脳死について (仏教) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “いずれにしても、仏教から見れば、脳死はけっして個体の死ではない。脳という人体の一部の死を示しているにすぎない。個体の死は、全人格一体の死である。このことを『俱舎論』や、唯識説の視点から見ると、問題がいっそう煮詰まってくる。

 『俱舎論』では、中有(ちゅうう)antara-bhavaということが説かれている。中有とは、この世で死没した後、次の世界に生まれるまでの中間的生存を指している。この説を否定する考え方もあり、認めても、生存の期間についていくつかの見解がある。一・七日という説もあり、七・七日という説もあり、またそれは限定できないという見解もある。このうち、七・七日、四十九日説がわが国に伝わってきている。では、この生存の状態についてはどうか。

 それが実に面白い。まず、『五蘊所成』といわれている。五蘊からできているという。五蘊とは、色・受・想・行・識である。要するに、中有は、われわれと同様に身心をそなえている。けっして脳だけとか、心臓だけとかいうことはない。ただ、それが微細な身体のために、肉眼で見えないだけである。しかし、中有から、われわれの状態は見ることができるという。また微細な身体のために、壁でも山でも難なく通ることができる。

 このような中有の状態が、実は近年アメリカなどでしきりに調査されている臨死体験near-deathの報告とそっくりなのである。事故や病気で一度息を引きとった人が再び蘇ってきて、そのときの状況が語られている。このニ、三十年来、蘇生術やそれに伴う科学技術が発達してきたために、こうした例が増えている。その数が積み重なって、そこに共通した特徴が明らかになってくると、実証性が強まってくる。いいかえれば、生命とは、身体の一部の脳や心臓だけで判定されるものではなく、全人格体のものであるということができる。

 もうひとつ、唯識説から眺めてみよう。この説では、アーラヤ識を立てている。これは、自分の生存の根源だけでなく、自分が経験し続けている世界の根源でもある。またそれは、輪廻転生の実体でもある。つまり個体の死とは、この身心全体を支えているアーラヤ識が脱落することである。アーラヤ識に支えられているものにマナ識がある。これはいわゆる自己意識であるが、これには意識されている自己意識と意識されない自己意識とがあるが、後者の方がマナ識では重要である。ここでは、自己意識が潜在意識から無意識にまで根づいている。その点では、フロイトやユングの分析心理学と似ている所がある。そのマナ識をアーラヤ識は支えているのであるから、分析心理学もアーラヤ識までは届かない。

 さて、このような唯識説では、身心がアーラヤ識に支えられている限り、個体は生きているのであって、心臓や脳の死だけでは個体の死にはならない。たとえば、脳死と判定されてその臓器を他に移し変えようとして、メスを入れるその刹那に、本人は懸命になって神に祈り、あるいは如来を念じているかも分からない。それは、いかなる科学的技術の操作によっても窺い知ることはできない。しかし、先の臨死体験の実例と照合すれば、そうしたことは十分にあり得ることである。

 かつて生老病死は、ブッダによって問われ、その問題の根本解決が目指されてきた。今や生老病死はすべて医学の手に委ねられている。生老病死を貫く生命とは何か、という課題について、医学は根本的に見直さなければならない。”

 

(玉城康四郎「新しい仏教の探求 ダンマに生きる」(大蔵出版)より)

 

*玉城康四郎先生(1915~1999)は、仏教学者として有名な方ですが、単なる学者というわけではなく、座禅や念仏などの行を実践されて深い神秘的な体験をされていたことでも知られています。先生の著書の一つ「近代インド思想の形成」(1965年、東京大学出版会)では、スワミ・ヴィヴェーカーナンダやシュリ・オーロビンドについて紹介されており、おそらくこの本によってはじめて近代インドの聖者、宗教家たちのことを知った方も多かったのではないかと思います。

 

*スウェーデンボルグによれば、「死とは、心臓と肺臓が完全に停止した時」であり、霊魂はそれから肉体を離れることになります。そして、出口聖師もこの説を支持しておられます。ということであれば、脳死は断じて人の死ではなく、霊魂はまだ肉体に留まっているのであり、脳死状態にある人から臓器を摘出することは殺人に他なりません。

 

*意外なことに、角膜移植について、出口聖師は「そのようなことをすると霊界で目が見えなくなる」と言われています。また医学生の解剖実習のための献体についても、「自分でそう決めたのだから、霊界でもそのような惨い目に遭わされることになる」と言っておられます。とはいえ一方では、「たとえ事故やけがで手や足を失ったとしても、天国に復活した者は、体はすべて元通りになっている。病気も治っている」ということも言われています。仏典には捨身供養のことが説かれており、脳死後の臓器提供の意思表示や、アイバンクや献体に登録しておられる方々は、崇高な精神、完全な善意からそれをしておられるはずですので、私としては、おそらく何らかの救済手段がとられるのではないかと思うのですが、それでも本来は身体もまた自分のものではなく神様のものでありますので、やはり提供者の死を前提とする臓器移植には賛成できません。医療が更に進歩し、IPS細胞や人工臓器など別の手段による治療法が早く確立することを願っています。

 

 身体(からたま)霊魂(みたま)も神のものなれば 仰ぎうやまえ我とわが身を 

 身体(からたま)霊魂(みたま)も神のものならば ただ御心にまかすのみなり

               

                       (「歌集 愛善の道」より)