根をもつことと翼をもつこと〔C・カスタネダ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “人間の根源的な二つの欲求は、翼をもつことの欲求と、根をもつことの欲求だ。

 ドン・ファンの生き方がわれわれを魅了するのは、みてきたように、それがすばらしい翼を与えてくれるからだ。しかし同時にドン・ファンの生き方がわれわれを不安にするのは、それが自分の根を断ってしまうように思われるからだ。

 「履歴を消しちまうことがベストだ。……そうすれば他人のわずらわしい考えから自由になれるからな。」とドン・ファンがいうとき、それはたしかに人間にすばらしい自由を与えてくれるだろう。しかしそのかわり、それは人間の存在のたしかさのようなものを奪ってしまうのではないか?

 「だれが、なぜそんな望みをもつの?」カスタネダは叫んでしまう。

 彼は自分の履歴にかなりの愛着を感じていたのだ。彼の家系の源は深かった。「それなしでは、わたしの人生の連続性も目的もなくなってしまう。」カスタネダは心からそう感じていた。

 ドン・ファンはわれわれを〈まなざしの地獄〉としての社会性の呪縛から解放する。しかし同時に、それはわれわれの共同性からの疎外ではないだろうか?

 執着するもののない生活とは、自由だがさびしいものではないのか?

 

 このシリーズの最後のところで、師と別れて旅立ってゆくカスタネダとパブリート(ドン・ヘナロの弟子)にたいして、ドン・ファンとドン・ヘナロとが与えた最後のレッスンは、〈根をもつことと翼をもつこと〉という、このわれわれの最後の問いへの回答であった。

 ドン・ヘナロはカスタネダがかつて、戦士の生活はつめたくさびしく、情感に欠けるようだと言っていたことを思いおこさせる。

 「戦士の生活はつめたくもさびしくも、情感に欠けるものでもありえないのさ。」と彼がいう。「それは戦士の愛するものへの情愛と献身にもとづいているのだからな。ところでだれがその戦士の愛するものかと、おまえはきくかもしれないな。今からそれをみせてやろう。」

 ドン・ヘナロは立ちあがって少しはなれた平たい場所にゆく。彼はふしぎな身ぶりをはじめる。自分の胸と腹とからほこりをはらうように両手をうごかす。奇妙なことがおこる。ほとんど目にみえないほどの光が彼のからだをつらぬく。その光は大地から来て彼の全身をともしているようだ。

 「ヘナロの愛は〈世界〉なのさ。」ドン・ファンがはっきりという。「大地はヘナロの愛を知っていて、彼をいつくしんでいるのさ。だからヘナロノ生活はあふれんばかりに充実していて、どこにいようともゆたかでいるのさ。ヘナロは自分の愛する者の道を旅してゆくのだから、どこまでいっても完全なのさ。」

 「これが二人の戦士の執着だ。この大地、この世界。戦士にとってこれ以上に大きな愛はないのさ。」〔TP,pp.280 f.〕

 

 からだは溶けて宇宙となる

 宇宙は溶けて音のない声となる

 声は溶けていちめんの輝きとなる

 そして輝きはかぎりない歓喜の胸に抱かれる

               ――パラマハンサ・ヨガナンダ

 

 〈根をもつことと翼をもつこと〉をひとつのものとする道はある。それは全世界をふるさととすることだ。

 われわれにとって真にゆるぎない根の根とはなにか。家族、郷村、民族、人類、これらのものにわれわれは「根」をもとめている。しかしこれらのはかない存在の支えあってつくる「世界」がゆるぎない「大地」であるのは、われわれの日常意識の「明晰さ」にとってだけだ。”(P153~P156)

 

 “われわれの根を存在の中の部分的なもの、極限的なものの中におろそうとするかぎり、根をもつことと翼をもつことは必ずどこかで矛盾する。その極限されたもの――共同体や市民社会や人類――を超えて魂が飛翔することは、「根こそぎ」の孤独と不安とにわれわれをさらすだろうから。「おまえを支えてくている存在へのゆるぎない愛がないとき、ひとりでいることは孤独なのだ。」〔TP,p.283〕

