臨終の時の意識の転移 (チベット仏教) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

藤田 僕は、お袋がまだ息をしているときには足を触ったり、iPodで音楽を聞かせたりしました。座禅会に来ている人が「コーマワークの本を貸してあげるから」と、アーノルド・ミンデルの『昏睡状態の人と対話する―― プロセス思考心理学の新たな試み』(藤見幸雄訳、NHKブックス、二〇〇二年)を貸してくれたので、実際に聞こえているかわかりませんが、やってみたんです。その本をうっかりお袋の枕もとに置いておいたら、看護師さんがじっと見てました(笑)。

永沢 手足や顔にちょっと微細な動きがあったら、それを拡大していくというものですね。私も一度、藤見さんと一緒にやりに行ったことがあります。

藤田 日本でミンデルのコーマワークみたいなことを実践している人は、いるんですかね。

永沢 どうでしょうね。死の臨床にかかわる職種は限られますよね。そういう人たちのなかに、ミンデルのやっていることに興味をもっている人が、どれくらいいるか、わからないです。

藤田 僕は、お袋に、こっそりホメオパシーのレメディを口から入れたりしました。看護師さんも誰もいないときに。足に鍼を刺してみたり、いろいろやりました。

永沢 足に鍼を刺したんですか。

藤田 溺れたりしたときに、足のつぼに刺すと息を吹き返すというのがあったから、いろいろやってみました。だめでしたけどね。お袋としては「もう、すんなり逝かしてちょうだいよ」と言っていたのかもしれない(笑)。

永沢 母親とはずいぶん前から看取りの話はしていて、「延命処置はしない」ということで了承しています。

藤田 そうですか。まあ、僕がやったのは延命措置ではないですけどね。なるべく、楽にこの世を去る助けになればと思って。あと、身体をゆっくり揺すりました。看護師さんがいないときに。野口体操に、「寝にょろ」というワークがあって、身体の中の水を気持ちよく揺すってあげるやり方があるんです。赤ちゃんもだっこしたら、「よし、よし」って揺するじゃないですか。あと、人が倒れていたら「どうしたんですか」って思わず揺するじゃないですか。それと同じです。だから、こっそり、両足を持って、足から頭に向かって揺すっていくというのをやったら、本当に身体にまだ水があるというのを感じられました。液体性があるからまだ生きているという感じがしましたね。

永沢 なるほどね。

藤田 で、看護師さんが来たら何気なくごまかして。

永沢 (笑)いろんなことをやっていますね。

藤田 そうそう。もちろん、まだ生きているお袋が少しでも気持ちよくなるようにという思いもありましたけど、実験というか、そういうことを試せるめったにないチャンスじゃないですか(笑)。親父のときもやらせてもらうつもりですけど。もう内諾もらってます(笑)。

永沢 そうか、そうか。いや、お父様のときにはね、チベット仏教の、頭頂から意識を抜いてあげる「意識の転移」をされてはどうでしょう。

藤田 ああ、そういうのがあるんですね。ポワですか?

永沢 ええ。亡くなるとき、全身を循環しているプラーナの生命エネルギーは、心臓に収束していきます。その後、意識がどこから外に出るか、頭頂から出ていくのがいいという考え方が、チベットにはあります。まずは、自分で「意識の転移」の修行を行う。それではっきりした印が出たら、純粋に利他的な動機をもって、ほかの人のためにもやってかまわないことになっています。でも、それが難しい場合には、どうしたらいいか?チベットのお坊さんに「これは誰にでも教えていい」と言われているんですが、呼吸が止まって、エネルギーが心臓に集まってきたのを見計らって、頭のてっぺんの髪の毛を引っぱる。すると、実際にやってみるとわかりますが、意識がクッと上に向かいます。僕は、父が亡くなったときには、それをやりました。もう一つ、非常にまれですが、遠くから意識の転移ができるお坊さんが、何人かいるので、お願いしました。

藤田 遠隔治療的な感じですか。そういうノウハウ、みんな知っておいてもいいですよね。はい、やってみますよ。死にかかっている人に、何かいいことをしているわけですからね。何もできないよりは。触ることはできるし、足を揺するぐらいはできますからね。

永沢 そう思います。身体の動きや緊張は、感情と深く結びついているわけですね。それをどうやって自然にリリースするか。ミンデルのワークは、微細な運動を増幅して、つかえているエネルギーを活元運動的にリリースするための方法です。ただし、チベットでは、呼吸が止まって、エネルギーの収束のプロセスに入ったときには、今度はあまり触らないほうがいいといわれています。

 

(藤田一照 / 永沢哲「禅・チベット・東洋医学 瞑想と身体技法の伝統を問い直す」(サンガ)より)

*藤田一照氏は曹洞宗の僧侶であり、現在は曹洞宗国際センターの所長として、世界各地で禅の指導を行っておられる方で、永沢哲氏は、チベット仏教がご専門の宗教学者で、かつ野口整体についてもかなり深く研究しておられる方です。

 

