「地蔵流し」の霊験 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・在家の光明真言行者、仲須ランさんのお話

 

 “ランさまは、鳴門市大津町段関の方で、昭和四十七年、七十八歳でお亡くなりになった。ランさまは撫養(むや)町四軒屋の村木幸次郎先生について信仰の道を学んだ。泉先生からいえば孫弟子にあたる。ランさまが腸チフスの病気で困っていたとき、お隣の方から教えられて『泉聖天さん』のことを知り、『お大師さま、泉聖天さま』と一心に拝んで病気平癒を祈っていた。一年たって大正十四年八月七日のこと生家の村(喜来)の氏神さんが「私の傍へ来てください」と呼びにこられたように心に感じ、そう遠くないので急いでお参りした。すると氏神さまは、

 「あなたのような人(信心気のある人)をよく指導してくださる方があるが、よかったら今から連れて行ってあげますが、行きますか?実は後でこの村のことであなたに頼みたいことがあるのです」

といってくださったように心に感じた。

 「連れて行ってください」と心の中で答えると「この道を行きなさい。こっちに曲がりなさい」と氏神さんが教えてくださって、連れて行ってくださったのが、村木幸次郎先生のお家であった。先生には氏神さまから「こういう者が来る」という案内の知らせが届いていたという。それから十年間、折に触れてランさまは指導を受けた。十年たって朝早く喜来の氏神さんにお参りに行ったら、

 「前に頼んであった仕事に、そろそろかかってもらおうか」

と、また心に感じた。

 「何でございましょうか?」と尋ねると、――この喜来の村(百四十戸くらいある)では『友引き』があるといって、一人葬式が出ると、次々と五、六人も葬式が続く、ということがあるが、それを止めるようにしてもらいたい。――ということで、その方法(千枚地蔵流し)を教えていただいて、何百年と続いてきた『友引き』が止まったというお話がある。詳細は前記にゆずり省略するが、『氏神さま』は霊的存在であるということを証する一実例として、私は有り難く思っている。なお神も仏もこの世の平安を指導してくださるあの世の方であるから、有り難く拝むのであると、信ずる者である。

 ランさまには、不思議なお話が沢山残されているが、その中で、太平洋戦争に負けた後、播州から鳴門に来られた三木宗桂さんという数百年前のお侍さんから、全世界の戦死者戦災者の供養を頼まれたお話を伝えさせていただきたい。”(P168~P169)

 

 “その終戦の秋は、未曾有のお米の不作で、農家の私の家でも、買い出しをしたりしました。

 その翌年(昭和二十一年)の九月十八日には、ラジオ・新聞が徳島県地方の大暴風雨を予報していました。『去年のお米がないので、皆がこんなに心配しているのに、台風が来てまた今年もお米が取れないのか』と人々は案じながら時化のための用意をしていました。

 そのとき私は、北島に行かねばならない用事ができて、道を歩いておりました。すると

 「あ、今日は用事があって、仲須さんまたあの世から出てきましたぞ」

と、宗桂さまのことが心の中に浮かぶのです。

 「よく考えてくださいよ。何百年も昔の仏が、何用があって、戦争が負ける前触れに出てきたのか。後でしなければならない用があったので、出てきたのです。この戦争の後で、大勢戦死した人たちの供養をしなければ、後の世の人たちが立ちゆかぬことを教えてあげたくて、出てきたのです。

 私を雛形(見本)にして、考えてみてほしい。何百年もの間、喜来に『友引き』があったということを。私は喜来のために命を捨てたのだから、村人に私が祟ったり、障ったりしたのではない。けれども『一人で死んだのではない。家族までも』と教えたあの『友引き』のことは、これは天の教えであったのだ。

 兵隊さんは、行くときに『国のためなら、死ぬ覚悟』といって、勇んで出征したのだから、戦争に負けたとて、勝ったとて、それは時の運のこと、どこに忠義に変わりがあろう。

 老人たちが『去年のようにお米の取れなかった年は、知らない』といっているではありませんか。兵隊さんたちは、ひもじい思いをして死んでいったのですぞ。今はあまりのつらさのどさくさで、兵隊さんのご恩も、ひだるかったことも考えてあげず、また供養も考えてあげないで、まァ今のところ犬死にのような形で、これを顧みようとしない。『これではいけない』と教えているのが、天の法である。この兵隊さんを犬死にさすならば、この凶作が何年も続いたならば、あなた方のほうが死んでしまわなければならない。これこそ犬死にではないか。

