終末期のケア (野口整体) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “どうしても、不思議に思うことがある。それは、なぜ「楽に死にたい」人たちが野口晴哉のところに集まってきたのか、ということである。もちろん、さっき見た通り、活元運動や愉気をつうじて自律的な生の可能性が解き放たれていくこと、それが第一の理由だろう。抑え込まれていた感情エネルギーを放散し、さまざまな固定観念のたがをはずして、より自由なエネルギーや意識の流れを生き、「天心」を体験していく。それが「楽に死ぬ」大きな理由であることは、わたしたちにも、よく分かる。

 だが、それだけではどうしてもすまされないようなものも感じられるのである。そのことに、野口晴哉の近くにいた人たちは、はっきり気がついていたように見える。彼は、自分の弟子や患者が死ぬとき、しばしば、その「ラッポール」によって、昏倒している。その時の様子について、彼の弟子のひとりはこう書いている。

 

 「Mさんの時も、ずいぶん長い間、具合が悪いようにお見受けし、操法室ではどなたもお気づきの様子はなかったようだが、戻られる度に、昏睡状態のようになって居られた。亡くなる方が苦しんで居られるほど、先生に負担がかかるように思われ、先生がそれを引き受けておられるように思われたのである。」(渡辺剛志「霊感」『月刊全生』昭和五一年九月号)全生社)

 

 誰かが亡くなるとき、野口晴哉は、よく昏倒したり、昏睡状態に陥ったりしていた。それは、人の苦しみを引き受けていたからだと、彼のことを近しく知っている人たちはみな共通に考えていた。そして、わたしたちはその印象はきわめて正確なものだと思う。”(P50~P51)

 

 “‥‥‥彼の死に関する哲学と実践は、もう一方で、人間の生体を流れる生命エネルギーの複雑なネットワークの知識とそれにもとづく身体技法によって、しっかりと裏打ちされていた。鳩尾の硬結が死の予兆である。そう彼は言っていたはずだった。野口晴哉の死の思想と実践を支えるもう一本の太い柱は、この死にかかわるプラクティカルな身体技法である。それについて、わたしたちは、これから見てみることにしよう。

 鳩尾の「禁点」に硬結ができると、四日目に死ぬ。それは、彼にとって体験的に確証された明白な「事実」だった。”(P54)

 

 “‥‥‥野口晴哉の独自性は、死の兆候としての鳩尾の硬結を考えるだけではなく、死のプロセスで苦しんでいる人に対する具体的な援助の方法として、鳩尾への愉気という単純なやり方を教えたことである。この方法が、実際にたしかな効果を持っていることを、わたしたちは知っている。

 

 「夜も明けて朝方六時ごろ『何とも死ねずに苦しんで』という電話、過日愉気の方法を教えてきたことを思い出し、鳩尾に愉気するように話した。その後、間もなくまた電話があり、一生懸命愉気をしたところ、すぐふっと息を吐いて、苦しそうだった顔が、急に安らかな顔に変わり、眠るように亡くなったとのこと、有難い有難いと、泣きながらお礼を言われ、祖母にまでと、先生の御恩は忘れられない」(渡辺剛志「霊感」『月刊全生』昭和五一年九月号)全生社)」

 

 野口晴哉の弟子のなかには、多くの医者や看護婦がいたが、彼らは、この愉気による死のプロセスの援助を実際に行ない、たしかな効果を感じていた。死ぬ間際になって、最後の息を吐く直前に苦しんでいる人だけではない。死んでしまってから後の人にも、この鳩尾への愉気は有意義だと、野口晴哉は考えていた。死んでから人相が悪かったり、体がこわばって棺の中へ入らない場合には、鳩尾に少し愉気するとすぐ柔らかくなって、間もなく人相がよくなる。愉気するうちにすぐ人相がよくなる人もいる。それは、生きている間の観念で人相が悪かったので、その観念から解き放たれるからなのだと、彼は説明している。”(P57~P58)

 

(永沢哲「野生のブッダ」(法蔵館)より)

 

 

 

*ルドルフ・シュタイナーも、自殺以外のすべての死は、事故死も含めて、六日前から始まると言っています。この野口晴哉先生が言われた「死の四日前に鳩尾に硬結ができる」というのも同じように、事故死についても当てはまります。

 

  “晴哉は、自分のまわりに集まる人々に、愉気と活元運動を教えた。愉気と活元運動をやっていれば、体は整い、それにともなって心のはたらきは自然になる。「天心」に生きる。それが、全ての根源だ。「天心」に生きていれば、死ぬことはわかる。愉気と活元運動をしなさい。そうすれば、死ぬまえに人に小便をとってもらったり、長く寝込むことを心配する必要もない。そう晴哉は説いた。

