信仰者は独り立ちすべし 〔泉聖天尊〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “神仏に通じておる方に教えを受けて、もの事をするのは、悪い事はないが、例えて見たら、ちょうど目くらの人が眼の見える人に手を引いてもろうて、道を行くのと同じ事である。

 結構ではあるが、手をはなすとあぶない。

 それよりも眼を開けてもらうように頼むことが大切な事でないか。

 此の眼を開けて頂く仕方、頼み方が信仰である。

 又目くらの眼を見えるようにしてやりたいのが神の御本意。”

 

               (「泉聖天尊御遺訓」(泉聖天尊讃迎会)より)

*この「泉聖天尊」(1862~1918)とは、本名を泉庄太郎といい、若い頃、神仏を信仰しておかげを頂き人助けがしたいと一念発起され、生駒山宝山寺の聖天尊(大聖歓喜自在天)に、600日間毎晩、大阪の南堀江から直線距離で六里(24キロメートル)の距離を歩いて参拝し続け、ついに神通力を授かったという方です。その後に郷里の讃岐津田に帰り、以後は五剣山八栗寺の八栗聖天のもとで(「生駒の神を父に持ち、八栗の神を母として‥‥‥」)、多くの人々を教え導かれ、その霊能を使って助けられました。私は、真言宗長福寺住職・佐伯泉澄師が書かれた「真言密教の霊魂観」(朱鷺書房)を読んで初めてこの方の事を知ったのですが、今でも地元には泉聖天尊の教えを奉じ、活動している方々がいらっしゃるようです。さぬき市津田町神野には泉聖天尊本廟として、多宝塔が建立されています。

多宝塔(泉聖天尊本廟)

*これは、ある倉敷にお住まいの方が言われたことですが、「不思議なことがあるもので、八栗さんにお詣りした月は、お詣りしない月に比べて、収入が倍以上になる」のだそうです。現在、コロナ禍で経済が打撃を受けておりますが、やはり自分自身の努力だけではどうしようもないこともあるわけで、神仏の援助をお願いすることも必要だと思います。

 

・「四国のある先生からの手紙」(辻尾正治著「おろかもの」第八部からの引用)

 

 “先日四国のある先生より体験談を寄せて頂きましたので書かさして頂きましょう。書かさせて頂いて良いか悪いかは存じませんが、私が拝読させて頂いて良い参考になりましたので皆さんにも読んで頂きたいと存じます。以下原文より

 「私は本年で八十才になりました。主人を亡くして三十三年になります。 其の時は末の子が一年生、四人の子供と老体の母をつれていました。主人を亡くしました時には涙一つも出ませんでした。之から六人がどのようにして暮して行かなくてはならないかと云う心配です。人様に縋れば一生恩に着せられるでしょうし、目に見えぬ神様にお縋りして、私の目の中で神様を作り、其の神様に一生懸命お縋りし、それからは五年間帯もほどかず着のみ着のままで、目がさめると神に祈り、井戸へ出て水を浴び、一家六人の行く道に光を与え給えと、一生懸命に祈り続けました

