「前もってはわからんように書いてある」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組さえあれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……細かい筋書きはとうてい判るものでもなく、また前もって判ったら、神業が潰れると神示に出ております。「機織る人にさえも織りもって、機の模様のわからん仕組」だとの神示もありますから、われわれに判らんのはもちろんだと思いますが、聖師様は、

 「霊界物語には全部書いてある。書いてはあるが、豫めはドンナ偉い信者がドンナに勉強しても、前もっては判らんように書いてある。しかしあとになったら誰でも、何じゃ、こんなところに書いてあったと、直ぐ判るように書いてある。神様に先が見えなんだとあっては神の権威に関するからなァ」

とおっしゃいました。大本事件の事でも、霊界物語四十四巻だったと思いますが「無条件降伏だ、臥薪嘗胆十年の忍苦だ、無条件還付だ」と、妙なところへ取って付けたように書き込んであります。”

 

(「神の國」昭和28年1月号 小山昇『弥勒三会の暁』より)

 

 

 “聖師さまはしばらくしてから真面目なお顔をなさり、

 「もうわしの言うことは全部「霊界物語」と”神霊界”に言い尽くしてある。神典として残してある。だから、わしが恋しくなったら物語を読め。」

とおっしゃいました。そこで私は、

 「読んでも、片っぱしから忘れてしまいますので……」と申し上げました。すると、

 「忘れてもかまへん。読んでさえおけば、それが血となり肉となって、まさかの時にご内流となってでてくるのだから、読んでさえおけばそれでよいのだ」

と申され、……” 

 

    (三浦玖仁子「花いろいろ 出口王仁三郎聖師側近七年の記録」より)

 

 

 “……物語は神様が出せとおっしゃるのですから、何が何でも出版しなければなりません。さきほど申しましたように私自身も理解できませんでしたが、しかし、これが本当の教えだとおっしゃるのですから、そう信じるよりありませんでした。

 ある時、私はあまり皆が分らんというので、聖師に「もう少し分かりやすいのを出してください」と申し上げると、聖師は

 「あまり分かるものを出したら悪神に仕組みをとられる。五十年か六十年先になったら、こういう官憲の圧迫もなくなるし、時代がどんどん進んでものの考え方が広くなり、物語も必ず理解されるようになるから、それまで辛抱せい」

とおっしゃいました。その言葉を聞いて、私はさっそく計算してみました。「まてよ、その頃おれはいくつになるんだろう」、そして聖師さまに、「その頃にはもう、天国に行っているかもしれませんよ」と申し上げると、「お前は生きているかもしれない」といわれました。”

 

      (「おほもと」昭和52年2月号 大国美都雄『聖師と霊界物語』より)

 

 

“B むかし桜井重雄氏にこんな話を聞きました。聖師から物語の中のここを読んでみよと言われ、何字目かを横に読んだら予言があった。その内容は今は言えないと、ちょっと教えてもらったのですが、

『必要な時になったらそこだけが光るんだ』

 

と聖師はおっしゃったというのです。桜井氏はあとで、そこをなんぼ探してみても出てこないというんですね。

D H氏も同じようなことを言っています。むかし見せてもらったがあとでいくら探しても見当たらんと言うのです。それでもう一回調べ直すんだと調べ直しています。

C N氏は若い頃、本部奉仕を辞め帰郷しようと思ってオヤジに相談したら好きなようにしろと言われ、物語から悟らせていただこうと思って拝読したが、ある余白歌から私のようなものでもご奉仕せねばいかんのやな、と悟らせて頂き奉仕を続ける決意をしたというんですが、その余白歌をいくら探してみても、どこにあるのかいまだに分からんというのです。そんなこともあります。白煙となって消えてしまうというのですか。(笑)   

 

     (「いづとみづ」№69 『摩邇の玉むかえ真心の花咲く祝歌』より)

 

 

