極楽へ行った話 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “これは作り話でもなんでもないので、その人の本名を書かせていただく。これを書いている机の上には、その人菊池金之輔氏の名刺と昭和二十六年十一月一五日に語った話を走り書きしにした便箋がある。菊池氏は当時麻布署の防犯少年係で巡査部長であった。処々の子供会などで子供に話をしておられ、後で聞くと真面目な仏教信者であった。昭和二十六年六月五日の午前十時頃、前日に行われた少年野球の報告をすませて署長室を出ると急に気持ちが悪くなった。署長室を出て急いで三階の便所へ行き苦しくなって倒れてしまった。そこで一升位の血を吐いたのである。胃潰瘍であったがこんなことになるとは思っていなかったと後で語った。休憩室まで行き同僚に来てもらった。同僚が脈が不整だというのは聞いたが、それから意識不明になって何もわからなくなった。三時頃家内と同僚が来て車で家へ帰るという。少し気持ちがよくなったが、車に乗せられてからまたボーッとなってしまった。気がついてみると自分は白い雲の中にいる。自分の乗っている雲の下には家や丘が通りすぎて行くのがわかる。心配などは少しもなかった。そのうち自分は一抱えもある大木がどこまでも続いている密林の中を歩いている。密林の中でも少しも影がなく明るい。葉がぴかぴか光って動いているのが一枚一枚わかる。時々見える空は真青で白い雲がポッカリと光って浮いている。その林の中を何処へ行くあてもなく歩いている。時々鳥や蝶が飛んでいる。少しも淋しいことがない。とにかく林の中は晴れやかで明るい。そのうち谷底へ下って行く様子なので、水かなと思うとわからなくなってしまった。今度はいつの間にか川になっている(それは舞台のように変わった)。普通の川とちがって、小砂利がどこまでも続いて金波銀波が流れている。どこからが水というのではなく、自分の足の下には小砂利が一つ一つきれいに見える。静かで明るい中に鳥の声がきこえる。この世では想像もつかないまるで絵のような光景の中を何の屈託もなく一人歩く。鳥が前を飛び交う。いつの間にかポッときれてしまった。今度は野原。あちらこちらにチューリップやタンポポのような花が咲いている。一年生の絵のように蝶々がヒラヒラ飛んでいてとにかく明るい。が少しもまぶしくない。その野原を一人歩き、しばらくして気がつくと自分はしゃがんで土を掘っている。すると菊池さん菊池さんと呼ぶ声がするのでふと前を見ると、少し先のちょっと高い処に網代笠をかぶった坊さんが杖を持ちふりかえってこちらを見ている。その坊さんはたけ高く太っている。脚絆に草履をはいており、あごひもの太白なのもはっきりわかる。しかしそれが誰であるのかわからない。掘っていた手をとめて、坊さんの方へ行こうと立ち上がった瞬間気がついたのである。自分のまわりに人声が聞こえる。後で聞くと自分はその時、「水をくれ」と云ったそうである。目をあけると、自分の寝ている横に医師二人と子供が三人座っていた。そして近所の人も集って来たようである。自分が別世界にいた時は少しも子供のことは心配にならなかった。ぼんやりと気がつくと先ず子供に目をとめた。近所の人を見ると皆緊張した悲しいような顔をしている。しかし不思議に私の気持ちは長閑である。死は少しも恐ろしくなかった。それから自分は日赤病院へ入れられ四日間絶食で絶対安静といわれた。二週間面会謝絶の日が続き、その間四回吐血した。しかし自分の気持ちは全く平静安穏であった。其後思いの外元気回復が早く、八月十七日には退院することができたのである。