 その一方で、家族には、必要に応じて、死の過程を見守るための詳細綿密な指示を与えていた。そのなかには、寝室の向き、光線、風通し、空気や温度の調整、寝起きの体位、補助の仕方、食事、体の清浄法、睡眠、排泄の誘導、その時々の愉気の位置、時間、接し方など、多岐の項目が含まれていた。そういった指示や死を主題に、まとまって書かれたものは―― 私たちが知るかぎり―― 残されていないけれども、幸いなことに、個別に指示を受けた人々の記録がある。ここでは、晴哉の指示にしたがって、九カ月間看病し、母親を看取った女性のノートから、なるべくそれを忠実に再現してみることにしよう。明敏な知性の持ち主である彼女の残したメモから、私たちは、晴哉のタナトロジーの一端を理解することができる。(以下の記述は、小宮そよ子「生命の昇華」、「月刊全生」昭和六十三年一月号を参照した。)“(P 318)

 

 “晴哉が、この綿密詳細な指示を与えたのは、昭和三十八年(一九六三)のことである。幼い頃から人の生き死にを「非常に敏感に感じ」ていた彼は、繊細で透徹した観察をもとに、すでに四十年前から、独自の死生学の理論と実践を、作り上げていたのである。それは、キューブラー=ロスやムーディたちが開始した死生学に先駆けており、多くの共通点をもっている。けれども、それだけではない。明らかにそれを超えてもいる。そのポイントは二つにまとめられる。

 一番目は、晴哉の体系が、「気」の存在論にもとづいた身体の精密な観察の技法と実践に結びついて生まれていることだ。死の兆候を、指によって感じとり、それに応じた対応をする。コミュニケーションが困難になる段階の移行は、運動を通じて読み取られ、それによって、必要に応じた愉気によって導かれることになる。こうして、体、心、それをつなぐ〈気〉の三つの側面のアプローチをつうじて、死の自然の過程を全うする手助けをするのである。必要な愉気によって、荒れ狂い、時間に逆行する波が散逸され、排泄と浄化と新生をもたらす。それは同時に、「澄んだ気」の天心を家族にもたらす。

 二番目は、とくに「内的葛藤の時期」の理解に深くかかわる。晴哉は、突発的な血圧、体温変化といった現象が、内部の葛藤の表現であること、また、睡眠、意識不明、口が利けない状態でも、内的葛藤と浄化の過程はつづくことを明らかにしている。近代医学は、外部の観察と内的な生命の過程の間に、どんな対応があるのか、関心をもたない。そこから二つのことが帰結する。一つめは、生命の波をみつめることなく、ルーティンとしてふるわれる現代の医療技術によって、内的な自浄作用によって死を全うする生命の自然過程が妨害されることだ。もう一つは、外部への表現や積極的はたらきかけをともなわない生命は、無価値だと考える傾向を生むことだ(この点は、植物状態からの臓器摘出を合法化しようとするアメリカ医学界の議論と、それを背後から支える功利主義的な生命哲学に明らかに示されている)。晴哉の観点からすれば、それは、生命の流れのロゴスについての度しがたい無知、非=科学と怠慢を意味する。(この二番目のポイントは、キューブラー=ロスの仕事の深い影響のもとで展開されつつあるアーノルド=ミンデルの昏睡状態についての仕事(A.Mindell, Coma: Key to Awakening, Penguin,1995)と深く響きあっている。”(P322~P323)

 

(永沢哲「野生の哲学 野口晴哉の生命宇宙」(青土社)より)

 

 

 

*愉気や活元運動については、何人かの方がYouTubeで動画を公開されています。

 

*以前、野口整体の先生から、整体協会では、活元運動のときは、マーラーの交響曲第四番のレコードをかけていた、と聞いたことがあります。体が緩む作用があるということなのですが、このように音楽を活用するのもよいと思います。

 

・チベット仏教の技法

 

 “生きている間に、「意識の転移」を実践する機会に恵まれなかった場合には、どうしたらいいだろうか。わたしが受けた口伝によると、身近に死に立ち会う人が、頭頂の髪の毛を、真っすぐ、上に引っ張るのは、とてもいいいという(ちなみに、この口伝はとても役に立つから、誰にでも教えていいと私はアドヴァイスされた)。そうすることで、死者の意識が頭頂から抜け出るのを助けることができる。逆に、臨終の直後、からだの他の部分に触れたり、叩いたりするのは、よくない。その場所から意識が出ていき、輪廻の中のより低い世界(悪趣)に生まれることになってしまう可能性があるからだ。「意識の転移」以外にも、色々な方法がある。ある本尊―― たとえば観音菩薩や金剛薩埵―― の観想をしてきた人の場合、死ぬ時にその本尊の観想をし、できれば、マントラを唱えながら死ぬのは、とてもいい方法だ。阿弥陀仏や観音菩薩の浄土に生まれ変わりますように、という祈りを毎日捧げ、死の時に往生できれば、それもまた素晴らしい。”

 

(「Samgha JAPAN Vol24 チベット仏教」 永沢哲『チベットの死の教え』より)

 

*鳩尾への愉気は問題ないと思うのですが、まさに臨終を迎えられる時は、頭部以外の部分に触れるのは良くないようです。ご家族の方々が、体に取りすがるのは自然な感情によるものですが、せめて、頭に手を当てておくと良いかもしれません。ただ、私としては、やはり神仏に死者の魂を導いてくださるよう祈るべきだと思いますし、導かれているのであれば、体の何処を触っていようが問題ないのではないかと思います。