「済公活佛(済佛)」 道院・紅卍字会 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “「道院」は大正時代、大本教とも関わりがあって、儒教、仏教、道教、キリスト教、回教の五教をひとつにしたような中国の宗教である。教義や活動はすべて扶乩(ふうち)に基づいている。

 「道院」の霊界の指導霊に「済佛(さいぶつ)」さんがいる。中国に実在した乞食坊主という。破れ衣で全国を放浪して、不思議な力を以って貧しい人や困っている人を助けたという伝説の禅僧である。日本でいうところの弘法大師のような人かもしれない。済佛さんは絵を描くのが好きだったようで、死んだ後も、霊界から降霊して絵を描いて人々に諭しをしている。

 済佛さんは台湾の李壽耆医師の身体に毎月決められた日に降臨して絵を描いていた。私も台湾に行ってその現場を見学したが、医師は右利きであるが、そのときは左手に筆をとり、紙に向かって天地逆に位置し、さかさまに絵や字を描いた。一枚の紙に要する時間は三分程度。次から次へと描き上げていく。一度に大体百枚位描く。まさに神技である。左手で、逆に描くというのは、人間が描くのではない、霊が描くのだということを証明するために、そうするのだそうだ。

 私は「今、氣の勉強をしておりますが、本当にこの道でよいのでしょうか」と書画の依頼票に書いた。済佛さんから出てきた答えは「但求無過」とあった。この意味がわからない。何ヵ月か経って、その意味がわかった。「ひたすら求めて過ち無し」ということであった。日本では「但求」ではなく「探求」と書く。それは探し求めるという意味であるが、中国には「但求」という言葉があるらしい。ひとつ事を決めたら、環境がどう変わろうと、ひたすら求め続けるということであった。

 藤平先生の教えは神仏のお墨付きをいただいたということである。私は自分の学んでいることに強い自信を得た。この道こそ、自分の道であると確信した。フラついた心であちこち歩いたのであったが、強い自信を得た。

 

 余談であるが、済佛さんの書画には逸話がたくさんある。書画によって男女を引き逢わし結婚したという話もある。また、店の看板を所望すると書いてくれ、商売が繁盛したということもあった。その話を聞いたある人が店の屋号を書いてもらったら、読めないような字を書いたという。その人がいい加減な人だったので、いい加減な字を書いたのであった。ある宗教家が書画を頼むと、後ろで手を組んだ坊さんの絵を描いて、「お前は陰で何をしとるかわからん」と諭したという話も残っている。

 済佛さんは禅宗の坊さんらしく、粋なところがある。善悪などにこだわっていないように思える。善悪は人間が決めたもの、神さまにとってはどうでもいいことだろう。ちょっとくらいの悪ふざけは眼をつむってくれる。神さまというのは、堅苦しくて恐れる存在ではなく、慕う存在であると思う。少なくとも私にとっての済佛さまはそうである。

 私の机の前には、済佛さんの自画像が貼ってある。時々、フト眼を上げて済佛さんを仰ぎ見るのであるが、ニッコリ笑って私に微笑みかける。きっと私のまわりにいつも居てくれて、見護ってくれているような親しみのある済佛さんである。”

 

(庄田幸生「但求 合氣道に導かれて」(新風書房)より)

 

*この本は、大阪にある合気道悠心館道場の庄田幸生館長が、自らの半生を綴られた自伝です。心身統一合氣道の藤平光一先生や断食療法の甲田光雄先生など、これまでに庄田先生が但求(探究)の過程で師事され、教えを受けられた何人もの『注目すべき人々』のことが書かれており、読み物として面白いだけでなく、名師の方々の数々の深い教えが記されていて、なかなか読み応えのある本です。この本を読むことで人生が変わる人もいるかもしれません。

 

*済佛さんは中華圏、特に台湾では済公の名で民衆に親しまれ、各地の寺院や廟で祀られています。譬えるなら「神通力をもった一休禅師」というような方で、以前多摩道院(大多摩出版)から出版された「済佛伝」には済佛さんが行なった数々の不思議な話が紹介されています。全世界の道院・紅卍字会で、済佛様は指導霊のひとりとして祀られており、毎年旧暦5月16日(2013年は7月3日)に誕日祭典(生誕祭)が行なわれます。

 

濟佛略史(道院日本総院のHPより)

 