 宅の家より五丁程行きますと、山のふもとに氏神様、聖天さん、四国八十八ケ所の第三番の札所と一丁程の間にならんで居ります。朝三時が来るとお百度を踏み、お願いを致しました。私の三十五キロの身体に疲れも出ず、店の方も順よくまいりまして、一ケ月に一回は八十五番の八栗寺の歓喜天様に参拝、あの高い五剣山の御山も、一分で御通夜を致しまして、御山をさせて頂きました。その内に天尊と仰せられた御方から、色々とお伝え下さいまして、お前は広い広い青空を神と思い此の天に向かって毎日大自然を神と思う心から慕ってきた。来い、利益を渡してやる、お前は一生苦労を覚悟せよ、神は救うてやるぞと仰せられました。其の時には空中に数限りない仏体やら、神が現われて笛や太鼓の音で私は気が狂えたのかと思いましたが、それからは其のお言葉を信じて今日迄、その時の御言葉を忘れずに暮して居ります。五剣山に夜登り、岩に腰をおろして一夜を明かしますと、夜中が来ますと風も無いのに木々の様々な話の声が聞こえて来ます。本当に何とも言う事の出来ない心持ちです。又そびえた岩の先に髪髭程の根をもって、日照にも倒れず、雨風にも負けず、時が来ると花を咲かせて居ります。私は目に見えぬ神様や、其の木に負けてはならないと心に誓って居ります。三十三年前と変わらず、其の木は岩に花を咲かせて居ります。私は登る度に其の木に挨拶を致します。何も変わらないと思いますが、草木も話を致します事は私は身を以て聞きました事でございます。年老いて近くの三寺にも日参はやめまして、毎日五時に起きますと心経の写経を、六時迄に二巻致し、それから現在も八十才で八人の炊事当番を致して居りますので、一日の仕事に掛ります。夜私の部屋にはいるのは十時、それから自分の時間で、御本を読ませて頂き、床に就くのは十一時です。店も呉服商でございますが、お蔭様で店員も六人、アルバイトの方も二人居りますので、只々目まぐるしい毎日でございますが、毛筆で本年五月迄、心経参千巻の写経が終わりましたので、これからは来年参拝する予定の四国八十八所の御納経を頂く為の写経を致したいと存じています。年が寄ってまいりますと足のおとろえが出ますので、老年は参拝より家で一生懸命神様にお越り致して居ります。之なら一生出来ると思います。毎日の日参の行より、家の内での心の行の方が、余程難しいと思いますが、一生懸命、歓喜の二字を心にして、毎日何事にも負けず、歓び喜んで楽しんで日暮しを致して居ります。

 『日に見えぬ神の心に通うこそ人の心の誠なるらん』『嵐吹く世にも動くな人心岩おに根ざす松の如くに』私の守り本尊は此の御歌でございます。秋が来ますと、細い道端の草は枯れて何も無くなり、多くの人に頭から踏まれて居りますが、春が来ますと青々とした芽を出して、可愛らしい花が咲きます。人間は此の草の様に頭からふまれると、それは大変な大騒ぎとなりますが、此の草に負けてはならない。私はいつも道端の草は踏まず、もし如何しても踏まねば通れない時は、謝って通らさせてもらっています。伸々毎日々々が教えられる事のみで、いつも心に思うだけの事で、何事も充分な事が出来ないので、実に悲しくなって来ますが、少しでも良い道を通って行きたいと毎日心に鞭を打ちながら、家事の手伝いを致して居ります。神様より明日有ると思うな、今日の事は今日中に何事もせよとのお言葉の通りに致して居ります。」そして五体加持の経文を書いて下さいました。”

 

         (辻尾正治「おろかもの」(発行者:洲崎清海、洲崎智津子)より)

*この「おろかもの」の著者である辻尾正治氏は、生駒山宝山寺の聖天尊の熱心な信者で、夫婦そろって毎朝午前二時に起き、五時前に家を出て宝山寺にお参りするという生活を三十年以上にわたって続けられた方です(近鉄難波駅から生駒駅まで、常に座席に正座して、読経しておられたそうです)。晩年は脳梗塞になられて毎日の参拝は出来なくなられたそうですが、ご自身の深い信仰体験を纏められたものが、「おろかもの」という全二十部からなる本になっており(上・下二巻1セット)、その中の二部ずつを冊子にしたものが宝山寺の社務所で配布されました。私がこの「おろかもの」、辻尾正治氏を知ったのは、その無料で配布されていた冊子を手に取り、内容の素晴らしさに感動したことがきっかけです。ここで紹介させていただいた箇所は、辻尾氏ご本人ではなく、天尊こと泉聖天尊・泉庄太郎師のもとで行をされ霊性が開花した四国のある行者の方が書かれた手紙が掲載されている部分ですが、この辻尾氏のご著書「おろかもの」では、浄土(真)宗や禅宗、日蓮宗、真言宗など、日本の仏教各宗派、大乗仏教の深遠な教えが、ご自身が日々の生活の中で体験された様々な出来事を通じて、とても詳しく丁寧に説かれています。ぜひ多くの方々に読んでいただきたいと思います。

 

*歓喜天信仰の二大巨人ともいえる、「泉聖天尊」「辻尾正治」のお二人については、以下の天水六度さんのホームページで詳しく紹介されています。まだ工事中のものもあるようですが、「泉聖天尊御遺訓」や「おろかもの」も全文が紹介されています。

 

https://www.tensui6.com/

 