 あの夢の中で約束したこと、『いよいよ供養します』というおん願立てをしなさい」

 「そのご供養はどういう形にしましたら、よろしいのでしょうか?」

 「それは三枚のお地蔵さんでもよろしいから、このわけを孫子の代までいい伝えて、地蔵流しをすることが、世の護りとなるのである」

 「宗桂さま、よく分かりました。ですがこの大行事、何とぞ知恵を授けてくださいませ」

 「そうじゃ、あの喜来の地蔵流しをしてくれた仲間の誰かに、聞いておいてもらいなさい。『どうかお米を取らしてください。ラジオや新聞の台風の予報が、どうぞ間違いでありますように』と、このおん願を立てれば台風がそれるという、証人になってもらいなさい。

 こういうことを思い続けているうちに、私は牛屋島の乾さんという自転車屋の前まで行っていました。

 ちょうどそのとき、姫田ユタカさんが、その自転車屋にいましたので、

 「姫田さん、ちょっと」

と呼び出しました。そして道々思ったことを、話しますと、

 「よろしい、仲須さん、私が証人になります。お米を取らしてほしいおん願が叶いましたら、早速地蔵流しを企てましょう」

といってくれました。

 「姫田さん、お米が取れましたら、私は一生の間、お初穂を喜来の宗桂さまに持って参ります」

 「分かりました。私もそうしましょう」といってくれました。

 すると喜来の方々は、お返しに地蔵流しの日に牡丹餅をつくって、お供えしてくれています。

 そして私が北島に着くか、着かないかのころに、もう時化はそれて、おかげでこの年はお米が取れました。

 そのころ、村木先生や丸山先生が、よくおいでくださっていたので、この地蔵流しのご相談をしました。

 「あァ、いいことじゃ」と賛成してくださいました。そして昭和二十二年の春に、村木先生や丸山先生や、沢山の信者の方々が集まって、戦後初めての賑やかな地蔵流しが、行われました。今では三宝会の行事の一つとして、春秋の彼岸の中日に、信者の方々が集まって、地蔵流しをしてくれるようになりました。なお地蔵流しに行く前に、宗桂さまのお墓にお参りしまして「只今より、地蔵流しをいたします」と、ご案内に行くことにきめています。

 それからこちらというものは、「あァ、時化が来そうであっても、お陰で助かりますねェ」と、喜来あたりの人が、いってくれておりましたが、昭和四十年秋の台風二十三号は、鳴門はまともに受けました。そしてまたその後から台風二十四号が来ているというとき、近くの信者の方々が私の家に集まっておられたので、

 「大きなおん願でありますが、この詳しい事情を皆さんに十分知ってもらっていないのは、私の不行き届きでございました」

と、いいました。

 「もうおばさん、二十四号の用意をするよりも、お地蔵さんを押してこしらえます」といってくださり、皆で『台風退散』の願いをこめて、お地蔵さんを紙に押してくれました。その途中で私は、

 「戦争で亡くなられた方々へのお地蔵さんは、これで打ち切って、これからは生まれようとして生まれることのできなかった、沢山の不幸な赤ちゃんの供養のために、お地蔵さんを押してください」

と申しまして、暫く押しているうちに、心配していた二十四号は、有り難いことにそれてくれました。

 私はお地蔵さん流しがすみますと、すぐ次のお地蔵さんを信者の方々と共に作ります。あの大勢の方々と約束したことを忘れないようにと思って、お地蔵さんを作りまして、祭壇に祀っておきますと、朝晩に拝むときに、

 「あの大勢さんに届けてください」

と思わず声が出るのです。ご近所の人たちが、

 「おばさん、今度地蔵流しがすみましたら、私たちがすぐお手伝いしますから、次のお地蔵さんを半年の間拝んでください」

といってくれています。それでいつも地蔵流しがすみましたら、代わりのお地蔵さんを作って、半年の間拝ませてもらっているのです。

 こういうわけで、私は世界平和のための地蔵流しじゃと思って、力を入れているのでございます。あの戦争で亡くなられた大勢の敵味方戦病死者戦災者のご供養のため、また合わせて、生まれようとして生まれ出ることのできなかった沢山の赤ちゃんのため、また不慮の交通事故で亡くなられた方々のため、ならびに各家のご先祖さまのご供養じゃ、ということを、皆さんにご承知いただきたいと思いまして、地蔵流しの由来を聞いていただいたわけでございます。

 