 “わたしにその癖があったからでしょうが、「学校で学級的に研究するように読んでも霊界物語はわからん、もっと素直に受けとれ」と聖師は言われる。「霊界物語には特別に上品なところから、下劣きわまりないところまでいろいろある。だからすべてを素直に受けとるわけにはいかない」と私がくい下がると、聖師は、

 「上品なところから下品なところまで一切を網羅してあるのが霊界物語だ。お前の心身にしてもそうだろう。非常に高貴な面もあれば下劣な面もあるが、すべてが寄りあってお前の人格となっているじゃろ。それと同じように考えて霊界物語を読めば、立派な神書だということが理解できるはずだ」

というようなことを言われた。”

 

(「いづとみづ №103」『大国以都雄に聞く 全時空を包含する霊界物語』より)

 

 

*以前、夢解釈のことを書かせていただきましたが、高次の世界からのメッセージが『夢』を通じて伝えられるときは、しばしば象徴で示されるために、そのままでは意味がわからず解釈が必要となります。高次の世界からのメッセージは、意識の最深部から浮上してくるのですが、我々の無意識の中には大量の物質的欲望や悪想念、固定観念等が渦巻いているために、それらの障害物の層によってメッセージは遮断され、表層の顕在意識まで上がってくることができません。そのために超意識はメッセージを象徴的なものにカモフラージュして、その悪想念の層をすり抜けようとします。これが「霊的な夢」が象徴で示される理由であり、グルジェフが言っているように、「『象徴』は高次の知性センターの言語」となっています。悪想念の層、低次の知性センターは、象徴の意味が理解できないために、素通りさせてしまうのです。そして、これは私の個人的な考えですが、逆のことも言えるのではないかと思うのです。つまり、どれだけ素晴らしい霊的な教えを人から聞いたり本で読んだりしても、たいていはその感動は我々の表層の意識に止まり、意識下の悪想念の層によって遮断されるため、最深部の超意識(=魂)のレベルまで降下することができません。もちろん神様は全知であり、すべてを御存じのはずですが、我々個人としては、聖なる存在との『感応道交』が不可能な状態となっています。通常、霊性の修行が長い期間を必要とするのは、その障害となっている層を突破するためです。しかし、それらの霊的な教えがカモフラージュされていれば、悪想念の層をすり抜けて、意識の深層部に達することができ、我々の表層意識・外分・人格は、比較的容易に深奥部の聖なる存在・内分・本質と感応することができるようになるはずです。

 

*これも前に書きましたが、「霊界物語」は我々を真理に対する固定観念から解き放ってくれるもので、ウンベルト・エーコの言う「真理を笑わせるためのもの」でもあります。大量の馬鹿話や無駄話で溢れ、聞いたことのない名前の神々が数限りなく登場し、舞台も南米やらアフリカやらあちこちに飛んで、理解しようにも我々の処理能力を超えており、いくら読んでみても何のことやらさっぱりわかりません。出口聖師は、それでもちゃんと魂には届いていると言われますが、むしろわからないからこそ、魂に届くのだと思います。出口聖師は、「あまり分かるものを出したら悪神に仕組みを取られる」とも言われていますが、これは分かるものであれば意識下の悪想念の層に遮断されてしまう、という意味であるようにも思います。そして物語の中には、「猿蟹合戦」や「カチカチ山」などの日本の昔話やことわざなどが数多く形を変えて出てきますし、仏典や聖書の話、神話などがあちこちに組み込まれていますが、これも読み手の意識を日本人、そして全人類の集合的無意識と共鳴させるためと考えれば納得できます。「読んでいればいつの間にか、知らず知らずのうちに魂にしみ込んでくる」というのも、この「知らず知らず」ということにこそ意味があり、「いくら読んでも自身の霊性が向上しているようには思えない」が、自覚できないだけで、ちゃんと霊性・霊力は伝達されて「魂の糧」となっていますし(拝読者の多くが様々な霊的な体験をしています)、出口聖師は「物語の拝読こそが一番の潔斎である」と言われました。そして、聖師が「霊界物語」を要約することを戒められたのも、おそらく分かりやすく要約して「あらすじ」だけを読めばよいようにすると、単なる知的な理解になってしまい、わざわざわからなくした意味がなくなってしまうからだと思います。出口聖師は「天国の天人の言葉は、地獄ミタマの人間には通じない」とも言われましたが、真理はむき出しのままでは我々は受け入れることができません。聖典や霊学書が常に難解に書かれているのにはちゃんと理由があります。わかりやすく解説されたものは低次の知性センターのレベルにとどまり、そのようなものに霊性を伝える力はありません。

