献金について (バハイ教) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

(アブデュル・バハー)

*バハイ教とは、19世紀のイランに発生したイスラム系の宗教で、神の一体性、宗教の一体性、人類の一体性を説き、特に社会奉仕の実践を強調しています。一神教ではありますが、仏陀やゾロアスターなどの多神教の教祖たちも「神の顕示者の一人」として、世界中の様々な宗教を同じ宗教真理の様々な表現であるとみなしています。皇道大本とバハイ教の関係は大正11年に始まり、エスペラント語の採用は、バハイ教の影響であったとも言われています(エスペラント語の創始者ルドヴィコ・ザメンホフ博士の娘リディア・ザメンホフはバハイ教徒でした)。またロシアの文豪トルストイはバハイに多大な関心を持ち、当時の教主アブデュル・バハーと手紙のやりとりをしていたそうです。現在はイスラエルのハイファに本部があり、全世界に約600万人の信徒がいます。

 

 “バハイの献金には強制がなく、どれだけ献金するかは、個人の意志と理解と財政力に任せられています。行政会には会計がおり、献金状況などを報告しますが、勧誘に回ったりはしません。基金の管理と情報の報告それと献金の奨励をするくらいです。

 しかし、いくら献金が自発的なものだと言っても、その重要性はなおざりにできず、ショーギ・エフェンディは献金を「神聖な義務」と見なしておられます。なぜなら、自らが信じ、支持するバハオラの大業の発展を見たいと望む者がそのために寛大に献金したいと思うのは自然なことだからです。献金の額は問題ではなく、むしろ、純粋な動機と犠牲の精神をもって献金することに意義があるのです。

 献金にはいくつかの規則があります。1)強制してはならないこと。(2)バハイのメンバーでない人は献金ができないこと、その献金を受け入れられないことです。これは排他的に聞こえるかもしれませんが、妥当な理由があります。まず、バハイの活動や仕事は、バハオラを受け入れ、バハオラの教えと精神を理解した者でなければ遂行できないからです。というのは、結局、これは精神的な活動なので、精神的な基盤なしにその活動をするのは困難だからです。バハオラの啓示について理解し、その大業を全面的に支持する人によって運営されているときに、この機構は最善に機能し、最大の影響を及ぼすのです。

 次に、バハイでない人や組織などから献金を受け入れることは、思いがけない困難や面倒を引き起こし、予期できない害を受ける可能性があるからです。これは最近の、政治と政治献金、宗教組織とお金の関係にまつわる問題について考えて見れば納得のいくことだと思います。高潔にして誠実な態度、明確で断固とした規則に従って機構を運営することは、それを堕落や腐敗、危険や困難から守ってくれることになるのです。

 それから、このバハイの機構はいわば、バハオラから世界に授けられた贈り物であるので、そのための献金をするというのは、バハオラを受け入れた信者のみができる特権なのです。

 これらのことから、バハイ以外の人の献金を受け入れることができないのです。しかし、もし、諾名による献金や熱心に主張されてどうしても受け入れざるを得なかった(バハイ以外の)一般の献金は、バハイの業務とは別に、全く一般的な博愛目的のために使うということを明確に述べた上で受け入れ、そうとして使うことができます。しかし、バハイ特有の業務・活動のためには使えません。

 (3)もうひとつ、献金に関する規則は、借金をしてまで献金をしてはならない、ということです。

 

  (尊田望「新しい秩序を求めて バハイ国際共同体」(バハイ出版局))より)

 

*あと、ここには書いてありませんが、バハイ教では各人の献金額は秘密であり、誰がいくら出したかが公表されることはありません。また、万教同根の精神により、最初から相手を改宗させる目的での布教活動も禁止されています。

 

*私が最初にバハイについて知ったきっかけは、高校の世界史の授業にでてきた、19世紀にイランで起こった「バーブ教徒の乱」でした。バーブ教はバハイ教の前身であり、当時のペルシャ政府から異端視され凄まじい迫害を受けたため、信徒の多くが国外へ逃れることになりました。

 

*私は過去にイスラエルのハイファにあるバハイ教本部を訪れたことがあります。そこで日本語のパンフレットを渡され、帰国後に何人かの日本人バハイの方とお会いしたのですが、非常に知的な方が多い印象を受けました。日本ではバハイ教はあまり知られていませんが、比較的高い精神性を保ち続けている宗教の一つだと思います。

 

*カルト教団による悪質な献金活動については昔から知られていましたが、今になってようやくその実体が報道されるようになりました(これまではたとえ警察が介入する事態となっても無視し、「報道しない自由」を行使し続けたマスコミにも相当の責任があると思います)。今回紹介したバハイのバハオラ(ミルザ・フセイン・アリー)師、アブデュル・バハー師、そしてショーギ・エフェンディ師の教えに基づいて定められた「献金についての規定」は、献金とはどのようなものであるべきかを考えるうえでとても参考になりますし、もっと広く世に知られるべきことだと思います。

 

 

・「惜しいお金」

 

 “聖師様が大正十四年春、京都の北野天神に御参拝になった時にお伴をした時の話でありますが、社頭の桧の札に麗々しく書かれた寄付を読んで、「惜しいお金やなァ」と申されますので、「浄財をあげるのに惜しいはずはないでしょう」と申しますと

 「こう書いて人が賞賛してくれたものは、神様に何にもなっていないがなあ。こう書かずに御用が出来ておれば、神様の方に届いているが、こうしたら何にもなっていないから、惜しいお金だ」

と教えられました。(上村清彦氏拝聴)”

 

  (木庭次守編「新月のかけ 出口王仁三郎玉言集 霊界物語啓示の世界」より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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