 しかしもしこの存在それ自体という、最もたしかな実在の大地にわれわれが根をおろすならば、根をもつことと翼をもつことは矛盾しない。翼をもってゆくいたるところにまだ見ぬふるさとはあるのだから。”(P158)

 

 “カスタネダはメキシコ北部の荒野の中で、南へ限りなくのびる土地の広がりを視界にもった丘の頂上に、自分の場所をもつことになる。

 「これをみんな記憶に焼きつけておくんだぞ。」ドン・ファンが耳元でささやく。「この場所はおまえのものだ。今朝、おまえは見た、それがまえぶれなんだ。おまえが見て、この場所を見つけたんだぞ。この丘の頂上はおまえの場所だ。この、おまえのまわりにあるものはみんな、おまえの保護のもとにあるんだ。おまえはここにあるすべてのものの世話をしなけりゃいかん、そうすれば、それがお返しにおまえの世話をしてくれるだろう。」

 カスタネダは笑い、自分たちのしていることは、スペイン人が彼らの王の名のもとに新世界を征服し、土地を分割した話を思い出させる、という。スペイン人たちは山に登って、ある方角に見える限りの土地の所有権を主張したのだ。

 「そいつはいい考えだ。」ドン・ファンがいう。「見える限りの土地をおまえにやろう。しかも、一つの方角でなく、周囲全部をな。」

 彼は立ちあがって腕をのばし、完全に一周からだをまわして周囲を指さす。

 「ここの土地ぜんぶ、おまえのものだ。」

 カスタネダは大声で笑う。

 「この土地の所有者でもないのに。」

 「それがどうした?スペイン人だってもってもいないのに、分けてやっちまったろう。」

 「おまえの目に見えるところまで、この土地はおまえのものだ。」彼はつづける。「使うんじゃない、覚えるんだ。だが、この丘のてっぺんは、おまえがこれから生涯使うおまえのものだ。それはおまえが自分でみつけたところだからだ。」「ここに棲むどの虫もおまえの友だちだ。おまえはそれを使うこともできるし、それがおまえを使うこともできるんだ。ここがおまえの場所、自分の財産をためる場所だ。」「ここにしみこむまで、丘の頂上がおまえをひたすまで、ひとりで来にゃならん。おまえがそれでいっぱいになるときは、自分でわかるさ。」〔「旅」二一三-二一八〕”(P159~P160)

 

 “同時にドン・ファンはべつのところでこんなことをいう。

 「戦士というものは自分でほしいものを取ったり使ったりするのになんの懸念もない海賊みたいなものだ。ただ、戦士は自分が使われたり取られたりしても、気にもせんし、侮辱されたとも感じないがな。」〔「旅」二九一〕”(P163~P164)

 

 “人間を自然からきりはなしこれと対立することで太初にみずからの根を断ってきた型の文明の運命は、必然的に人間相互をきりはなし壁をめぐらし合うことだ。それは共同体がたがいに、そしてその最終的に細分化されたかたちとしての近代市民社会においてはひとりひとりの個人がたがいに〈他者〉たちのうちにみずからの疎外してきた〈自然〉の相貌を、すなわちよそよそしさとしての物(もの)的な力のすがたを、みとめ合うからだ。

 そしてこのような関係性の原則によって存立する歴史的「世界」のうちにわれわれが生きつづけるかぎり、飛翔する〈翼〉の追求が生活の〈根〉の疎外であり、ささやかな〈根〉への執着が障壁なき〈翼〉の断念であるという、二律背反の地平は超えられない。

 「自分の存在を支えてくれるものを愛することもできず、対立するような人間どもだけが悲しみをもつ。」「大地への愛を完全に理解したときにはじめて、それは自由というものを教えてくれたんだ。この壮麗な存在への愛だけが、戦士の翼を自由にするのさ。」