 菊池氏は大略以上のような自分の体験談をされ更に話を続けた。自分はこれまで毎朝仏壇の前で御経をあげ子供には線香をあげさせている。仏教で説く極楽浄土は必ずあると思っているし、再び自分はこの世の生を終わった時行けるものと確信している。あの時以来全てのものに対して勿体ない有難いという気持ちを持つようになった。これはずうっと前からであるが、御経の意味はわからないけれどもただ有難いと思い、歩きながらでも読むことがある。自分はまたズボンのポケットに数珠を入れており、立腹寸前にはこれをぐっと握るようにしている。不思議に腹の立ったのがおさまるのである。

 これらの話を菊池氏は気持ちよく話して下さった。とくに別世界の話は勿体ないので人に話さないのだが、今日は特別に話されたのであった。力強く話される菊池氏には聞く者も身のしまる思いであった。其後菊池氏は大森署の少年防犯係主任に転勤され多くの子供達を教化されている。そして今年(昭和三十一年)の一月十八日には、「都民の警官表彰式」に日比谷公会堂で表彰され、新聞にも報道された。その時の写真ニュースが数寄屋橋のたもとの警視庁掲示板に出ていると聞いたので、自分はこの原稿を書く前日それを見に行った。ガラス張りの掲示板の中に、大森第三小学校の生徒さんから感謝の花束をうけている菊池氏の二枚の写真をみつけた。自分はそれを見ながら五年前に語った菊池氏の話を思い出したのである。その写真には、「街の良寛さん菊池金之輔巡査部長表彰さる」と大きく見出しがつけられていた。”

 

(戸松啓真「念念往生」(西田書店)より)

 

*菊池氏の見た極楽の光景で、「あちらこちらにチューリップやタンポポのような花が咲いている」とありますが、臨死体験をされた多くの方が、三途の川などとともに、お花畑を見たことを証言しています。出口王仁三郎聖師も、「天国にはたくさんの花が咲いている」と言われ、聖地を天国と相応させるために、神苑内に様々な種類の花を植え、さらに冬期にも花を絶やさないために温室まで作られました。そういえば、テレビなどで見るスラム街などの犯罪多発地帯には花などありませんし、天界を現界に移写させるためには、たくさんの花があるということが必要な条件なのだと思います。美しい花が身のまわりにあることで、その人の霊性までもが高められているような気がします。

 

*この本の著者の戸松啓真先生は、浄土宗の僧侶であるとともに、大正大学の教授でもあられた方です。江戸時代の紀州の念仏行者で、燃えさかる炎の中で平然と念仏を称え続けたり、自分の頭上には常に天蓋があると言って、どしゃ降りの雨の中でも全く濡れることがなかったなどの様々な奇跡譚で知られる徳本(とくほん)上人について纏められた、「徳本行者全集」の編纂者でもあります。尚、皇道大本と浄土宗本山知恩院は、昭和六年に提携しており、「霊界物語」第41巻の『総説』には、「無量寿経」が一部引用されています。

 

・浄土宗・知恩院と大本

 

 窪田 法然が京都で居をかまえた場所は、八坂神社の北側の、今の知恩院ですね。

 知恩院の前にある瓜生石は、素戔嗚尊が最初に地球に降りてこられた場所だといわれ、そこに本坊をもたせてもらった由緒もある。

 そして昭和五年の岡崎で開かれた宗教博覧会ではね、東西両本願寺などは大本の参加に反対したのに、知恩院は大本を押したのですね。あの展覧会から大本は宗教団体として認められていく。

 そこで聖師さまは、「大本信者は知恩院に足を向けて寝てはいかん」とおっしゃっていたというね。(以下略)

 

(「神の国」№161 『ますます浮上してくるスサノオの世界』より)

 

 

・大本と知恩院の提携 (昭和6年) 

 

(「万朝報」昭和六年七月二十一日所載記事、『更生日記』 七の巻)

