心ある道を歩む 〔カルロス・カスタネダ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*カルロス・カスタネダ(1925/31?~ 1998)とは、ペルー生まれのアメリカ人で、UCLAで文化人類学を学び、メキシコのソノラ砂漠に住むヤキ・インディオの呪術師ドン・ファン・マトゥスの下で長年にわたり修行した人物です。老呪術師ドン・ファンの教えや幻覚性植物の体験などを記録した彼の著作の数々は、日本でも八〇年代に、精神世界に関心を持つ多くの者に影響を与えました。

 

 

・「心のある道」―― 〈意味への疎外〉からの解放

 

 “ドン・ファンにとって生活すべてが〈コントロールされた愚かさ〉だという話をきいて、カスタネダはひどくさびしく、空虚な気分になる。そんなことで「どうして生活をつづけてゆけるのか」わからなくなる。そして彼の知っているある老人の話をする。

 「その老人は大変な富豪で、保守的な弁護士であり、自分は真実を支持しているという確信をもって生活していた。三〇年代初頭、ニューディール政策の出現とともに彼は自分が当時の政治劇にはげしく巻き込まれていることに気づいた。彼はその変化が国にとって有害であると絶対的な確信をもち、自分の生き方への愛着と自分は正しいとの信念から、政治的な悪と考える者とは徹底的に戦うことを誓った。しかし時の流れにはかなわなかった。彼は十年もの間政治の舞台や個人的な生活のなかでそれと争ったが、第二次世界大戦が彼の努力を完全に挫折させてしまったのである。彼の政治的・イデオロギー的転落は深い苦痛をもたらした。彼は二十五年間自ら放浪者となった。わたしが会ったときは八十四歳になっており、その後の短い生涯を家庭で過ごすために故郷に帰って来たのであった。彼が苦悩と己への憐れみのうちに、費やした生活を思うと、それほど長く生きてきたということがとても信じられなかった。やっと彼は私と一緒にいることにくつろぎを見出したので、私たちはよく長いあいだ話し合ったものだ。最後に彼に会ったとき、彼は次のようなことばで会話をしめくくった。『わたしはふりかえって自分の生活を顧みる時間をもった。わたしの時代のできごとは今ではただの語りぐさにすぎない。しかも面白い話でもない。きっとわたしは生涯の何年かをありもしないものを追うのにむだ使いしたのだろう。後になってわたしは何か茶番めいたことを信じこんでいたと思うようになった。それは少しも価値がなかったのだ。今ではそのことがわかっているつもりだ。だが失った四十年は埋め合わせができない。』〔現実〕111-112」

 「人が知者になったら、彼はいやおうなしにぼくの友人とおなじように空虚になって、ちっともよくないと思うんじゃないか。」

 「それはちがう」とドン・ファンがきっぱりという。「おまえの友人は見ることなしに死んでゆくからこそ孤独なんだ。その男は自分の一生でただ年をとってきただけだ。」〔同112〕

 

 老弁護士の四十年はなぜむなしいのか?ドン・ファンの生き方はどうちがうのか? 

 芭蕉は松島をめざして旅立つ、「奥の細道」の数々の名句をのこした四十日余の旅ののち松島に着く。しかし松島では一句をも残していない。「窓をひらき二階をつくりて、風雪の中に旅寝する」一夜を明かすのみで、翌日はもう石巻に発っている。松島はただ芭蕉の旅に方向を与えただけだ。芭蕉の旅の意味は「目的地」に外在するのではなく、奥の細道そのものに内在していた。松島がもしうつくしくなかったとしても、あるいは松島にたどりつくまえに病にたおれたとしても、芭蕉は残念に思うだろうが、それまでの旅を空虚だったとは思わないだろう。旅はそれ自体として充実していたからだ。

 

   古池やかはずとびこむ水の音

 

という芭蕉の別の句は、このような時間の構造を空間の構造におきかえている。

 この俳句をたとえば英語に翻訳することはむつかしいと思う。もちろん事象それじたいとして、何ひとつ翻訳に困難はない。古い池がある。蛙がとびこんだ。水の音がする。……一体何が面白いのだ。

 古池やの句がうたうのは、水の音そのものではない。蛙がとびこむ水の音がひろがりそして消えてゆく静寂の質のようなものだ。水の音という図柄はじつは、このしずけさの空間を開示する捨て石なのだ。

 すでに引用した宮沢賢治の「岩手山」がそうであるように、存在を非在の非在として、有を無の無としてとらえる感覚の反転力をこの一句は前提している。ドン・ファンがあの溶岩質の山肌に照り返す光のせめぎあい充満する峡谷(キャニオン)に立ってカスタネダに見せようとしたのも、世界のこのようなあり方だった。

