道院・紅卍字会 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “中国の孔子の出た山東省の省都済南から東北約一三〇キロのところに呉福森という人と、当時、浜県の駐防営長をしていた劉紹基という人が二人いて、県署の尚真人を祀る祠に祭壇を設け、神仙聖仏の降臨をあおぎ、ご託宣をうけていた。尚真人というのは昔の偉い仙人の一人である。

 お祭りも最中になったころ、その仙人が降って「老祖久しからずして世に降り劫を救い給う。まことにこれ数万年のあい難きの機縁なり。汝ら壇を設けてこれを求めよ」と、おもむろに示したのだ。老祖というのは至聖先天老祖の略称で、意味はユニバーサル・ゴッド、つまり宇宙の主宰神のことである。

 このお示しに従って、大正十年の春に道院という名の新しい信仰団体が誕生した。済南には、道院の中心たる母体の意味で母院が置かれ、北京には世界の総院がつくられる。そして道院を宗教的な集いとして、活動団体として別に世界紅卍字会を結成した。

 道院では扶乩(フーチ)という一種の自動書記により神示を得るのだが、あるとき、日本の首都を中心に大震災がおこるので救援にゆけ、と神示があった。そこで紅卍字会の中華総会は幹部の候延爽(こうえんそう)ら一行を東京に派遣する。

 ところが、このときの神示に、「日本には道院と同種の宗教団体がある。それを探し当て、提携をはかること」というのもあったため、候氏らは見舞いの品、米二千石(三〇〇トン)と銀五千ドルを東京震災救護局に渡してから、いよいよ宗教団体を探し始めた。あちこちと探して天理教の本部へも行ってみたが、扶乩に出ていたのとちがう。そこで、ひとまず帰ることにして神戸にやって来たところ、一行のうちの誰かが新聞記事 ――大本を悪罵したものではあるが―― から大本の存在に気がついた。彼らはインスピレーションを得る。

 帰国をとりやめた一行は、いそいで大本にやってきて王仁三郎夫妻に会見する。大正十二年十一月三日のことである。

 朽木寒三著「馬賊戦記」は、一行の大本訪問と彼らの受けた印象についてこう記している。

  ――このころ、大本と結んだ中国紅卍字会は、候延爽を使いとして、大本が神示の教団であるかどうかを確かめるために日本によこした。このとき候延爽はこう言っている。「古人物中百万の軍兵あり、出口聖師の胸中百万の神書あり、聖師には、ただ対面したのみでただちに世界紅卍字道院の宗旨を明らかに認められた。聖師のようにすぐれた人物にわたしは初めて会った」――

 ここで、王仁三郎と道院代表との間に、二つの団体の提携合同の調印が行われたのだ。以後、両者は水魚の交わりを結び密接な関係を保っていく。

 ちなみに、世界紅卍字会は、当時、華北から満洲(中国東北区)にかけて特に信徒が多く、中産階級以上の信徒が約六百万人もいるといわれていた。”

 

     (出口京太郎(上田正昭解説)「巨人 出口王仁三郎」講談社より)

 

*道院・紅卍字会は、戦前の満洲国においては、愛新覚羅溥儀皇帝陛下も修方(信徒)であって(道名:浩然)、特に貴族階級に信徒が多く、ほとんど準国教ともいえる宗教でした。日本の敗戦により満洲国が崩壊した後、溥儀の弟、溥傑の妻であった愛新覚羅浩は、一時期紅卍字会の保護を受けていたことが渡辺みどり著「愛新覚羅浩の生涯」(文春文庫)に書かれています。そして、大陸が共産党によって制圧された後、道院・紅卍字会は活動の制限を受け、済南母院も接収されて博物館にされてしまい、以後は、香港に拠点を移して活動しています。また、ヴェトナムのカオダイ教の開教にも関わり、カオダイ神は最初、道院の扶乩を通じて降臨しました。

 

*残念なことに、現在の全世界の道院・紅卍字会は香港本院派と台湾道院派に分裂しており、大本教団は台湾道院と交流しています。ですが、私としては香港本院の方が正当であると思っています。東京都新宿区、落合駅の近くにある日本紅卍字会・東京本院は香港本院派です。

 

*出口王仁三郎聖師の道名は「尋仁」で、現在は「霊蹟真人」の名で祀られており(と言っても像や写真があるわけではありませんが)、聖師の御生誕日である旧暦7月12日には、毎年祭典が行われています。

 

*道院・紅卍字会に求修(入門)し、修方となった方には、生長の家の谷口雅春氏、白光真宏会の五井昌久氏、合気道開祖の植芝盛平氏、陽明学者の安岡正篤氏、囲碁の呉清玄氏などがおられます。

 

*扶乩(フーチ)とは、太古から行われていた神霊の託宣を受けるための方法で、「霊」の旧漢字である「靈」は、天を表す「雨」の下で、供物(三つの「口」)を捧げて、二人の人物が砂盤(「―」)に向かい合い、算木(棒の中央に直角にもう一本の棒(筆)を付けたもの、「丅」)を操っている(「巫」)状況、つまり扶乩を行っている場面を表しています。そして、道院の扶乩は、邪霊の感応を防ぐため、事前に他の場所で行われた扶乩によって神霊から許可を受けた場所(乩壇)において、やはり許可を与えられた修方(算方)によって行われました。私の知る限り、過去に日本では亀岡市の天恩郷と神戸に開設された道院でのみ行われており、他の場所でも扶乩が行われたという話を聞いたことはありますが、それらは道院・紅卍字会と関係はありません。尚、現在は扶乩は行われていません。

 

*道院・紅卍字会は、五教(道教・儒教・仏教・キリスト教・イスラム)の同根を教義としており、「霊界物語」では五大教の名で登場します。

 

・道院・紅卍字会、求修の願文

  願わくば功行を修めん事を。

  願わくば上乗に到らんことを。

  願わくば真諦を得せしめんことを。

  願わくば衆生を度せしめんことを。

 

・修方としてなすべき眼目

  修坐(先天の坐)

  誦経

  善行