 

 “人間の肉体にはあまりに端的でわからないが、精霊が聞いた時ははっきりと判るのである。従って、この物語は精霊の糧であるとも示されている。

 そのゆえに出口聖師は判らなくても読んでおりさえすればいつとなく判るようになる。またいつとなく、御霊のふゆが、増してゆくようになると教示された。

 霊界に行ったときにはじめて物語の糧に育まれていたことが実証される、すなわち救いの書であるゆえんである。”

 

 “……物語は、拝読しておれば春雨が土に浸み込む如く、いつとなく知らず知らずの間に聖霊がその光に接して、智慧正覚を得るものであって、一挙に何もかも理解するということはむつかしい。現界の小説などを読む場合は、そのまま、内容が判るのであるが、それは現界を写し出しているのであるから、簡単に理解されるのである。物語は霊的想念の状態を、現実の言葉、形のある文字にはめこむのであるから、霊的意義の理解力がまず養われないと、判らぬのである。したがって幾回となく、拝読して物語の物語る状況に想念が合致するようになれば、おぼろげながらも理解の力がついて次第に、面白く、次第にありがたく、ついには金言玉辞としてわれわれの救いの文となるのである。”

 

    (「おほもと」昭和50年8月号 大国美都雄『聖師の血肉霊界物語』より)

 

 

“子供でもケンカの時、軽蔑した声で「イー」とやる。わしは、言霊の活用ではないかと思っておった。そしたら聖師様は、「子供ちゅうものは、純真なもので、神さまは、よう出来ておるなあ、イーちゅうのはどういうことか知っとるか、大国」

 「知りまへん」

 「あのなあ、この指を〇〇〇〇にしてイの言霊で切ってみい、ほんとに斬れるぞ。まあ、めったに使っちゃいかんが、どうにもならない時に、一ぺん体験のために切ってみい」

 当時月宮殿の工事のとき、月宮殿をつぶすべく、霊があばれ、神がかりが多かった。夜は何組も組をつくって、警戒さしたんです。

 ところが、なんぼやっても、むこうの逃げるのが早いんです。シマッタと思って、イェーッとやったところ、パタッと倒れた。「ああ、おれも出来るわい」

 そうしたところが、死んじゃあいまいかと今度は心配になった。(笑)ただその後、その人の背中に数日間赤い印がスーと肩から腰についていましたね。聖師さまに言ったら、

 「もうやるなよ。しかし、霊界物語に書いてあることはお前、出来んように思っているけれど、みな出来るんじゃで。物語を充分読んでおったら、イザというときの力がそなわるのじゃ」

 神様は、力をやろう、やろうとしておられるのに我々はそれを拒否しとる。うんと拝読せなならんなあと思いましたね。

 「それだけの力を霊界物語を読んでおる人には与えられる。読んでない人がなんぼいうても威力はでんぞ」

と言われた。”    

 

 “私は、朝から晩まで物語を読んで、一体何を得たんやろうと考えてみたことがあった。当時照明館の御神前で、大きな声で一生懸命拝読していた。聖師さまが来ちゃったらしいが、気がつかなかった、面白くて……。あとで聖師さまが、

 「大国、あの状態になったら神さまと相応するわい。そこまでいったらわからんでもいいわい。天国はその状態だ。その状態を体験し、それをつみ重ねていったら最高に行けるぞ。神の意志想念と人間のそれが一致するという状態になり、人間の世界を忘れてしまう。そこにはじめて救いがある。それを一生懸命やったらいいぞ」

