台湾(大和の要(かなめ)) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・出口聖師と台湾 

 

 “昭和六年十二月三十一日、台湾基隆(キールン)港の大本分所に、全島から代表信者が集まって、明日未明に御入港の聖師様お出迎えの打ち合わせが行われていました。

 この日、特に一同の心配したのは、ちょうど今が北部台湾の雨期(世界第三位の雨量で基隆は雨の港という異名があるほどです)の真っ最中で、横から吹き付けるその猛雨を分所の庭先から眺めていると、ランチにお迎えして分所門前まで運河を上がるという案は、とうてい見込みがありませんでした。しかし分所長中山勇次郎氏はじめ佐土原、木下、吉富、菊池、岡本氏等の古い宣伝使たちは、聖師様のご上陸の際は必ず晴れると簡単に割り切って、五隻のランチに約三百人が十耀の小旗を持って港外近くまでお迎えするということに一決しました。新しい信者さんの中には、気象台に連絡した結果、「はれる見込みはありませんなァ」と話し合っている声も聞かれました。

 あくる日は元旦です。まだホノ暗いうちに、港頭の灯台から「遥かに蓬莱丸が見えました」という電話があり、一同はソレッとばかりにランチに走り込みました。雨はドシャ降りです。「やっぱり雨か」とつぶやく人たちもありました。

 ランチは岸を離れて外港へ白波を蹴って進みました。赤灯台を廻るとモウ蓬莱丸の雄姿が港頭の白灯台近くに来ています。もちろん、肉眼では、ことに雨の中では甲板上の人の姿も見えない距離ですが、一同は嬉しさのあまり小旗をふって宣伝歌を歌い始めました。いよいよ蓬莱丸は左舵をとって太い汽笛を吹き鳴らしながら外港に入ってきました。この時でした。なんという奇蹟でしょう、まるで幕を上げたように降りしきる豪雨がサーッと上がってしまったのです。その鮮やかさ!そうして沖の基隆島の間から荘厳な旭光が蓬莱丸の左舷を照らしました。

 「万歳!」誰もかれも異口同音に小旗を振って喜びました。実際私もあのときの事は忘れられない感激です。

 やがて蓬莱丸の巨体を護るようにランチがこれに並航し、打ち振る小旗のリズムにつれて、宣伝歌が波上を圧して流れてゆきます。まず最初に岩田鳴球総務が甲板に姿を現しました。つづいて、聖師様も二代様もお顔をお出し下さいました。

 ご上陸になった聖師様が分所で最初にお話しになったのは次のようなことでした。

 「今度の神業は坤(ひつじさる)から始まるのだ。台湾は日本の坤にあたる。そしてワシがヒツジの年で、ついて来ている者はみなサルばかりだ」「……今年ワシは六十一や、夫婦そろうて来るのは今年がはじめてだ、正月の元旦に蓬莱丸で、高砂島にナ、これが高砂の尉と姥や」

 お言葉の奥の奥は私共では拝察いたしかねますが、御冗談のような中に何か重大な動かすことのできない大神業の絶対性が窺われます。昭和七年頃から日本人の心の大掃除や社会的、世界的尉と姥との御神業が活発化したことは当時の記録が物語っております。お筆先にも、流行歌や諺で御神業のことが謎かけてある旨、示されてありますが、浦島太郎、カチカチ山、桃太郎や花咲爺の物語なども、すべて今度の神業の謎であったことを思いますとき私共は、聖師様の右のお言葉の中にも、深い深い意味があるものと拝察いたしたのであります。

 

 話は前に戻りますが、聖師様お二方はそれから大本別院のある台北市郊外草山へお越しになりました。

 私は当時、別院に奉仕さして頂いておりまして日記を詳細に付けておりましたが、驚いたことには、この北部台湾の雨期――それも領台四十年、一年として正月一週間もつづいて雨が降らないという記録は台北測候所にはありません――にもかかわらず、聖師様の御滞在七日間、晴天つづきでありますただ一夜だけ、午後九時ごろから強烈な風雨が五、六時間あっただけでした。

 そうして、聖師様が中部台湾方面へお出かけになりました日から本式の雨になり、おかえりになる三十分くらい前まで雨天続き、それからご滞在中は晴れ、日本内地へ御出発後また雨となっております。全く天候異変というところであります。それも、聖師様のご活動を便ならしめんがための天の異変だとすれば、聖師様は世にも稀な大聖者であり、重大な神業経綸の立役者であられると云わねばならぬことになります。出口聖師が世界の大導師、バハイ教主(アブドゥルバハー氏)の述べた九大資格や「霊界物語」に出ているサンスクリット語のウズンバラ・チャンダーの意味が、ビルマやタイ国では、美しく豊かな瑞気に満ちたお月様という意味となり、そうしてそれはインド、ビルマ、タイ方面で古くから末世を救って下さる救世主、月光菩薩として待望されているということと、出口聖師が神示のままに著された「霊界物語」に「瑞月」とお名前を示されていることと、符節を合わせたように一致しているのは、神定の救世主たることを共に裏付けるものと思うのであります。

 しかし、救世主ならば、何故この惨憺たる現代を救わずに昇天されたかを疑う人もあるかと懸念しますが、大救世主の延長であり、またミロク三身の御活動体は現に大本に現存し、追々と宗教統一の段階から神政復古、天下一家の春へ神業を進められることと確信するのであります。神界ではすでにミロク神政が成就して、天下一家は成り立っているのであります(神示および聖師の御訓示による)。それが現界へ移写される過程が現在なのであります。すなわち救世の神業は神界では成功し、今日は現界救済の段階にあるものと拝察するのでありまして、御昇天になったことが、救世主たることの否定とならないのであります。

 

 瑞みたま肉体をかへて若がえり若がえりつつみわざ仕えん

 

と云い残された聖師のお歌が、ハッキリとこのことをご説明下さるのであります。

 また道院(紅卍字会)の神示にも

 「運霊生有自来。継尋仁(出口聖師の道名)而佈大同之法要於世界者。汝負責重也」

と明瞭に示されてあります。正に救世神業の延長であります。次の神示は、さらに明白であります。

 「然尋仁為固基之時代。汝為展佈之時期。固基也雖難。其実至易。展進也難易。而其実至難。……」

 

 

 聖師様のお歌には、台湾は大和の要であると出ており、また、宣伝歌の一節には「龍世(たつよ)の姫(台湾の国魂)を祀りたる 御倉の山の杜こそ 国治立の大神に 次いで尊き神なるぞ」とありまして、台湾別院のお居室の正面の沙帽山に国魂神として龍世姫命がお鎮まりになっているというお言葉でありました。台湾に関しては霊界物語の二十八巻に詳しく出ていますが、大本の総勢であった高木鉄男氏、岩田鳴球氏、天声社の社長であった瓜生潤吉氏、中山勇次郎氏等の大本幹部級の方々に台湾関係者が多いのは何か深い理由があることと拝察されるのであります。

 霊界物語に出ております玉藻山が、日月譚にあることはご存知でしょうが、泰安城(首都)が大本別院の付近一帯であったことをご存知の方は少ないと思います。

 ある日、自動車でお出かけになった聖師様が、別院の丘を五、六丁先に見る小さな坂のところで車を止められ「ここから昔、泰安城になっていたのだ」とご説明下さったことがありました。

 このように神縁まことに深い高砂島の空に、いま、くだらぬイデオロギーや面子や欲心からどす黒い戦雲が漂うております。私は万一にもこの神島に火の雨が降ることのないよう、心から祈って筆をおくことにいたします。”

 

      (「神の國」昭和30年4月号 正源司泰信『出口聖師と台湾』より)