*ここでは、第4章『「死」の技法』の中から、臨終を迎えようとしている方に対して、誰でも行うことの出来るケアについて述べられている箇所を紹介させていただきました。他にも、意識の転移についてのより詳しい説明や、「虹の身体」の話など、数多くの興味深い話が載っています。

 

*狂信的なカルト集団のせいでひどく誤解されてしまいましたが、「ポワ」とは本来チベット語で「往生」を意味する言葉で、この「意識の転移(=ポワの技法)」とは、臨終の時に、魂=意識を阿弥陀如来のおはします極楽浄土に転移させるために行なわれるものです。1980年代にチベット文化研究所の主催で、インドのダラムサラからポワの権威であられるチベット僧、アヤン・トゥルク・リンポチェをお招きして数日間にわたり五反田の仏教伝道会館でポワの講座が開かれたことがあります。そのときにアヤン師は、阿弥陀如来の加持力について繰り返し強調しておられました。結局、ポワを成就できるかどうかは、阿弥陀仏の恩寵にかかっているのであり、正式にポワを学ぶ者は、伝授に先立って、まず金剛薩埵と阿弥陀如来の灌頂を受けることになっています。ここで紹介させていただいた文章では、テクニックの事しか書かれていませんが、やはり神仏への信仰は不可欠だと思います。

 

・臨終直後の人に語りかける言葉

 “レヴァインは「チベットの死者の書」を現代アメリカ人にも理解され受け入れられるように翻訳し直しました。見舞った人が息を引き取ると、必ずこのように語りかけたのです。

  友よ。今あなたに死が訪れようとしている。
  だから、あなたをこの世に縛りつけているものから、身をときほぐしなさい。
  この死という貴重な瞬間からあなたを遠ざけようとしているものへの執着をなくすのだ。
  あなたは、死という変容を迎えている。今こそ、心を開いてこの状態に身をまかせなさい。
  肉体から意識が離れるにつれて、あなたは、今までにない経験をしている。
  その変化をそのままに受け止めるのだ。
  あなたは、純粋な光の中に溶け込もうとしている。その光こそ、あなたの本質なのだ。
  友よ、あなたは今、肉体の重い束縛から解放された。
  あなたの本質であるクリアー・ライトが目の前に輝いているのが見えるだろう。
  この光の中に溶け込むのだ。・・・
  この状態に、あるがままに身をまかせよう。何ものも押しのけてはいけない。
  何ものにもすがってはいけない。
  この光こそ、イエス・キリストの心から放たれる光であり、
  また、釈迦の純粋な光でもあるのだ。
  この本質というべき光こそは輝きであり、また空(シュニャーター)なのだ。
  何ものにも執着することなく、この限りない広がりの中に、
  あなたの本性であるこの光の中に溶け込むのだ。
  優しく、優しく、解き放たれよ。
  あなたの前のこの輝きこそ、終わりもなく、始まりもない、永遠の光だ・・・
  解き放たれよ(Let it go.)。
  死ぬのはあなただけではない。死は誰にでも訪れる。
  肉体に執着してはいけない。
  執着すれば、自分の意識が作り出した迷いと混乱の幻想の中で、さまようだけなのだ。
  自分の幻想に恐怖するだけなのだ。
  真実に向かって心を開くように。この真実こそ、あなたの偉大なる本性なのだ。
  あなたは、光だ・・・

                 (Stephen Leveine 「Who Dies?(死ぬのは誰か?)」)

 

 レヴァインは、取材する私たちに、最後にこう語ってくれました。

―― 死んでゆく過程は、確かに苦しい。痛みと闘いながら、家族のもとを離れなければならないのだから。しかし、最後の呼吸を吐いた死の直後というのは、実はとても気持ちのよいものなのだ。

 多分、そんなことは信じられないと思うだろうね。でも、古来、あらゆる国のあらゆる時代の書物が、この事を説いてきた。なぜだろうね。

 それに、そのことを経験した人もいるよね(臨死体験をした人のように)。

 私は瞑想の経験と死にゆく人を看取ることで、それをいつも感じている。

 肉体は朽ちる。しかし、その人をその人たらしめていた意識というか、スピリットは、死によって何の影響も受けないんだ。

 僕たちは、肉体こそが存在のすべてだと信じている。本当はその逆だ。

 僕たちのこの意識があるから、肉体は生きている。

 意識がこの肉体を離れた瞬間、肉体は朽ちはじめる。――”

  (河村厚徳 / 林由香里「チベット死者の書 仏典に秘められた死と転生」NHK出版より)

 

*エドガー・ケイシーのリーディングの中に、余命いくばくもない方についてとられたものもあるのですが、「延命措置によって、しばらく生き長らえさせることはできるが、それはこの身体にひどい苦痛を与えることになる。そうなると、次に生まれ変わってくるとき、魂が地上に生まれることを躊躇してしまうだろう」というのがあります。近年、脳死や臓器移植、安楽死、尊厳死、緩和ケアやホスピスなどの終末期医療等について様々なことが議論されていますが、どれもこれも唯物論的な視点のものばかりであり、「死」に関する問題については、本来は霊的、魂的な視点から考えられるべきだと思います。