*なお、生駒山宝山寺の般若窟は、役行者が開かれた弥勒菩薩の霊場でもあります。出口聖師も、宝山寺へ代参をたてられたことがあったそうです(そのときの願意は不明)。

 

*真の霊性の師であれば、弟子たちの霊性を引き上げ、ゆくゆくは独り立ちできるように導いて下さるはずです。出口聖師も、「盲従してはならぬ、明従せよ」と言われていますが、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、マハーサマディーに入られる数日前に「どんなにしばしば、人は弟子たちのそばにいつづけることによって彼らをだめにしてしまうことだろう。人々が一旦訓練されたら、その指導者は彼らのもとを去ることが必要だ。かれがいなくならないと、彼らは進歩することができないのだ!」とまで言っています。弟子や信徒たちに絶対服従を要求するのはカルト宗教だけです。

 

 

・G・I ・グルジェフ 
 「自分の中の“高次のもの”のみを信じなければならない」 

 “ある日、グルジェフは、いろいろな生徒を別々に彼の部屋に招じ入れた。私たち夫婦が彼と向かい合ってカーペットの敷かれた床に坐ると、自分自身を誠実に直視しうる自己の深層部にいかに達したらよいいかということを話し始めた。 
 彼はいつにない思いやりと優しさをこめて私たち二人に接した。彼の顔から日常の仮面(マスク)がはがれ落ちると、この世で最愛の人の面影を見る。こうした場合には、彼との霊的絆の強さに打たれ、その力がひしひしと感じられるのである。 
 翌週また幾人かの人々が個人的に呼ばれたが、どういうわけか私は呼ばれなかった。グルジェフはその日一日私を避けているようだった。話さなければならないと感じた私は、大きなテラスに彼が一人きりのとき、思いきってこう聞いてみた。「グルジェフさん、ペトログラード時代に、最初はたった5コペイカ(ペニーに相当するロシアの硬貨)を賭けるだけでよいとおっしゃったでしょう。つまり、あなたの教えを実践し始めるには、最小限の信念をもつだけでよいというわけです。けれども、あなたの言ったことが正しく、また役に立ったということが証明されたなら、10、いや20コペイカ以上も賭けなければならないといわれました。つまり、ますますあなたを信じなさいということになります。それなら、あなたを信じきり、あなたの言うことならなんでも無条件に従わなければならないのでしょうか?」 
 彼は頭を軽く振り、一瞬ためらってから、「もちろんです。概していえばそういうことだが、かりに私がマスターベーションを教え始めたとしても、私の言うことを聞くのかな?」と答えただけで、一言も言わずに行ってしまった。 
 「仕事(ワーク)」の本質を突くこうした言葉は非常に重要である。盲目的に服従するのではなく、自分の目的を常に想起していなければならない。”(トーマス・ド・ハートマンの回想) 

 “ベルリンから帰ってから、ある夜私はプリオーレへ行った。グルジェフは私にしてはならないと思えるようなことを頼んだ。私は自分の部屋へ引きこもった。しばらくするとグルジェフが来て、彼が頼んだことをしなければ、夫に不吉なことが起こると言った。電話がないのでパリにいる夫と連絡がとれない。終電が出たあとだから帰ることもできない。いずれにせよ、意外な時間に帰ったら夫を心配させるだけだ。絶望的になった私は、言われたことをすべきか、すべきでないかと考えた・・・この闘争の最中に、グルジェフがあれほどしばしば繰り返した言葉を急に思い出したのである。・・・自己の内部の高次のもののみを信じなければならない。こう気がつくと、この言葉をしっかりと心に留め、外部からくる何ものも・・・自分の師から来るものさえも・・・恐れなければ、不吉なことは何も起こらないという感じが心の深くにもてた。師は、私が忘れてしまったことを想起させようと試しているだけなのかもしれない。理性でこう考えたにもかかわらず、理解が閃いたにもかかわらず、私は猛烈に苦しんだ。 
 翌朝の始発で帰宅し、寝台のなかで安らかに眠っている夫を見た。のちに「ミラレパ」を読み、チベットの師(マスター)たちは、しばしば弟子たちにこうした難題を与え、師の言うことを何から何まで信じてしまわないようにさせるということを知った。”(オルガ・ド・ハートマンの回想) 

       (トーマス・ド・ハートマン/オルガ・ド・ハートマン「グルジェフと共に」めるくまーる社)