 その夜のおわりにドン・ファンはこのようにいって、カスタネダとパブリートに別れを告げる。

 「夜明けの光は世界と世界のあいだの裂け目だ。それは未知なるものへの扉だ。」〔TP,pp.282 f.〕”(P165~P166)

 

(真木悠介「気流の鳴る音 交響するコミューン」(ちくま文庫)より)

 

(外園雅也「ワイズマン 1」(講談社)より)

 

*この『根をもつことと翼をもつこと』を可能にする『全世界をふるさととする』ことは、出口聖師が「霊界物語」の中でいわれている「自我の宇宙的拡大」、また大乗仏教の「大欲」の教えと同じことを言っているように思えます。さらに、「大本教旨」「大本三大学則」のお示しにも則っていると思います。

 

〔大本教旨〕

 神は万物普遍の霊にして人は天地経綸の大司宰也。神人合一して茲に無限の権力を発揮⦿()

 

〔大本三大学則〕

 一、 天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし

 一、 万有の運化の事差なきを視て、真神のカを思考すべし

 一、 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すベし

 

 

*老呪術師ドン・ファンのカスタネダへの「自分の場所」の教えについて、日本古来からの産土信仰もまた、本来はこのようなものだったのではないかと思います。出口聖師によると、そもそも「人間」を含むすべての生命は「お土」から蒸しわかされたもので、神が人間を『土』から創造されたということは、「創世記」をはじめ、多くの民族の創世神話で述べられていることです。「人間」はもとから「お土」と感応するように創られており、さらに地表三尺は全大宇宙と霊的に結びついているために、その「お土」との感応は、「全大宇宙」との感応へとつながってゆきます。このように考えると、我々が日々暮らしている土地の神霊との交感の場でもある産土神社が、自分にとっていかに重要な聖地であるのか、また、たとえば外国勢力に国土を占領され、しかも相手が無神論者たちであった場合、それが霊的にどれほど悲惨なことなのかがよくわかります。

 

 

・「霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻」『第十二章 顕幽一致』より

 

 “神は三千世界の蒼生は、皆わが愛子となし、一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。凡俗はわが妻子眷属のみを愛し、すこしも他を顧みないのみならず、自己のみが満足し、他を知らざるの小貪欲を擅にするものである。人の身魂そのものは本来は神である。ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度のために、そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、いはゆる自我の宇宙的拡大である。
 いづれにしても、この分段生死の肉身、有漏雑染の識心を捨てず、また苦穢濁悪不公平なる現社会に離れずして、ことごとく之を美化し、楽化し、天国浄土を眼前に実現せしむるのが、吾人の成神観であつて、また一大眼目とするところである。”

 

  

・出口王仁三郎聖師の「大地の思想」

 

“大国: 「土は生命を蒸しわかすところであり、生命あるものは、土が育て上げるものである。また、土は霊界の霊流の最後に止まるところで、ここであらゆるものが完成されて、ここから霊界が出来上がってゆく、いわば霊界の苗代である」というのが、王仁三郎先生の根本の思想ですね。”

 

 

“木庭: お土、すなわち、この地球は、宇宙の中でも、最も元素が多い、他の天体は少ない、と王仁三郎先生は言われていますね。王仁三郎先生のご著書である「霊界物語」の中には、天界の内流の終極点がお土、すなわち、この地球である。神の理想が具現されているのが地球である。地球表面の三尺の土が、神のご経綸上である。この地表三尺で宇宙の全部を吸収できるようになっているんだ、と言われています。また、地球の中に、太陽と月を動かす霊力がある。月も太陽も星も地球が支配している。だから、太陽も月も、地球の付属物であって、神は、月を機関として、地球を神の理想の状態にあるように守られている。太陽の霊気も、月の霊気も、宇宙のあらゆる天体の力も、すべて地球にきている。そして地球は、人体と同じ働きをしており、呼吸作用を営んでおるのだ、と申されています。”

 

  (「人類愛善新聞」昭和47年1月号 『出口王仁三郎師の大地の思想を語る』より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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