 けれども図と地とを反転する感覚そのものはいまだ、「世界を止める」という主題の系にすぎない。ここでの問題はこのような反転をとおして、地を地として輝きにあふれたものとする感覚だ。”(P131~P134)

 

 

 “「その男は自分の一生で見ることもなく、ただ年をとってきただけだ。」ドン・ファンはいう。「今度はこれまでにもまして自分を憐れんでおるだろう。彼は勝利にひきつづく敗北ばかりをみてきたから、四十年をむだにしたと感じておるんだ。勝利することも敗北することも同じだってことが彼にはけっしてわかるまいよ。」

 「おまえの友人にとっては努力が敗北に終わったからそれには価値がないのだろう。わしにとっては勝利もないし敗北もない、空虚さもない。すべてのものがあふれんばかりに充実しておる。」〔「現実」112-113〕

 ドン・ファンはこういって木のスプーンでナベをかきまわす。料理ができあがる。

 「彼はわたしに坐れと合図してスープをよそった。彼はニコニコしていた。その目はわたしがいることを本当に楽しんでいるように輝いていた。ボールをそっとわたしの方に押した。彼のしぐさにはとても温かさとやさしさがあったので、わたしの彼への信頼感をとりもどそうとしているかのようにも思えた。バカげていると思った。そのムードをこわすためにスプーンをさがしたがみつからなかった。スープはあつくて、おわんから直接飲むことはとてもできなかった。それをさましている間に、コントロールされた愚かさというのは、知者は誰をも決して好きにならないということなのかと、きいてみた。

 『おまえは人を好いたり人に好かれたりすることに気をつかいすぎるぞ。知者は好きになる。それだけだ。』」〔同113-114〕”(P136~P137)

 

 

 “……戦士の使う新しい楯が〈コントロールされた愚かさ〉、つまりみずからの意志を意志することであることをわれわれはすでに知っている。けれども、それはなお形式であって、どのような意志を意志するべきかは教えない。

 このような意志を意志する基準、いいかえれば〈世界をつくる項目を選ぶ〉一般的な基準を、ドン・ファンは〈心のある道を選ぶ〉とよぶ。この章でみてきた二つの挿話で、老弁護士とドン・ファンの生を区別し、幽霊たちと「現実的な人間」を区別するのは、この〈心のある道〉ということだ。

 〈力〉がたたいて自分に裂け目を開いた時に「衝撃から気をとり戻して裂け目を閉じ、自分を固まらせるために意識的に使える物ごとを、選びぬいておかねばならん」ということばにつづけて、ドン・ファンはこのように言う。

 「何年かまえに戦士は毎日の生活のなかで心のある道を行くってことを話したろう。戦士をふつうの人間と区別するのは、いつも心のある道を歩んでいるということだ。そういつが道と一体になるとき、つまりその道のりを歩みながら大いなる平和とよろこびを体験するとき、その道には心があることがわかるんだ。戦士が自分の楯をつくるために選び出す事物とは、心のある道の項目のことなのさ。」〔「現実」270-271〕

 「何年かまえに」とドン・ファンがいうように、このシリーズの最初の本の扉のことばは、〈心のある道〉についてだった。

 ――わしにとっては、心のある道を歩くだけだ。どんな道にせよ、心のある道をな。そういう道をわしは旅する。その道のりのすべてを歩みつくすことだけが、ただひとつの価値のある証しなのだよ。その道を息もつがずに、目を見ひらいてわしは旅する。〔「教え」扉〕

 

 すでに引用したように、(序章)ドン・ファンはべつのところで、このことを説明してつぎのようにいう。「知者は行動を考えることによって生きるのでもなく、行動をおえた時考えるだろうことを考えることによって生きるのでもなく、行動そのものによって生きるのだ。知者は心のある道を選び、それにしたがう。そこで彼は無心に眺めたりよろこんだり笑ったりもするし、また見たり知ったりもする。彼は自分の人生がすぐに終わってしまうことを知っているし、自分が他のみんなと同様にどこへも行かないことを知っている。」〔「現実」109〕

 それはドン・ファンが生活をその「意味」へとい疎外しないということだ。「おまえは生活の意味をさがそうとする。戦士は意味などを問題にしない。」〔「現実」226〕「生活はそれ自体として充全だ。みちたりていて、説明など必要とせん。」〔TP、p56〕

