天之御中主神とスサノオ(無限なる神と人格神) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 

・天之御中主神の静的状態、帰一状態は、一通り正しい観念を得れば、それで充分

 

“・・・・・この神(天之御中主神)の静的状態、帰一状態は、一通り正しい観念を得れば、それで充分とすべきである。何となれば、この神は既にすでに無限の時間、空間にわたりて活動を開始されて居り、再び太初の静的状態に逆行される心配は絶無だからである。 ・・・(中略) ・・・実際問題としては、この神の動的状態の理解体得が何よりも肝要である。人間は天地経綸の衝に当たるべき使命があるから、この神が過去に於いていかなる活動を為されたか、また将来に於いて、いかなる目標に行進せらるるか、少なくとも其の大綱に通暁せねば本当ではない。が、なかんずく肝要なることは、現在この神が、いかなる経綸の実行実施中であるかの問題で、これを理解体得して、御神業の助成に努力するにあらずんば、人間の人間たる価値はない。・・・・”

 

 “無量無辺の声音の変化は、窮極する所を知らないが、之を還源すれば、只(ただ)一音の「ス」に帰一する。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)が万有を捲き収めて帰一せる絶対一元の静的状態が、即ち「ス」である。宇宙根源の「ス」は、現に差別界に生息する人間では経験する事は出来ぬが、小規模の「ス」は間断なく経験し得うる。万籟(ばんらい)声を潜ひそめ、天地間、寂たる境地は、即ち「ス」である。安眠静臥、若しくは黙座鎮魂の状態も、同じく「ス」である。「ス」は即ち絶対であり、中和であり、統一であり、又潜勢力である。有にあらず、又無にもあらず、有無を超越したる一切の極元である。統(す)べる、皇(すべらぎ)、住む、澄む、済すむ等の「ス」は、悉く同一根源から出発した言霊の活用である。

 既に宇宙の間に八百万の神々が顕現された以上は、是非とも宇宙の大元霊、天之御中主神の極仁、極徳、極智、極真、極威、極神霊を代表して、之れを統一主宰する一神がなければならぬ。換言すれば、「ス」の言霊の表現神がなければならぬ。神典『古事記』には明瞭にこの間の神秘を漏らしている。三貴神の御出生の物語が、即ちそれである。伊邪那岐命の左の御目から御出生になられたのが、天照大御神である。左は即ち「火垂」で、霊系を代表される。右の御目から御出生になられたのが月読命である。右は即ち「水極」で、体系を代表される。御鼻を洗われる時に御出生になられたのが、建速須佐之男命である。鼻は即ち顔の正中に位し、気息(いき)の根を司り、左右の鼻孔は、霊体二系の何れをも具えて居る。即ち統治の位地にある。尚お『古事記』は、例の神話的筆法で、三神の御分担御職責を一層確定的に描いて居る。天照大御神の知しめさるる所は高天原であるが、大本言霊学で解釈すれば、高天原は全大宇宙である。天之神界の統治権の所在はこれで明白である。月読命の知しめさるる所は、夜の食国(おすくに)であるが、夜は即ち昼の従である。何所までも天照大御神を扶けて宇宙の経綸に当らねばならぬ御天職である。次に須佐之男命の知しめさるる所は海原である。海原とは大地である。即ち須佐之男命は宇宙の中心に位し、陽と陰との天上の二神の御加護によりて、統治の大責任を果されねばならぬ御職責であるのだが、屡々述ぶるが如く、従来は宇宙内部の未完成時代であるので、天之神界も尚真の理想世界たる能わず、地の神界の惑乱混濁は、更に一層劇甚を極め、妖気邪気濛々、闇黒時代を形成して居る。これが全部一掃せられて完全円満なる理想時代となるのは、近く開かるべき、第二の天之岩戸開きの暁である。・・・・・”

 

        (「出口王仁三郎著作集 第一巻」 『大本略義』より)

 

 

・イヌマヌエル・スウェーデンボルグ

 ”天使たちが感知している神は、「かたちのない神」と呼ばれているような〈見えざる神〉ではなく、人間の姿をとった〈見える神〉です。”

