「チベットの死者の書」 Dying Project | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

「チベットの死者の書(バルド・トドゥル)」

 

・ 死は終わりではなく「変容」である

 

 “ダイイング・プロジェクト(注:アメリカで行われた、末期を迎えた患者たちへのカウンセリング活動)の無料電話相談が活躍した1979年から82年までの三年間に、実に三千件を超える相談が持ち込まれました。電話をかけてきた多くの人は、死の恐怖を乗り越えるにはどうしたらよいのか、死とは何か、死はすべての終わりなのかを悩み、誰にも相談できずに一本の電話に頼ったのです。
 レヴァイン(プロジェクトの中心メンバー)は電話相談をつづけると同時に、ホスピスや病院をまわり、死にゆく人に会って、さまざまなことを語り合いました。また、若い医師たちとも会合を開き、死を敗北ととらえるのではなく、平和で安楽に死を迎えさせることの重要性を説き続けました。レヴァインの死生観の根底にあるのは、仏教やヒンドゥー教からくる東洋の死生観です。そのためキューブラ・ロスとは、思想的な背景がちがっています。
 レヴァインは当時から医師や看護婦にこのように話していたのです。

 ・・・科学に死を定義させてしまっていいと思うかい。
 検査機関で計測しきれなくなった段階で、生命がなくなったと言っているだけなのだ。しかし、科学がそう言ったからといって、生のあるいは死の本質は何も変わらない。科学だけが真実で、この偉大なる生の本質が、科学によって測ることができるとはとても思えないんだ。
 『チベットの死者の書』が私たちに語るように、実は生も死も同じバルド(中有)なのだ。つまり、生と死が別々に分かれているんじゃなくて、すべてが一つのプロセス、つまり旅のようなものなのだ。
 『チベットの死者の書』が言わんとしているのは、生も死も一つのプロセスであるからこそ、今のこの瞬間、瞬間を大切に過ごさなければ、本質には行き着かない単なる旅で終わってしまう、ということだ。
 天国に永遠があるんじゃなくて、この瞬間の中にも何か本質的なものが存在しているとは思わないかい。そのとき私たちは、この肉体を超えて永続する本質をとらえることができる。
 私たちはこの世に生まれたと考えている。しかし、このあらゆる生命の源とも言える、本質とも言うべきものは、生と死を超えて続く。終わりも始まりもないのだ。
 もっと簡単に言えば、心電図が直線になったのを見て、医者が「ご臨終です」と言ったら、すべてはなくなってしまうかい。その人が、自分が心の底から愛する人であれば、その人が生きていようが死んでいようが、強くて純粋なきずながお互いの間にあるはずだ。そうじゃないかな。・・・”
 

 

・臨終直後の人に語りかける言葉

 “レヴァインは「チベットの死者の書」を現代アメリカ人にも理解され受け入れられるように翻訳し直しました。見舞った人が息を引き取ると、必ずこのように語りかけたのです。

  友よ。今あなたに死が訪れようとしている。
  だから、あなたをこの世に縛りつけているものから、身をときほぐしなさい。
  この死という貴重な瞬間からあなたを遠ざけようとしているものへの執着をなくすのだ。
  あなたは、死という変容を迎えている。今こそ、心を開いてこの状態に身をまかせなさい。
  肉体から意識が離れるにつれて、あなたは、今までにない経験をしている。
  その変化をそのままに受け止めるのだ。
  あなたは、純粋な光の中に溶け込もうとしている。その光こそ、あなたの本質なのだ。
  友よ、あなたは今、肉体の重い束縛から解放された。
  あなたの本質であるクリアー・ライトが目の前に輝いているのが見えるだろう。
  この光の中に溶け込むのだ。・・・
  この状態に、あるがままに身をまかせよう。何ものも押しのけてはいけない。
  何ものにもすがってはいけない。
  この光こそ、イエス・キリストの心から放たれる光であり、
  また、釈迦の純粋な光でもあるのだ。
  この本質というべき光こそは輝きであり、また空(シュニャーター)なのだ。
  何ものにも執着することなく、この限りない広がりの中に、
  あなたの本性であるこの光の中に溶け込むのだ。
  優しく、優しく、解き放たれよ。
  あなたの前のこの輝きこそ、終わりもなく、始まりもない、永遠の光だ・・・
  解き放たれよ(Let it go.)。
  死ぬのはあなただけではない。死は誰にでも訪れる。
  肉体に執着してはいけない。
  執着すれば、自分の意識が作り出した迷いと混乱の幻想の中で、さまようだけなのだ。
  自分の幻想に恐怖するだけなのだ。
  真実に向かって心を開くように。この真実こそ、あなたの偉大なる本性なのだ。
  あなたは、光だ・・・