 彼にとって「成功も敗北も空虚さもない」のは、これらのカテゴリーがすべて、意味へと疎外された行動にとってのカテゴリーだからだ。老弁護士は敗北したのでその生活の空虚さをおおうすべもなかった。それは彼の年月が意味へと疎外されていたばかりでなく、意味からも疎外されてしまったからだ。しかしもし彼が成功していても、その年月の空虚さは、外的な意味の蓄積(地位や栄光)によっておおわれているだけで、生それじたいに充実があったわけではない。

 ドン・ファンが知者の生活を「あふれんばかりに充実している。」というとき、それは生活に「意味がある」からではない。生活が意味へと疎外されていないからだ。つまり生活が、外的な「意味」による支えを必要としないだけの、内的な密度をもっているからだ。

 われわれはひとわたり旋回したあとで、ようやくあのナヴァホ族の讃歌の世界にもういちど舞い戻ってくる。

 

 美がまえにある

 美がうしろにある

 美が上を舞う

 美が下を舞う

 私はそれにかこまれている

 私はそれにひたされている

 若い日の私はそれを知る

 そして老いた日に

 しずかに私は歩くだろう

 このうつくしい道のゆくまま

 

 ドン・ファンが知者への道の第四の敵としてあげるのは「老い」であった。あの富豪の弁護士の老年を対照におくと、〈心のある道〉がどのようにこの最後の敵を克服するかはあきらかであろう。幽霊でなく道のり自体が現実である人間にとって、老いること、やがて死ぬことは一つの寂寥ではあるが、生を空虚にするものではない”(P143~P147)

 

(真木悠介「気流の鳴る音 交響するコミューン」(ちくま文庫)より)

 

*先月、真木悠介こと社会学者の見田宗介先生の訃報を知り、久しぶりに先生の著書の一つ「気流の鳴る音」を読みかえしてみました。この本は、若き人類学者カスタネダが老呪術師ドン・ファンから学んだ数々の教えを紹介するものとしてもよく纏まっていると思います。そして、それだけでなくカスタネダ以外のことについてもあれこれ記述されており、私はこの本がきっかけで、はるばる奈良の大倭紫陽花邑(おおやまとあじさいむら)の矢追日聖先生に会いに行き、紫陽花邑に泊めていただいたことがあります。当時、見田先生の本から影響を受けた者は結構多かったのではないかと思います。

 

*このドン・ファンの語る、人生についての教えは、まさにバガヴァッド・ギーターの中で述べられているカルマ・ヨーガと同じですし、カルマ・ヨーガの具体的な説明としても優れたものだと思います。「行動の『結果』を放棄する」というよりも、「勝利であろうが敗北であろうが、そもそも『結果』それ自体に価値がない」ということのようで、つまりカルマ・ヨーギは、「結果に執着しないようにする」のではなく、「最初から結果には関心がない」のです。ただこれは単に頭で理解しただけでは実践は難しいでしょうし、やはり師の導きなど、高次の力の作用による意識の変容を必要とするのではないかと思います。

 

*年老いて自分の人生をふり返って、特に目立った業績はなく、これまで家族のために一生懸命に頑張ってきたのに理解してもらえず、あろうことか疎ましく思われ、空虚さを感じておられる方は少なからずいらっしゃるのではないかと思います。私の知るあるクリスチャンの方は、古代ローマの原始キリスト教徒たちの生活をテーマにしたトルストイの小説「光あるうちに光の中を歩め」(短編なのであっという間に読めます)を読んで、この危機を克服されたということでしたが、原始キリスト教徒や、浄土真宗の妙好人の方々は、意識せずしてカルマ・ヨーガを実践しておられたように思います。

 

*「霊界物語」が拝読者の頭を悩ますことの一つに、「結末がない」というのがあります。悪が滅ぼされてミロクの世が実現し、めでたし、めでたし、で終わるのではなく、悪は逃げてしまうだけで滅ぼされることはなく、世界がミロクの世となるわけでもありません。どういうわけかストーリーが途中で打ち切られたようになっており、水が流れるように順番に読み(「霊界物語は水が流れるように読ましていただくものや。水は高いところから順番に流れてくるやろ。中流まできて、元の水上に戻ると逆流する。水の流れるように読みなさいよ」)、最後まで読んだらまた一巻から読むというループを繰り返すことになっています(かといって延々と読み続けなければならないわけではなく、出口聖師は「一巻を読んだだけでも救われる」と言われています)。この「霊界物語」の奇妙な構造とカルマ・ヨーガには、何かしら共通の霊的な法則があるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人気ブログランキング