 この話はランさまが、三宝会で話されたテープを、私が起こさせていただいて、ランさまとお子さまに訂正していただいたものである。

 ランさまは念珠を持って、暇があれば光明真言を唱えておられた。そのお連れが三百人余もできて、五億万遍の数が集まったという。一億万遍唱えるのには、三年くらいかかるという。その中一億万遍は、高野山開創千百五十年(昭和四十八年)の開創法会のときに、お大師様に奉納された。その記念のお地蔵様の石像は、折しも御廟の橋の水掛け地蔵の石垣が改修されて、元通りに納めたところ、ちょうどお地蔵様が入るだけの場所が空いたので、するすると思いもかけず水掛け地蔵の一員となったという(本当はその近くの場所に建てる計画であった。それが願ってもない、参詣の方から水を手向けられるお地蔵となったのである)。

 私は真言念誦ということを、この在家のおばあさんから教えられた。”(P174~P180)

 

(佐伯泉澄「真言密教の霊魂観」(朱鷺書房)より)

 

*文中の「泉聖天さま」とは、本名を泉庄太郎といい、若い頃、『神仏を信仰しておかげを頂き、ぜひとも人助けをしたい』と一念発起され、生駒山宝山寺の聖天尊(大聖歓喜自在天)に、600日間毎晩、大阪の南堀江から直線距離で六里(24キロメートル)の距離を歩いて参拝し続け、ついに神通力を授かったという方です。その後郷里の讃岐津田に帰り、以後は大正七年にお亡くなりになるまで五剣山八栗寺の八栗聖天のもとで(「生駒の神を父に持ち、八栗の神を母として……」)、村木幸次郎先生をはじめ多くの人々を教え導かれました。さぬき市津田町神野に泉聖天尊本廟(多宝塔)が建てられています。なお、高野山奥之院の「中の橋」に向かう参道脇に「あかんぼうぶ声の霊跡」という石碑がありますが、これは村木幸次郎先生が建てられたものです。

 

*「地蔵流し」とは、亡くなられた方々の供養のために行なわれるもので、地蔵菩薩の御影を印刷したお札を川や海に流します。ここに紹介させていただいた仲須ランさんの話では、台風などの自然災害の被害までも軽減させることができるということですが、実際にかなりの霊験があるのは確からしく、自殺や狂死した霊ですら成仏させる力があるといわれています。有名な巣鴨の「とげ抜き地蔵」も、もともとは江戸時代に妻の病気に悩んでいたある侍が、夢枕に立たれた地蔵菩薩のお告げに従い、一万体の地蔵札を川に流したことが始まりです(ちなみに、私は友人から「子どもが喉に魚の骨が刺さって泣いていて、休日で直ぐに病院に連れて行けなかったが、祖母の勧めでとげ抜き地蔵のお札を飲ませたら治ってしまった」という話を聞いたことがあります)。

 

*「地蔵流し」は今でも日本各地で行われていますが、四国の弘法大師生誕地にある屏風ヶ浦海岸寺のように、供養法を施した千枚地蔵札を郵送で送って下さるところもあります。確か千枚が1セットです。とはいえ一人では千枚も流すのは大変ですし、仲須ランさんのお話に、「三枚のお地蔵さんでもよろしいから……」とありますように、枚数は少なくても「型」として行うことが重要なのではないかと思います。

 

 

*「霊界物語」では、地蔵菩薩もまた瑞霊(みづのみたま)の顕現の一つとされています。あと、「地蔵流し」とは違いますが、出口王仁三郎聖師も、伝染病は悪霊のなす作用なので、年に一度は川べりで慰霊祭をすると良いと言われています(新型コロナウィルス感染症の流行にもかかわらず、現在の大本関連の教団では特に餓鬼供養や慰霊祭は行われていないようですが、その理由については存じません)。

 

 “また豊国姫命(とよくにひめのみこと)は地中の火球、汐球を守り、数多の罪ある身魂の無差別的救済に、神力を傾注したまへり。仏者の所謂地蔵尊は即ちこの神なり。

 

         (「霊界物語 第六巻」第23章『諸教同根』より)

 

 

 “伝染病はすべて悪霊のなす作用であるから、それを根絶しようと思えば、年に一度くらい餓鬼に供養してやるとよい。団子を作り河べりにおいて叮嚀に慰霊祭をすれば、決して悪病は蔓延せぬものである。(昭和二年十一月)”

 

        (出口王仁三郎述・加藤明子編「如是我聞 水鏡」天声社より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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