 と言われた。”

 

     (「愛善苑」昭和46年8月号 大国以都雄『聖師の血と肉霊界物語』より)

 

 

・ウンベルト・エーコ 「薔薇の名前」 

 

 *ネタバレがあります。

 “観念したホルヘはウィリアムに本を差し出します。革手袋をはめて読み始めるウィリアム。ページの端に毒が塗ってあること、すなわち、ページをめくるために指を舐めると毒がまわって死ぬこと、この本を手にした者は皆それが原因で死んだことを見抜いていたからです。彼はホルヘが施療院から持ち出し、塗ったものでした。本には、ベンチョが証言し、また目録にも記載があったように、まずアラビア語の写本があり、次にシリア語の写本があり、三つ目にギリシャ語の『キュプリアーヌスの饗宴』の注釈が綴じられていました。そして四つ目が、『書き出しを欠いた書物で、娘の乱交や娼婦の情事について記したもの』、すなわち、アリストテレスが『詩学』の第一部で悲劇について語ったのち喜劇について書いた第二部でした。

 ウィリアムは、ここでアリストテレスが笑いを「いわば有徳の力として、認識的価値さえ備えうるもの」とみなしていると解釈します。笑いは、「機知に富んだ謎や予想を超えた隠喩を介して、事物をあるがままと異なるかたちで、まるで欺こうとでもするかのように、わたしたちにつたえることによって、実際には、わたしたちが事物をもっとよく見るように仕向け、なるほど、確かにそのとおり、知らずにいたのは自分のほうだ、と言わざるをえないようにする」と、その効能を説くのでした。

 喜劇についての本がほかにもあるなかで、なぜこの一巻だけを隠し通そうとしたのかを問うウィリアムに、ホルヘは「なぜなら、あの哲学者の手になるものゆえ」と答えます。アリストテレスの哲学思想はキリスト教世界にとって基盤となるものであり、それゆえにとびきり危険な影響力をもっており、そのアリストテレスの喜劇論が流布すれば、ついには神のイメージが転覆を免れられず、人々は笑いによって神への畏怖を忘れてしまう、とホルヘは嘆きながら述べます。そして、「この書物は、間違えば、平信徒たちのことばには何かしらか智慧がふくまれているという考えを是認しかねないものだ。それは食い止めねばならぬ。…〈中略〉… ホルヘがアドソからランプを奪い、床に積まれた本の山に投げました。たちまち火の手が上がります。ホルヘはそこにアリストテレスの本も投げ入れます。燃え盛る炎はやがて建物全体にまわり、長きにわたって世界中から集められてきた膨大な本は、巨大な迷宮とともにすべて失われてしまいました。

 ホルヘが隠しつづけてきたもの、それはアリストテレスが喜劇について記した書物でした。ホルヘはなぜそれを隠したのか。ここでは笑いと真実の関係をめぐる議論というものが中心にあると考えられます。これはエーコという作家、そして哲学者にとって生涯にわたり中心的なテーマでもありました。つまり、真実とはどこにあるのか、どこから来るのか、という問いがエーコにとって生涯変わることのない問いであり、その問いをめぐって理論書がかかれ、小説が書かれ、エッセイが書かれてきた。そして真実と笑いの関係の考察を小説において最初に実践したのが、この『薔薇の名前』という作品でした。

 焼け落ちた図書館から脱出したあとのウィリアムに、エーコはこう言わせています。

 

「ホルヘがアリストテレスの『詩学』第二部を怖れたのは、もしかしたら、その説くところがあらゆる真理の貌を歪め、ほんとうにわたしたちがみずからの幻影に成り果てかねない点にあったのかもしれない。おそらく人びとを愛する者の務めは、真理を笑わせ、真理が笑うよう仕向けることにある。なぜなら唯一の真理とは、わたしたちみずからが真理に対する不健全な情熱から解放される術を学ぶことであるからだ」