 “大本教と浄土宗本山知恩院とは、昨春の宗教博覧会でやゝ提携の機運を醸したが、今回浄土宗宣伝のため京都祖山の教務所庶務部寺西聴学師作「法然上人」を劇化し、二十四日から三日間京都南座で上演し、続いて全国巡演に上がることになっているが、寺西師はこの程亀岡に出口王仁三郎氏を訪れ、両教は愈々完全に提携することになった。而して出口氏並びに親交のある頭山満、内田良平の三氏から同演劇部に幟を寄贈することになり、大本教後援の意義を明らかにするため寺西師監督の下に十八、九の両日亀岡町亀岡座で試演することゝなり、同時に同教内に法然上人の遺什を陳列し、教縁を永遠に結定する事になった。”

 

(「出口王仁三郎 歴史に隠された躍動の更生時代」みいづ舎より)

 

 

・経典の読誦による霊性の開花 「大無量寿経」

 

 “『手の妙用』(東明社)は昭和六十一年に出版された本であるが、著者(吉田弘氏)は昭和四十六年に死去しているので、原著はもっと古いものであろう。著者は大正十一年に京大文学部哲学科を卒業し、宇都宮高農(現宇都宮大学)の教授や高等女学校長を歴任した人であるが、大学院では西田哲学の西田幾多郎教授について「心魂」(Psyche)を研究テーマとして霊媒や霊能者を研究した人である。

 吉田氏はもともと岐阜県のお寺の長男で、宗教的素養はあったようであるが、京大在学中には一燈園の西田天香に道を求めたり、出口王仁三郎に鎮魂帰神を教えた長沢雄楯の講習会に参加したり、南禅寺で南針軒老師について参禅して「無字」の公案について「無々々……」と模索したりしていたが、心は一向に定まらなかった。

 そこで親鸞の著書「教行信証」に『教とは大無量寿経是れ也』とあるのに啓発され、既成観念の一切を捨てて、素直に、『大無量寿経』を何百回も読んだのである。するとある日、忽然としてまったく別な世界が眼前に開けてきたのである。吉田氏はこの時の状態を次のように書いている。

 

「見る木も家も何もかもがすっかり変わって見える。いずれも何か光り輝いているようである。大無量寿経に極楽の相が書いてあるが、あたかもそれと同じように見える。木の幹や葉が、金銀、瑠璃、玻璃、蝦蛄、瑪瑙でできているように見え、鳥の声も何か微妙な音楽に聞こえ、池の水は八功徳水のような感じがし、人はみな菩薩のような感じがする。気が狂ったのではないかと思い、世間の人と話してみるが、別段変わったこともない。ただ明るい光に満ちた世界が眼前に開けてきたのである」

 

 “吉田氏は前記の視界一変の経験の直後から他人の苦痛を自分で感覚することができるようになった。遊びに来た友人に、「君は頭が痛くないか」などと、身体の具合を言い当てるので、気味がわるいといって誰も来なくなったそうである。”

 

(勝田正泰「気をめぐる冒険」柏樹社より)

 

*吉田氏は、経典の内容にいくら荒唐無稽なことが書かれていても、すべて真実であると自分に言い聞かせながら読み続けられたということです。

 

・「我即宇宙」 (ある念仏者の体験)

 

 “…弁栄聖者の教えを受けて大我に目覚めた人に原青民という人がいる。この人は後に浄土教報社の主筆をせられた人で、東京松葉町の正定寺の住職となった人である。

 この人と、弁栄聖者の法嗣であり光明会の初代総監であった笹本戒浄師とは、今の大正大学の前々身である浄土宗大学の同級生であったので、笹本師はその著「真実の自己」の中に原青民師の大我に目覚めて行く過程を克明に記録されている。

 当時、浄土宗宗乗の教授は加藤秀旭師であったが、原師は何を聞いても、「解りません、解りません」の一点張りだったそうである。浄土宗の信心を組織化し、体系化した宗学というようなものを受け入れるような体質(心の種類というべきか)ではなかったのであろう。それで、先生方は原師のことを「仏教の解らぬ男だ」ときめてしまい、「物理学」とあだ名をつけていたそうである。私に言わせれば、宗学で仏教が解るという先生の方こそ、物理学というあだ名がふさわしいと思うのであるが、とにかく、原師は徹底して宗学というものが解らなかったのである。