 

             (「天界と地獄」アルカナ出版より)

 

 “人々は救い主イエス・キリストなる神を信じなければならない、即ち、彼に対する信仰を持たなければならないのは、これは見えない神がその中に在すところの神に対する信仰であるからである。何故なら、人でありまた神である見える神に対する信仰は人の受け入れ得るものであるからである。

 純粋に霊的なものは実際人間に入りはするが受け入れられない。単に自然的な信仰または霊的本質を欠いた信仰は信仰ではなく単なる確信あるいは知識に過ぎない。確信は外的には信仰のように見えるけれども、内的には霊性を欠いているゆえ、その内には救うものは少しも存在しない。これが主の人間性の神性を否定する凡ての者の信仰である。見えない神に対する信仰は盲目である。それは人間の心はその神を見ないからである。このような信仰の光は霊的自然的なものでない為、偽りの光である。この光によって見られる物は凡て錯覚に過ぎず、外面的なものが真実なものとして誤認されるのである。

 しかし、救い主に在す主なる神に対する信仰はこれと異なっている。彼は神と人であるゆえ、思考によってこれに近づき、これを見ることが出来るのである。かかる信仰は不確定なものではなく、一定の対象をもち、一度受け入れられた時、止まるのは、人はその一度眺めた皇帝あるいは王の姿を思い浮かべることが出来るさまに似ている。“

 

 “救い主に在す主なる神に近づかなくてはならない。人間は外の道より超ゆるべきでないということは、父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである。それゆえ彼御自ら、単に人間が救われんがために、世に来たり、自らを目に見える者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることのできる者と為し給うたのである。”

 

 “前の教会は主として創造者なる神に対する信仰であり、贖罪者と救い主に対する信仰ではない。しかし新しい教会の信仰は創造者であり、贖罪者であり、救い主である一人の神に対する信仰である。”

 

               (「真の基督教」静思社)より)

 

 

・スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

「礼拝の対象となり得るのは人の姿をした神だけであり、無限なる神への礼拝は不可能である」

 “宗教は実現である。皆さんはおしゃべりと実現とを最もきびしく区別しなければならない。魂で知覚するのが実現である。人は霊を心に描くことができない。自分の前にあるものの形をたよりにしてそれを考えることしかできないのだ。青い空とか広い野原とか海とか、何とか、巨大なものを考えるよりほか仕方がないのだ。他にどのようにして神を考えることができよう。それゆえ皆さんは実際には何をしているか。遍在について語るとする、そのときには海を考えているのだ。神は海か。もう少し常識が必要である。常識ほど常でないもの、つまり払底しているものはない。世間はあまりにおしゃべりに満ちている。この泡のような世間のおしゃべりを暫くやめよ。われわれは現在の自分の構造上、神を人として見ざるを得ないように限定されているのである。もし野牛が神を拝みたいと思えば、彼らは神を巨大な野牛として見るであろう。もし魚が神を拝みたいと思うなら、神を大きな魚と考えなければなるまい。皆さんと私、アメリカ野牛、魚、それぞれがつまり形や大きさの異なる器である。これら全部が海にゆき、各自の器の形に応じて海水で満たされる。各自の中には水の他には何も入ってはいない。神の場合も同じである。人が神を見るときには、彼らは神を人として見る。そして獣は獣として、つまり各自が自分の理想に応じて見るのだ。これが、皆さんが神をみることのできるたった一つの方法である。皆さんは彼を人として拝まなければならない。なぜならそれ以外には方法がないからである。二種類の人が神を人として拝むことをしない。宗教をもたない人面の獣と、心身脱落したパラマハンサ(最高のヨギ)とである。後者は人間性を超越し、自然の限界を超えたのである。すべての自然が彼の自我となった。彼は心も肉体も持っていない。そして神を神として礼拝することができる。イエスあるいは仏陀にしてなし得るところである。彼らは神を人として拝まなかったのである。・・・”

     (「愛の叡智 ヴィヴェーカーナンダ講演集」日本ヴェーダーンタ協会より)