 

     (「NHK 100分de名著『ウンベルト・エーコ 薔薇の名前』」和田忠彦)

*なお、「霊界物語」の拝読はミロクの世を実現するための「神業への参加」であり(「霊界物語が一揃いあれば、これを種にしてミロクの世は実現できる」)、大峠に備える「最後の審判書」でもあって、読んでさえいればまさかのときに内流を受けることができるとも伝えられています。ただし物語の拝読は、『音読』が原則で、出口聖師の再三にわたる指示を無視して黙読していた信徒で、聖師から怒鳴りつけられたという方もいらっしゃいます。かなりの量がありますが、聖師さまは

「一巻でも読んだら救われる」

と言われていますので、ぜひ一人でも多くの方に、せめて一巻だけでも音読していただきたいと思います。

 

 

 

 

 

 “大正十一年十月二十五日号「神霊界」に、「松葉の塵」と題する小文が掲載されている。執筆者は「八島別」。教団の機関誌「神の国」は第一次大本事件によりしばらく休刊、大正十一年十月十日号を「復活号」として再刊したが、八島別はその号でも「山椒粒」なる投稿欄に辛味の利いた文を掲載している。

 では八島別とは一体何者?当時の教団内に、「霊界物語」に登場する神名をペン・ネームに使用できる者があるとは思われない。また教義の根幹に係わる重要な内容の発表は、王仁三郎以外には許されぬ。当時、王仁三郎は第一次大本事件で裁かれる身で、教団の役職から隠退し、機関紙への論文の発表も遠慮していた。八島別こそ、王仁三郎の世を忍ぶ仮の名であったと断定しよう。

 

 「霊界物語の時と場所とが解らぬといふ人が多い。之は誠に尤(もっと)ものことと思ふ。或人はこれは天の霊界神界の事であるといひ、或人は昔の神界の事であるといひ、何れにしても解らない。そこで私は四ヵ月以前に先生(註・王仁三郎)に尋ねてみた。すると先生は神界幽界現界の各界に過去現在未来があって、つまり全部で九界となる。其の中、霊界物語は太古における現象を主として神界幽界との相互の関係を述べたものであると申された。すると霊界物語は有史以前の太古における地球上の人間界に起こりたる事実を主として記したものであるといへる。但し当時の人間は今の人間と全然等しからず故に之を神代と云った。昔の事と今の事を一緒に書いたからとて何も時間空間を超越した訳ではない。つまり今の世は大現在の事であって此の大現在中に過去現在未来がある。吾人が読んだ歴史はこの大現在の過去の事実である。而して其の有史以前に大過去の世があり、其の大過去中に過去と現在と未来とがある。歴史は繰り返す意味に於いて大過去の過去は大現在の過去に映り、大過去の未来は大現在の未来に映る訳である。又同様にして大未来があって之にまた過去現在未来があり、此時が真の立替立直しされたる三千世界の五六七(みろく)の神代とも思はれる。先生が之はよい質問であると、直ちに筆を執って書かれたのが第六篇(註・第六巻)の序文松葉の塵である。」(執筆者・八島別)

 

 王仁三郎の空間観によれば、太陽系天体を小宇宙、小宇宙の無数の集まりを大宇宙という。我々人体もまた一つの小宇宙を型どっている。天祥地瑞(73巻~81巻)は大宇宙の核となる最奥霊国、紫微天界の創造物語であるから、さらに特殊な時間感覚を持たねば理解できない。

 かつてこのような時間観を述べた人を、寡聞にして私は知らない。王仁三郎にとって、時間は過去から現在・未来へと直線的に流れるばかりでなく、大過去・大現在・大未来の各段階に質的にも超越的飛躍があるのだ。しかも大過去は大現在に、大現在は大未来に投影(単になぞるのではなく、その間に質的にも向上)するという。”

(出口和明「スサノオと出口王仁三郎」(八幡書店))

 

 


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