁栄上人も回向がいかに重要かを説いておられます。死後に供養を必要としない者などほとんどいませんし、天国に救われた霊魂であっても、現界からの供養を喜んで受けると言われています。また、相手が既に現界に生まれ変わって霊界にいなくとも、その供養は必ず現界に再生した本人のもとに届きます。

 

・「歎異抄」の危険性

 

(山折)“私の解釈では、親鸞は『教行信証』の中で、悪人が往生するためには二つの条件があるといっていると思います。無条件の往生は認めていない。簡単にいいますと、その二つの条件とは、一つは善き師、善知識につくこともう一つは懺悔することです。これでは自力修行のように受け取られるかもしれませんが、親鸞の他力とは、その根本に無限の自力修行があってのことなのだと思います。親鸞自身、二十年の叡山体験という自力修行を経たあとで、はじめて他力の世界が開けてきたと思うのです。『教行信証』の最後の巻、「化身土」の巻を読むと、私には親鸞の肉声が聞こえてくるような気がします。善き師につくことと懺悔することが大切なのだ、と。そこのところを、『歎異抄』第三条は、すぽっと抜かしてしまっているわけです。前述のように、『歎異抄』は弟子の唯円が、親鸞没後二十数年経ってから書いたものですから、資料としてはあくまでも二次資料であるといわなければならない。それに対して、第一次資料はむしろ『教行信証』であることを、私はここで改めて強調しておきたいと思います。

 『歎異抄』第三条の悪口ばかりいうみたいですが、このテキストに漂っている危うさみたいなことに最初に気がついて、これをあまり一般の人たちに読ませることを控えよといったのが、蓮如です。蓮如本と呼ばれるのが『歎異抄』の一番古い写本なのですけれども、その最後のところに、これは「無宿善の機」つまり前世によい行いをしなかった人たちには絶対に見せてはいけないと書いてある。

 蓮如は、一向一揆の時代に生きていた人間です。一向一揆の時代に生きて、自分の門徒たちがその戦いの中で人殺しの戦いにまきこまれていく姿を見ていた。蓮如にとって、人を殺した悪人でも、無条件で成仏できる、救われるといっている『歎異抄』は、非常に危険な書だと思われたのでしょうね。”(P84~P86)

 

 “清沢満之の弟子たちはすぐれた人たちが多いけれども、そしてそこから『歎異抄』は広く読まれるようになっていったのだけれども、しかしまあ、『歎異抄』が好きな人たちにはある種の甘えがあるようで、たとえば真宗大谷派の宗務総長を務めた暁烏敏(あけがらすはや)などは、歳をとって目が見えなくなっても、まだ女好きがやめられなくて、あっちこっちに若い女がいた。それで懺悔し、阿弥陀様にわれらのごとき煩悩多きものをお助け下さいと熱い涙を流す。そういうのは、やはり甘えです。”(P88)

 

(山折哲夫 / 梅原猛「宗教の自殺 さまよえる日本人の魂」(祥伝社文庫)より)

 

 

*ただしスウェーデンボルグは、すべての乳幼児は死後に無条件に救済され天界に入って天使となると言っており、また神仏への信仰を持っている人であれば、どのような死を迎えようと、たとえ墓がなくとも、誰一人供養してくれる者がいなかったとしても、必ず救いの手が差し伸べられるはずです。ですが、どの程度の信仰なのかということにもよるでしょうし、シュタイナーは、「霊界を信じながらも、霊界を認識しようとする意志を持たない人は唯物論者」(『薔薇十字会の神智学』)と言っており、これでは殆どの日本人は唯物論者となってしまいます。生前は霊的なことを学ぼうとせず、死後になって初めてその必要性に気づいてそれこそ狂ったように求めようとしても、何一つサポートが受けられないのであれば絶望しかなく、それが永遠に続くとなると想像するだけで恐怖です。ある心霊研究家の方によれば、「妖怪」の多くは自然霊由来ですが、中には供養を受けることができずに彷徨い続けた人霊のなれの果てというのもいるそうです。そのような人間以下の世界に堕ちてしまった霊魂の救済のために、仏教では「施餓鬼供養」などの最期の手段が用意されていますが、いくら救済措置があるといっても誰も死んだ後で妖怪や餓鬼になどなりたくはないでしょうし、やはり生前からしっかり準備しておかねばなりません。「墓」がいかに重要なものであるか、ぜひすべての人に知っておいていただきたいと思います。

 

