「天地正気の歌」  文天祥 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “南宋の忠臣文天祥は、元の征服に最後まで抵抗して捕らわれました。本人は直ちに死を望んだのですが、元王は文天祥の人物を見込んで帰順させようとして三年間牢獄に繋ぎますが、結局文天祥の節を枉げさせることができず、処刑しました。その間文天祥が獄中で作ったのが、天地正気の歌です。

 歌によれば、文天祥は、自分は力及ばずして捕らえられ、釜ゆでにされても悔いはなかったのであるが、かえって三年間北の涯の土牢の中にほかの犯罪者といっしょに閉じ込められた。牢は陰湿で風も通らず、屍臭、穢気が立ちこめていた。しかし孟子は、「われ善く浩然の気を養う」といった。自分も正気を養ったので、寒暑も、もろもろの災害も、正気を恐れて近づかず、この卑湿の地はかえって自分の安楽国となった、というのです。

 詩は「天地正気有り」ではじめて、正気は、「下は河嶽、上は日星となり」「人に於いては浩然の気となる」と歌い、それから、歴史の上では、たとえば、

 「蘇武の節」(漢の武帝のとき、十九年間匈奴に抑留されても漢の節を持した人)となり、

 「顔常山の舌」(逆賊に捕らわれ、舌を切られるまで賊を罵ってやまなかった唐の人)となり、

 「或いは出師(すいし)の表となり、鬼神壮烈に泣く」(諸葛孔明出陣の故事)

と、正気がその光彩を発した歴史的瞬間を数多く挙げています。

 

 幕末、水戸藩の重鎮、藤田東湖は、幼児から文天祥の正気の歌を一字たがわず諳んじていましたが、井伊大老によって藩主水戸公が隠居謹慎を命ぜられるに際して、東湖もまた、風邪の際中に、幽閉され、飢寒並びに至るという環境に置かれます。ここで東湖が作ったのが、文天祥の正気の歌に唱和した、「天地正大の気、粋然として神州に鍾(あつま)る」の歌です。

 「秀でては不二の嶽となり巍々として千秋に聳ゆ」からはじまって、文天祥にならって、日本の歴史の中で、「清丸(和気清麻呂)嘗てこれを用い、妖僧(弓削道鏡)肝胆寒し、……或いは桜井の駅に伴い、(楠木正成の)遺訓何ぞ慇懃なる……」と歌っています。

 

 吉田松陰も、また、獄中で、

 「正気天地を塞ぐ……壮士一ノ谷笛(平家物語の故事)、義妾吉野雪(静御前の故事)……」

と、歴史の白熱した瞬間を歌っています。

 楠木正成が桜井の駅で息子の正行に諄々として後事を託したとき、あるいは、静御前が敢えて源頼朝の面(おもて)をおかして、去り行きし義経を偲ぶ舞を舞ったとき、その体の周りが正気で彩られたというのは壮大な文学的表現です。

 人間が、歴史に残るような光輝を発した瞬間、その体から気が満ち溢れているという考え方であり、自らも気を充実させて監獄の中の苦難に耐えようということです。(以下略)”

 

           (岡崎久彦「なぜ気功は効くのか」PHP文庫より)

 

*吉田松陰先生など、江戸時代の武士たちが強靭な精神力を持っていたことはよく知られていますが、それは常に浩然の気、天地との結びつきを意識していたからかもしれません。

(文天祥)