「愉気」は使えば使うほど増える(野口整体) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私たち四人(局長〈裕哉〉、柳田さん、吉田さん)が中国に旅したのは、中国における「気功」を見学する為であった。中国には西洋医と中医(中国医学)とが両立していて、中医の中に気功という健康法がある。その中の自発動功とか外放気とかいうものが、われわれの活元運動とか愉気と、共通した気の捉え方をしているかどうかにも興味があった。

 北京では丁度国慶節の休日に当ってしまったが、上海と天津では体育服務公司の気功の指導者が、四人ずつ、ホテルの応接室に訪ねて来て下さり、上海では今新しく流行している鶴翔桩の気功を、天津では昔からの気功を、それぞれ見せて下さった。共に一種のスローモーション体操ともいうべきものであるが、そのあとの自発動功というのは、活元運動の動きによく似ている。しかも反応の、弛緩、過敏、排泄と共通していることは驚きだった。

 しかし自発動功の目的や誘導法、また外放気については、整体の理念と根本から異なる。整体では愉気は使えば使うほど増えるし、集注密度が亢まるほど鋭敏になるとしているのに、彼らは気を外放すれば、自己の体内の気は減ると思っており、従って他に施すことには消極的である。ということは老子、荘子を生んだ民族とはとても思えない。今の体制が気を物質として理論武装せざるを得なくしているのだろうか。気を形以前のはたらきとする先生の思想の、限りない自由さと、深さとあたたかさを、改めて思い返すのだった。”

 

(「月刊全生」昭和59年1月号 野口昭子『中国雑感』より)

 

 

 “『早く治そう』とか、『一生懸命にやってやる』などというのは、親切の押し売りです。愉気は自然の行為なのですから、押さえてあげたから親切でもないし、押さえてもらったから親切にしてもらったわけでもないのです。赤ちゃんは、大人の注意を集めることで生きているのです。だから泣くのです。人間の赤ちゃんが小さく生まれてくるのですから、大人が親切に庇うのが当然です。だからお互いに愉気をし合うのも当然であって、親切でも不親切でもない。集団生活を営む生き物の構造だと思うべきです。

 それを、『私が愉気をしてあげたからよくなったのだ』と思い、恩に着せようとする。しかし死んだ人にいくら一生懸命愉気をしても無駄です。相手が生きているから治るのです。だから愉気をして治るのは相手の力です。相手の持っている力で治るのです。愉気は自然の情なのです。

 

 また、愉気をすると、自分の気力がなくなると思っている人がいますが、逆に気は増えるのです。愉気は自分の力ではなくて、自分が自然の光を通す窓になるだけなのです。ただ取り継ぐだけなのです。だから増えこそすれ減ることはない。なくなるという人は、宇宙の自然に気を通していないからです。

 なかには『頭の痛い人に愉気したら、自分の頭が痛くなった』、『お腹の痛い人に愉気をしたら、自分のお腹が痛くなった』という人もいますが、そういう人は『愉気は減る』という考えを持っている人です。

 

 愉気をするということは、自然の動物に還ることなのですから、私達の生活全体をもう少し文明に災いされた現在の状態から脱して、嬉しかったらニコニコし、お可笑しかったらケラケラ笑えるような、自然の感情に忠実に動く、そういう気持ちで生きることが必要だと思うのです。そうなれば、みんな自然に健康になり生命が溌剌としてくるのです。”

 

(「月刊全生」昭和59年9月号 野口晴哉『人間を動かすもの』より)

 

*「愉気をすればするほど気は増える」というのは、結局は意識の問題だと思うのですが、これは整体だけでなく鍼灸や指圧、イトオテルミーなどの様々な療術にも応用できるはずです。「宇宙の自然に気を通す」とも書いてありますが、そのように宇宙と一体となった意識状態で毎日を過ごすことが出来れば、人生もまた違ったものとなるでしょうし、自分が変るのではなく、ただ宇宙と繋がればよいわけなので誰にでもできます。野口晴哉先生も、「生きているのであれば、愉気が出来ない人間などいない」と言われています。そして、親鸞上人の「悪人正機説」のように、「『自分には』その能力がある」とか、「『自分が』行うのだ」というこの『自分』という意識はかえって障害になるだけですので、むしろ自分に自信がないという方の方が、自我が弱いだけより大きなエネルギーを流すことができるはずです。

 

*野口整体の「愉気」は、気功よりも「レイキ」の方により共通点があるように思います。どちらも自分個人の力ではなく、宇宙のエネルギーを使うものであって、自分は単なる媒体にすぎません。

 

*芥川賞作家、三浦清宏氏の著書「見えない世界と繋がる 我が天人感応」(未来社)には、レイキ創始者の臼井甕男(みかお)先生の名を騙り、真面目なレイキ修行者をターゲットにして破滅させようとした悪霊の話が載っています。愉気にせよレイキにせよ、すればするほど自分も相手も共に元気になり、溌剌となり、共に幸せになっていくのが本当であって、宇宙と繋っているはずなのに、それが負担となり自分自身の日々の生活までが成り立たなくなるというのであれば、そのようなものは愉気でもレイキでもありません。もしそういう状態に陥っておられる方があるなら、おそらくは何らかの闇の霊の作用を受けているのだと思います。

 

 

・「エネルギー不変の法則」の誤り  〔ルドルフ・シュタイナー〕

 

 “このエネルギー不変の法則は大きな観点から見て、文化史的にどんな意味をもつものでしょうか?それは、人間というものを理解する上での非常な障害なのであります。エネルギーが新たに生み出されることはあり得ないと考える限り、人は人間の真の本質を認識することはできません。なぜならば、人間の本質というものは、まさに

 「人間を通して不断に新しいエネルギーが形成される」

という事実の上に成り立っているからであります。いうまでもなく人間は、私達の生きているこの世の中では、唯一の、新しいエネルギー及び新しい物質(Stoffe)さえ形成する存在であります。しかしながら、人間を完全に認識するのに非常に有効であるこういった観点を、現代の世界観は一切自分の中へとり入れようとは致しませんから、現代の世界観は、このエネルギー不変の法則にも別に矛盾を感じないのです。実際にこの法則は、人間以外の自然界(鉱物界、植物界、及び動物界)だけを視野に入れている限りは、別に何の矛盾をも生まないのです。しかし、ひとたび人間を問題にしようとすると、たちまち総ての正しい認識を消滅させてしまうものなのであります。”

 

 (ルドルフ・シュタイナー「教育の基礎としての一般人間学」(人智学出版社)より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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