 ところが、学校を卒業する少し前に原氏は肺結核になった。医者は「まあ五年以上は生きられまい」と言ったそうである。

 原師は初めて、死の恐怖に直面した。死へのどうにもならぬ恐れに、彼は居ても立ってもいられなくなった。そして、弁栄聖者の教えを受けたのである。

 弁栄聖者の懇切をきわめた教えによって、原師は念仏の信心というものを次第に体で理解するようになって来た。

 明治三十八年か九年のこと、原師は鎌倉材木座光明寺の塔頭(たっちゅう)寺院である千手院に籠ってお念仏をした。原師の病気は治ったわけではない。病躯を押して二夜三夜と徹夜してお念仏をするわけである。

 ある夜、一心にお念仏しながら自分と自分をとりまいている森羅万象との関係を考えていたところ、忽然として何も見えなくなった。自分の叩いている木魚の音も聞こえない。周囲の壁も、天井も、畳もない。透きとおった明るみもない。色もない。重さもない。自分の体すらない。全く何もかもなくなってしまって、あるのは只、はっきり、はっきりしていることだけである。「了々(りょうりょう)」というか、とにかく、はっきりしているのであるが、どうはっきりしているかなどと口で説明はできないのである。

 そういう状態がある時間続いて、また元に戻った。壁も天井も畳もちゃんと見え、木魚の音も聞こえるようになった。それでその夜は寝たのである。

 次の朝、原師がふと庭を見ると、何だか変である。昨日までとどこか様子が違う。どこが違うのかと注意して見ていると、昨日までは自分の外に見えていた山川草木、日月星辰、草木虫魚、すべてが自分の内に見えていることに気づいたのである。

 その日から原師は、一切のものが自分の心であり、一切の働きが自分の心の働きであると思いはじめたのである。その次の日もそうであった。以後ずっとそうなのである。それで原師の信心は定まったのである。

 原師は自分の自己が、今まで「自分が、自分が」と思い込んでいたちっぽけな小我ではなくて、大宇宙を我とする大我であることに気づいたのである。この時から原師は、「もう自分は死なないものである」ということがはっきりと分り、踊躍歓喜したのであった。

 原師が「はっきり、はっきり」した状態にあったのは、禅宗の二祖である神光慧可大師の「了了常知」にそっくりである。

 慧可が達磨大師のもとで修業して、自分の心境について「我既に諸縁を息(や)む」と達磨に言った。何物にも注意しなくなった、何物をも意識しなくなった、と言ったのである。

 すると達磨は「断滅を成し去ることなきや」と問い返した。何物もみな無くなってしまっているのではないか、ぐっすり寝込んで何にも知らないという状態ではないのか、と言ったのである。

 すると慧可は、「断滅と成らず」と答えた。いえ、何物も無くなってはおりません、と言ったのである。

 すると達磨は、「何を以って験と為すや」と問い返した。何を証拠にそんなことを言うか、と追及したのである。

 これに対する慧可の返事が「了々として常に知る故に。之を言うに及ぶべからず」である。常に了々としている、はっきりしている、そして何物もみな分っているから、そう言ったのです、しかしそれは、何とも言いようがないのである、と言った。

 達磨は此時、「此は是、諸仏所証の心の体なり、更に疑うこと勿れ」といった。それが諸仏のおさとりになった時の心の姿なのだ。疑ったりしてはならないぞ、と言った。つまり、それでいい、おまえは諸仏と同じ境地にいる、と達磨大師がはじめて慧可を印可したのである。”

  

(紀野一義「名僧列伝(四)念仏者と唱題者2」角川文庫より)

 

 

 

 

 

 

 


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