“今から七、八〇〇年前の鎌倉時代、死に場所を求めて高野山に入ってきた人達は、二五人集まって「二十五三昧講」という講をつくり、互いの死を見届け、死んだ後の世話もした。
別所には、別所上人と呼ばれる僧侶がいた。メンバーは男性のみ、信仰が厚く、独善的でない人たちで、日ごろはバラバラに生活していた。
一人でも病人がでると、往生院という建物に入れる。一昼夜、二人ずつで看病する。一人は法話を聞かせ、もう一人は炊事など身の回りの世話をする。
もう治らないと分かると、枕元ではその人の悪口を言ってはいけない。良い点を褒めたたえ、雑事は声高に話さないように配慮する。
最後のときは、阿弥陀像の前に寝かせ、北枕にして西を向かせ、片手で肘枕をし、足を少し曲げて重ねる。死ぬ瞬間まで、残りの二四人が念仏を唱え、覚悟のほどを教え、苦しまないように見守る。
何と素晴らしい、実に理にかなった介護と看取りだと思います。そう思いませんか?少し前になりますが、NHKスペシャル『人生の終い方』を放映していました。
「人生の最期、あなたなら誰に、何を伝え、残しますか?或いは残さないですか?
今、自分らしい最期とは何か、かつてないほどに関心が高まっています。人それぞれに「生き方」があるように、それぞれに人生の「終い方」(しまいかた)があります。そこには、その人の生き様が色濃く反映され、残された人たちの生き方にも影響を与えます」
しかし世の中には、自らの力では自分の人生を終(しま)えない人たちもたくさんいます。周りから忌み嫌われ、やっと死んでくれたと周囲がほっと安堵するような死に方をする人もいます。
しかしこのような人ですら死の間際の看取りによって、魂が浄化されて、安らかに感謝の言葉を残して、あの世へと旅立つことができます。私は、このことを母の死を看取ることによって理解することができました。
死に際が見事であれば遺族には良い思い出しか残りません。生前のマイナスな思い出はすべてかき消されてしまいます。それほどに、死にざま、死に際は重要なのです。
自らの手で自分の人生を終えないのなら、家族、家族ができないのであれば他の者の手によって魂を浄化させてあの世へと旅立たせる。これこそが、私が提唱する二十五三昧講の現代版です。
私の考える二十五三昧講の現代版は、まず二五人を集めることから始まります。……”
(三角大慈「素晴らしい「看護と看取り」」(KKロングセラーズ)より)
*「二十五三昧講」についてですが、これはもともとは平安時代に比叡山で結成された念仏結社で「二十五三昧会」といい、『往生要集』を著わした天台宗の僧侶、源信の「横川首楞厳院二十五三昧式」を死の作法として実践するものであったようです。その後、三角大慈先生が書いておられるように鎌倉時代に真言密教と結びついて、高野山においても組織されました。三角先生は、現代版「二十五三昧講」なるものを提唱しておられますが、まさに今の時代が必要としているものだと思います。また、この本の副題に『野口整体を40年間探求してきた医師が教える』とありますが、「二十五三昧講」の話以外にも、野口晴哉先生が説かれた「死へ向かう自然の過程を全うさせるため」の教えや様々な健康法なども載っており、非常に勉強になる本でした。あと、この本には書いてありませんが、三角先生は出口王仁三郎聖師の祝詞のテープを治療に使ったりなど様々な取り組みをしておられます。ただ、中にはどういうわけか、正直に言って首をかしげざるを得ないような妙な本、対談本なども出しておられ(私が言えることではありませんが)、そのあたりのことはちょっと気になりました。
*臨終の際、「北枕にして西を向かせ……」とありますが、こうすると自然に右肩が下になります。以下の出口王仁三郎聖師の言葉から考えるに、この姿勢をとることで極楽と感応しやすくなるのだと思います。
“人の心氣が靈に感じて、気分の良いときには靈夢を見、雑念のあるときには雑夢を見る。良い夢を見るのは總じて右の肩を下にして、ひらがなの「さ」の字になつて寝たときであり、左を下にした時には悪夢、仰向けになつた時にも、胃腸の弱い時などには悪夢を見る。”
(「神の國」昭和26年7月号 筧清澄『ネブカデネザルの夢』より)
*以前、あるカトリック神父の方から聞いた話ですが、戦国時代の日本には、当時のキリシタンたちによって「ミゼルコルデア(の会)」なるものが各地につくられ、貧しく身寄りの無い人達の面倒を見たり、埋葬を行なったりしていたということです。これはまさにキリスト教版の「二十五三昧講」だと思います。考えて見れば、マザー・テレサがインドに作られた「死を待つ人の家」なども同じようなものですが、日本では平安時代に既にこの「二十五三昧会」が存在していたとは驚きであり、このような素晴らしい伝統こそ、現代に復活させるべきものだと思います。