  “濟佛様は日本では知られていませんが、中華圏では済公活仏の名で最も親しまれている神仏であり、実在した臨済宗の僧侶です。その姿はボロボロの法衣をだらしなく着て、酒を入れた瓢箪、破れた扇を持ち、首から長い数珠をかける姿で描かれます。昔から小説の主人公として書かれ、近代は時代劇ドラマにもなっています。戒律を守らない破戒僧と描かれ、神通力で弱き立場にある人を助ける物語です。

  道院では外慈(慈善事業)を司る慈院に掌籍として祭祀しています。

 

【濟佛様にはお酒を供える】

   道院では様々な神仏の誕日祭典が行われています。その際にお酒(白酒)、ワイン、清水のいずれかを儀礼に基づき供えます。基本的にお酒を供え、キリスト教の聖者にはワイン、仏教の御仏には清水を供えます。しかし、濟佛様は仏教の僧侶ではありますが、大のお酒好きとして伝わっており、誕日祭典ではお酒をお供えします。

  扶乩においても、供えられたお酒に喜ばれる訓文があります。また、扶乩に降臨されたのですが途中で酔っ払い、別の神仙に変わるという訓文があります(これに付随する扶乩をめぐる人側の話があり、いつかご紹介したいと思います)。

  それでは『聖哲略史』より、濟佛様の略史をご紹介します。

 

濟佛

  姓は李。浙江天台の人。南宋初期、父の茂春は都の節度使として仕官する。茂春は慈を以て兵を御し、仁を恵み、よく施し、長者と称された。父・茂春は國清寺長老の性空善と仲が良かった。まだ茂春には子供が無く、茂春、夫人の王氏を携え寺で祈っていた。二人が紫金の羅漢に仆地(五体投地)しているのを性空は見てこれを祝福した。すると羅漢が五色の蓮華を手にもち、その華を贈られる夢を夫人が見る。すると妊娠した。

   ある日の早朝、夫人が日を呑む夢を見ると生まれた。その日は紹興八年(1138年)五月十六日である。赤子は泣くこと甚だしかったが、彌月(生後1か月)になり、性空は赤子を見に行く。性空と相見すると笑っいてた。次第に成長し、容貌が魁偉となる。八歳で書を読み、その神智は超絶している。興が乗ると朗誦が止まらないこともあれば、ある日は終日黙坐していることもある。得る所があると天を仰いで狂笑した。これを見た人は怪しんだ。

  十二歳になると様々な書を読み漁る。禅理に通じ、祇園寺長老の道清は僧と為すことを勧めた。すると「できない」と濟佛は言う。「兄弟がおらず、父母はともに健在である。親不孝をしてどうして成仏できようか。これが不可の一。儒教の經には未だ徹していない。これで上乗の精微に参じ安ずることができようか。これが不可の二。すでに摩頂()の高僧はいない。またこれ(摩頂)を伝心されている尊宿(徳の高い高齢の高僧)もいない。これが不可の三」。道清は答えて「老僧は参禅し数十年。どうして無傳で終わることを慮らずにいられようか」。濟佛は「すでに師は老年となられたが、また自身のうちの霊光が安在なるを知るや(まだ安泰ですよの意)」。道清は答えることができなかった。

   後に、父母がみな亡くなり、喪に服し礼を尽くした。喪が終わると、二十二歳になっていた。叔父が結婚を勧めるが同意することはなかった。

   濟佛はある日、遠公()が靈隱寺()に在駐していることを聞く。靈隱寺に赴き、遂に髪を落とし出家する。ある日、遠公に啓発を求める。遠公は「汝の本質は太猛である。これをどうして一日やそこらで悟ることができようか。もし、すぐに求めるなら前に出よ」。濟佛は喜び、前に出る。遠公は猝(にわか)に起き、濟佛の顔を掴み、地面へ倒した。遠公は厲聲(大声)にて「汝はどこから来たのかを知らないのに、老僧へ行く道を尋ねるのか!」と。濟佛は遂に大悟する。狂喜し、起き上がるとその胸を打った()。狂躍し去る。遠公もまた狂喜し、大声を発した。

 

※摩頂:仏が頭(頂)を撫(摩)でること、即ち仏心を伝えること。

※遠公:瞎堂慧遠(かつどうえおん)。臨済宗の高僧。

※靈隱寺:れいいんじ。浙江省杭州にあり、現在も存在している。中国禅宗五山の一つ。

※胸を打った:禅問答にて、全身を使い悟りの境地を示すこと。”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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