                 (Stephen Leveine 「Who Dies?(死ぬのは誰か?)」)

 

 レヴァインは、取材する私たちに、最後にこう語ってくれました。

―― 死んでゆく過程は、確かに苦しい。痛みと闘いながら、家族のもとを離れなければならないのだから。しかし、最後の呼吸を吐いた死の直後というのは、実はとても気持ちのよいものなのだ。

 多分、そんなことは信じられないと思うだろうね。でも、古来、あらゆる国のあらゆる時代の書物が、この事を説いてきた。なぜだろうね。

 それに、そのことを経験した人もいるよね(臨死体験をした人のように)。

 私は瞑想の経験と死にゆく人を看取ることで、それをいつも感じている。

 肉体は朽ちる。しかし、その人をその人たらしめていた意識というか、スピリットは、死によって何の影響も受けないんだ。

 僕たちは、肉体こそが存在のすべてだと信じている。本当はその逆だ。

 僕たちのこの意識があるから、肉体は生きている。

 意識がこの肉体を離れた瞬間、肉体は朽ちはじめる。――”

  (河村厚徳 / 林由香里「チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生」NHK出版より)

*この本は、1992年に二夜連続で放映された「NHKスペシャル チベット死者の書Ⅰ、Ⅱ」を、より詳しく解説したもので、ここで紹介させていただいたのは、「死者の書」の叡智を現代にいかすという場面で、本や番組の中の一部でしかありません。この番組はその後ビデオ化、DVD化され、今ではYouTubeにも動画があるようですが、ちゃんとダライ・ラマ法王のインタビューも収録されており、今のNHKでは考えられないほど公正な内容となっています。

 

*この本、番組の中では「ポワ」の瞑想についても紹介されています。無差別殺人事件を起こしたオウム真理教のせいで「ポワ」はひどく誤解されてしまいましたが、本来はチベット語で「往生」を意味する単語で、死後に阿弥陀如来の浄土へ生まれ変わることを目的とする瞑想法です。この「ポワ」の瞑想については、80年代に、チベット文化研究所(ペマ・ギャルポ所長)の主催で、北インドのダラムサラからアヤン・トゥルク・リンポチェ師をお招きし、田町の仏教伝道会館で一週間にわたって講座が開かれたことがありました。尚、ポワの伝授は資格のある僧侶によってのみ行われるもので、私の知る限り、現在の日本にそのような資格をお持ちの方はいません。

 

*チベットには、埋蔵経(テルマ)という伝承があります。これは長い間、山中の洞窟などに隠されている経典が、時代に応じ、それが必要な時に現れる、というものです。「チベット死者の書」もそのような埋蔵経の一つであり、8、9世紀にチベット仏教の開祖バドマ・サムバヴァ(蓮華生)によって著され、ガムポリ山に埋蔵されていたものを、14、15世紀になってカルマリンパという修行者が発見し、20世紀にオックスフォード大学の研究者エバンス・ヴェンツによって全世界に紹介されました。チベットにはまだ多くの埋蔵経が、どこかの山の洞窟などに眠っており、いつの日にか発見されるのを待っていると伝えられています。

 

*チベットに存在する膨大な教典の中には、仏教だけでなく医学に関するものもあります。「ギュシー(四部医典)」を著した9世紀のチベット医学の祖ユトック・ゴンポ師は「将来、人類は予想もできないような疾患に苦しむだろう」と予見しており、エイズや放射能汚染による疾患にも効果のある薬物の処方箋を遺しています。(参考:「仏教 No26」山本哲士『チベットの薬草採集記』法蔵館)

 

*まばゆい光(クリヤ―・ライト)は、臨死体験者の報告の中にもみられるものですが、エドガー・ケイシーは、戦時中、出征する若者たちと会ったときに、その中の何人かの死を予知してしまい、誰とは言わずに、(命を落とすようなことになったら)「光が見えてくる。そうしたら、その光に向かって進んで行くように」と告げています。