松下村塾の塾則 (吉田松陰の尊皇思想) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

松下村塾 塾則

 

一、両親の命、必ず背くべからず。

一、両親へ必ず出入を告ぐべし。

一、晨起盥梳(しんきかんそ)(朝起きて顔を洗い髪をくしけずる)、先祖を拝し、御城にむかひ拝し、東にむかひ天朝を拝する事、仮(たと)令(ひ)病に臥す共怠るべからず。

一、兄はもとより、年長又は位高き人には、かならず順ひ敬ひ、無礼なる事なく、弟はいふもさら也。品卑しき、年すくなき人を愛すべし。

一、塾中に於て、よろづ応対と進退とを、切に礼儀を正しくすべし。

 

 右は第一条より、終り五条に至り、違背あるべからず、第一条の科は、必ず座禅たるべし。其の他四条は、軽重によりて罰あり。

 

*吉田松陰の本名は、大次郎(通称は、寅次郎)といい、「松陰」の号は、もともとは幕末の尊皇家、高山彦九郎の諱(いみな)であり、彼を深く尊敬するが故に自身も松陰と名乗るようになったのでした。彦九郎は、京都を訪れるたびに三条大橋の上で御所を望拝し、三条大橋には今もこの高山彦九郎の皇居望拝之像があります(多くの人は何なのかがわからず土下座像と言っているようですが)。

  そもそも松陰が仕えた毛利家も大江朝臣(あそん)の出であり、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位である「朝臣」の家系です。「東にむかひ天朝を拝する事、仮(たと)令(ひ)病に臥す共怠るべからず」とあるように、儒者であり「一君万民論」を主張した松陰や門下生たちが強烈な尊皇思想を持っていたことは明らかであるにも係わらず、学校で教えられる歴史や、大河ドラマなどの時代劇に登場する吉田松陰、松下村塾では、このことにはほとんど触れられていません。それどころか、明治新政府が樹立されるときに、王政復古、つまり天皇による親政という制度を定めたのは、下級武士の出自である自分たちに大名など上流階級の者たちを従わせるには天皇の権威を利用する必要があったため、などと説明されています。吉田松陰や維新の志士たちの人格やその先見の明、行動力を讃える一方で、なぜ彼らの皇室に対する敬意を無視するのか、大日本帝国憲法下での近代天皇制には様々な評価があり、やはり問題点も少なからずあったと思いますが、歴史的な事実はありのままに伝えられるべきだと思います。

 

  ちなみに、吉田松陰の辞世の句は、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」ですが、出口王仁三郎聖師がモンゴルで張作霖軍に捕えられ、銃殺刑に処せられそうになった時に詠まれた辞世の句は、

 

身はたとへ蒙古の野辺にさらすとも 日本(やまと)男児(をのこ)の品は落とさじ

いざさらば天津(あまつ)御国(みくに)にかけ昇り 日本(ひのもと)のみか世界まもらん

 

でした。さらに、霊界物語第18巻12章には、吉田松陰がアメリカへの密航に失敗し、捕縛され江戸がら長州へ連行されるときに詠んだ歌「かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬやまとだましい」が、 そのまま引用されており、出口聖師もまた、吉田松陰のことをかなり意識しておられたように思います。

 

*第二次世界大戦の前、エドガー・ケイシーのリーディングで、各国がこれからたどるであろう未来について語られたことがあります。それによると、それぞれの国々の運命は、その国の最高指導者の運命とリンクしているようで、日本については天皇陛下(ケイシーは「ミカド」という語を使っています)について語られました。日本の運命と天皇陛下、そしておそらく皇室の運命とがリンクしているのであれば、日本人として、皇室に対して無関心ではいられません。

 

 

・聖なる儀礼としての人間社会 〔孔子の思想〕

 

 “ここでは、原(プロト)儒教、すなわち孔子の儒教を新しい視点で論じたH・フィンガレット『論語は問いかける』(平凡社、89年、原著72年)を紹介しておきたい。

 まず、つまらぬことから書かねばならない。

 本書の邦訳書名は、俗流『論語』読本を想わせる悪訳である。副題の「孔子との対話」も、全く意味が無い。原題は『Confucius―the Secular as Sacred』である。直訳すれば「孔子―聖としての世俗人」となるが、思い切って、『孔子―聖なる俗』としてもいいだろう。左に、現行の邦訳書名と並べて掲げる。現行の方がやぼったく、しかも原題をねじまげていることは明らかである。

 現行邦訳署名 『論語は問いかける―孔子との対話』

 準直訳『孔子―聖なる俗』

 私がこのようなことにこだわるのは、本書のようなすぐれた本が俗流の『論語』読本の中にまぎれこむことなく、もっと読まれていいと思うからだ。

 フィンガレットの特徴は、孔子が「聖なる儀礼としての人間社会」という思想を持っていたとすることである。これはまた文明度の基準でもある。人間は礼などという奇妙なことをいったい何のために考え出したのか。腹の足しになるわけでもなく、暑さ寒さをしのげるわけでもない。近代人は、礼を人間関係の潤滑油のように考えたがるが、これは無理に効用主義の方へにじりよった考えだ。その証拠に、もし効用主義的に考えるなら、礼よりも心理学の方がはるかに人間関係を潤滑にするのに役立つ。礼が礼であるのには、別の論理が作用するはずである。文化人類学では、儀礼論が重要な研究項目になっているし、隣接する政治人類学では、儀礼と政治の関係が現代でも密接なものであることを教える。こうした学問状況を背景に、フィンガレットは、「聖なる器としての人間」観を『論語』の中に見るのである。

 このように見る時、例えば、『論語』公治長(こうやちょう)篇にある次のような話は、従来の教学的解釈にはなかった輝きを帯びてくる。

 孔子が何人かの人物評をした後のことだろうか、高弟の子貢が、いささかの気負いを秘めて問うた。「先生、それではこの私などはどうでしょうか」。孔子は答えた。「汝は器(うつわ)なり」。子貢は一瞬息をつまらせ、再度問うた。「何の器ぞや」。以前、孔子が「君子は器ならず」(為政篇第十二章)と語ったことを、明晰な頭脳を持つ子貢が忘れるはずがなかったからである。子貢の顔に気色ばんだ様子が抑えようとしても浮かんだのだろうか、孔子はにこりと微笑して答えた。「胡璉(これん)なり」。おまえは儀礼に用いる玉器、胡璉なのだよ。孔子はそう答えたのである。(公治長篇第四章)

 従来は、この章を、才人子貢とそれをたしなめる孔子という構図で解釈してきた。しかし、フィンガレットの見解を容れるなら、全くちがった意味が現われてくる。また、孔子よりも頭が良いという世評さえあった(子張篇第二十五章他)子貢が、何故心から孔子を敬愛し、その死に際しては他の弟子たちよりも深い悲しみにひたったのか、腑に落ちるだろう。子貢は、孔子の思想に魅せられ、孔子の人格力に打たれていたのである。

 子貢は商才にもたけ、孔子学団の財務担当をしていたと推定されている。そのことを儒教文化圏の経済発展論と結びつける人もいる。これもまた聞くべき一つの意見ではある。

 しかし、子貢が魅せられた孔子の思想は、もっと大きなものだったはずである。教学外の知的成果は、孔子の思想の重要性を示唆し始めている。それを最もよく理解できるのは、教学儒教の残映の中にいる我々なのである。”

 

                 (呉智英「封建主義者かく語りき」双葉文庫より)