「死後、すべての子供たちは天界に入って天使となる」 〔スウェーデンボルグ〕

 “スウェーデンボルグはまた、子供の死がどんなに心に傷を、特に後に残された者の心に傷を残すものであっても、死んでしまった子供にはその傷がいつまでも残ることはない、と確証しています。霊界にいる子供はただ前方だけを見て、後ろを見ません。その子供にとって、失ったように思われる未来は、その価値が高まります。神は、天界にやって来た子供達が、たとえまだいろいろな記憶を持っているにしても、家族や慣れ親しんだ環境を失ったことで悲しんだり恐れを感じたりすることのないよう配慮されます。
 子供達は、その時が来れば、自分の家族たちに再び会える、みんなで喜び合える、と知っています。そして天界には、私たちの習性となっている時間と空間の制限はないので、首を長くして待つといった感覚はありません。子供はただ現在を生き、過去も未来も意識しません。新しい天界の生活に自分を適応させることだけを切望し、これに熱中し、これが関心のすべてです。しかもその新しい生活には、子供を没頭させ満足させるものがたくさんあります。
 そこでの生活では、この世をどれほど悲劇的に終わったとしても、ただちに明るい幸せな世界がくり広げられます。私たちは、「なぜ?この小さな子がなぜ?神よ、どうして私に?」との疑問に悩みます。子供達は素早く天界の愛と幸福をつかみ取るので、このようなことを思いわずらうひまはありません。
 スウェーデンボルグはその著作で、大人と同様、なぜ子供がこの世の生命を終えて、霊的ないろいろな発達段階の中で目覚めるのか、このことについて深い洞察を展開しています。私たちはしばしば、「まだ死ぬには早かった」と言います。しかし、その死の時は、神の摂理にあって、つねに正しいのです。人がこの世で他人のために何かをするというその人の成長にとって、また来世で他人のために何かができるというその人の霊的成長のために、その時は正しいのです。
 もちろん、私たちはどうしてその時が正しいのか分らないでしょう。それで悲しみ、疑問に思うのです。神だけが、私たちにとって、この世で、さらに引き続き来世で、最もよいことが何であるかをご存知です。これは、神が子供の死を望まれたり、引き起こされたりすることを意味するのではありません。(「この小さい者の一人が滅びることは、天界のあなたがたの父のみこころではありません」(マタイ伝 18:14))。けれども神は、ご自分の望まないことが起こることも許されます。私たちの自由、私たち一人一人の潜在的な霊的可能性のためにです。
 主だけが、子供にしろ大人にしろ、この世を離れて霊界に行くのにちょうどよい時とその理由をご存知です。無知である間は疑問に思い、疑うかもしれませんが、主だけが、この世で「否定的なもの」をご自分の霊の御国で究極的に「肯定的なもの」へ変えることができます。
 スウェーデンボルグは、私たちの直接の行動や人格の影響を通じて、私たちはお互いに何ができるかという、そうした「時」を決定するのは私たちである、と述べています。けれども、私たちの役立ちは私たちの自覚を超えたものです。それで、「不慮の死」というものが、もしかしたらちょうどよい「時」かもしれないと知るのは難しいことなのです。”

    (ブルース・ヘンダーソン「スウェーデンボルグの死後世界」たま出版より)

 

 

 “幼児の周りには天使がいつもいて保護しており、幼児の時に死ぬことがあっても、一人残らず天界に入る。”

 “敬虔な両親から生まれようが、不信心な両親から生まれようが、洗礼を受けようが受けまいが、子供はすべて天界に入って天使になる。”


     (高橋和夫「スウェーデンボルグの「天界と地獄」」PHP研究所より)

 

 

*聞くところによると、近年の仏教では「空」の解釈をめぐって霊魂肯定派と否定派とに分かれており、僧侶でありながら葬儀や死後の世界のことを軽んじる連中は、この霊魂否定、無霊魂説の影響を受けているようです。しかし、香川県さぬき市の長福寺の住職であられた佐伯泉澄師は、師僧であった高野山金剛峯寺管長、金山穆韶師から真言密教は「有霊魂説」であると教えられ、そのことを著書の中で書いておられます。弘法大師は、「般若心経」の中の『色即是空・空即是色(「もろもろの事象は空である(実体がない)」・「空はもろもろの事象でもある」)』について、『色』と『空』の関係を『金属製の獅子の像』の、『獅子』と『金属』の関係に例えておられ、『色』と『空』とは切り離して考える事ができないこと、この世界は『空』であると同時に『有』であり「大日如来のお体」そのものであることを説いておられますが、インドの聖者ラーマクリシュナも、ブラフマン(梵)とシャクティ(現象界)の関係について、ミルクとその白さ、ダイヤモンドとその輝きと、同じような例えを述べています。我々が現在の立ち位置(『色』)にいる限りは、この現象界はそのままリアルに存在するものであって、無でも夢でもありません。出口王仁三郎聖師は、「無霊魂説」の仏教を皮肉って「今の仏教はラッキョウや(中身が無い)」とか「地獄は坊主どもで満ちている(人々を死後迷わせた者は自分も死後に迷うことになる)」と言われましたが、間違った霊魂観がいかに有害なものであるか、正しい霊魂観を持つことがいかに大切であるかを宗教者はもっと強調すべきであると思います。

 

 生前に死後の備えのなき人は

       死期せまるとき無限の悔いあり

 

 おおかたの人のあわれは死してのち

       天国あるをさとらぬことなり

 

                (出口王仁三郎「歌集 愛善の道」より)

 

 

・出口王仁三郎聖師の写真

 

 “大国 ズーッと(人類愛善)新聞をみていかれて、

 「わしの写真が出ていない」

といって叱られる。毎号聖師の写真を出していたら、他の人から批判されてね、風景の写真を出したり、いろいろ変えた方が含蓄がある。いつも聖師の写真ではねえ、いうて批判の声が出てくる。

 「何故、毎回聖師さまの写真が必要ですか?」

 「神の仕組じゃ、わしの顔を印象づけさせるんじゃ」

 「なぜ、そんなに必要ですか」

 「わしは、現実界だけのことを考えておるんじゃない。死んだら霊界でみんなわしのところへくるんじゃ。その時、わしの顔に印象づいているものは救われるんじゃ。チラッと見て、おお、あれは出口王仁三郎や、といってズーッとよってくる、それでわしは救えるんじゃ……」

といわれる。

 霊界物語の中に、言霊別命、大八洲彦命などいろいろ命があるでしょう。あれはみんな化装の姿で聖師さまの顔だそうです。聖師が、いろんな姿をされているので、写真で印象させておくと、アッ出口王仁三郎だ、と思った瞬間に想念の関係において接近してしまう。そこに救いがあるというわけです。

 そこでわたしは、

 「新聞ちゅうものは、現実のことをいうものですから、現実の人にわかるように……」というと、

 「それは、お前の頭が間違っておる」

 いうて、あくまでもそれを主張された。”

 

(「愛善苑」昭和46年3月号 『和明対談 「聖師をはかる尺度がない」(大国以都雄)』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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