産土(うぶすな)大神 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

*「霊界物語」第52巻には、かつてウラナイ教という邪教を信じ、のちに三五教(あなないきょう、大本教のこと)に改宗して宣伝使となった文助という男が、とある事故で仮死状態となり、霊魂が霊界をさまようという話があります。その中で産土の神様の御神徳について具体的に述べられています。

 

 “文助は重た相な石が、土鼠(もぐら)が持つ様に、ムクムクと動くので、此奴ア不思議と立止り神言(かみごと)を奏上してゐると、一人は二十歳位な娘、一人は十八歳位な男が岩の下から現れて来た。文助は何者ならむと身構へしてゐると、男女二人は文助の側へ馴々しくよつて来て、

 「お父さま、能う来て下さいました。私は年子で厶(ござ)います……私は平吉で厶います」

 「私には、成程お年、平吉といふ二人の子はあつた。併しながら其の子は、姉は三つの年に、弟は二つの年に死んだ筈だ。お前のやうな大きな子を持つた筈はない、ソラ大方人違ひだらう」

 年子「私は三つの年に現界を去つて、あなたの側を離れ、霊界へ出て来ました。さうすると沢山な、お父さまに騙された人がやつて来て、彼奴は文助の娘だと睨みますので、居るにも居られず、行く所へも行けず、今日で十六年の間、此の萱野ケ原で暮らして来ました。そして毎日ここに隠れて、姉弟が住居をして居ります。霊界へ来てから、ここまで成人したのです」

 「成程、さう聞けばどこともなしに女房に似た所もあり、私(わし)の記憶に残つてゐるやうだ。そしてお前等二人は永い間此処(ここ)ばかりに居つたのか」

 平吉「ハイ、姉さまと二人が木の実を取つたり、芋を掘つたり、いろいろとして、今日迄暮らして来ました。人に見つけられようものなら、すぐに、お前の親は俺をチヨロまかして、こんな所へ落としよつたと云つて責めますから、それが苦しさに、永い間穴住居(あなずまゐ)をして居ました」

と涙を滝の如くに流し、其の場で姉弟は泣き伏して了つた。文助は手を組み、涙を流しながら思案にくれてゐると、後から文助の背を叩いて、

 「オイ文助」

といふ者がある。よくよく見れば、生前に見覚えのある竜助であつた。文助は驚いて、

 「イヤ、お前は竜助か、根つから年がよらぬぢやないか」

 「折角お前が生前に於いていろいろと結構な話をしてくれたが、併しながら其の話はスツカリ霊界へ来て見ると、間違ひだらけで、サツパリ方角が分からぬやうになり、今日で十年の間、此の原野に彷徨うてゐるのだ、これから先へ行くと、八衢(やちまた)の関所があるが、そこから追ひかへされて、かやうな所で面白からぬ生活をやつてゐるのだ。お前の為にどれだけ苦しんでゐる者があるか分つたものでないワ」

 「誰もかれも、会ふ人毎に不足を聞かされ、たまつたものぢやない。ヤツパリ私の言ふ事は違うて居つたのかなア」

 「お前はウラナイ教を俺に教へてくれた先生だが、あの教は皆兇党界(きようたうかい)の神の言葉だつた。それ故妙な所へ落とされる所だつたが、産土の神様の御かげによつて、霊界の方へやつて貰うたのだ。併しながら生前に於いて誠の神様に反(そ)むき、兇党界ばかりを拝んだ罪が酬うて来て、智慧は眩み、力はおち、かやうな所に修業を致して居るのだ。お前の娘、息子だつてヤツパリお前の脱線した教を聞いてゐたものだから、俺達と同じやうに、こんな荒野ケ原に惨めな生活をしてゐるのだ。そして大勢の者にお前の子だからと云つて、憎まれてゐるのだ、俺はいつも二人が可愛相なので、大勢に隠れて、チヨコ チヨコ喰物を持つて来たり、又淋しからうと思つて訪問してやるのだよ」

 「あ、困つた事が出来たものだなア、今は改心して三五教(あななひけう)に入つてゐるのだ。マ、其の時は悪気でしたのでないから、マ、許して貰はな仕方がない、どうぞ皆さまに会つてお詫びをしたいものだ」

 「三五教だつて、お前の慢心が強いから、肝腎の神様の教は伝はらず、ヤツパリお前の我(が)ばかりで、人を導いて来たのだから、地獄道へ堕ちたのもあり、ここに迷うて居るのも沢山ある。なにほど尊い神の教でも、取次が間違つたならば、信者は迷はざるを得ないのだよ」

 「何と難かしいものだなア。吾々宣伝使は一体何うしたらいいのだらうか、訳が分からぬやうになつて了つた」

 「何でもない事だよ、何事も皆神様の御蔭、神様の御神徳に仍つて人が助かり、自分も生き働き、人の上に立つて教へる事が出来るのだ。自分の力は一つも之に加はるのでないといふ事が合点が行けば、それでお前は立派な宣伝使だ。余り自分の力を頼つて慢心を致すと、助かるべき者も助からぬやうな事が出来(しゆつたい)するのだよ。是から先には沢山のお前に導かれた連中が苦しんでゐるから、其の積もりで行つたがよい。二人の娘、息子だつてお前の為に可愛相なものだ。筆先に『子に毒をのます』と書いてあるのは此の事だ。合点がいつたか」

と、どこともなしに竜助の言葉は荘重になつて来た。文助は思はず神の言葉のやうに思はれてハツと首を下げ、感謝の涙にくれてゐる。忽ちあたりがクワツと明るくなつたと思へば、竜助は大火団となつて中空に舞ひのぼり、東の方面指して帰つて行く。之は文助の産土の神であつた。

 産土の神はお年、平吉の二人を憐れみ、神務の余暇に此処へ現れて、二人を助け給ひつつあつたのである。文助は始めて産土の神の御仁慈を悟り、地にひれ伏して涕泣(ていきふ)感謝を稍(やや)久しうした。

 文助は二人に向かい、

 「お前たち二人は、子供でもあり、まだ罪も作つてゐないから、ウラナイ教の御神徳で天国へ行つて居る者だとのみ思つてゐたのに、斯様な所で苦労してゐたとは気がつかなかつた。之も全く私の罪だ。どうぞ許してくれ、さぞさぞ苦労をしたであらうな」

 お年「お父さま、あなたの吾々を思うて下さる御志(おこころざし)は本当に有難う厶いますが、何と云つても、誠の神様の道に反(そむ)き、兇党界の神に媚び諂(へつ)らひ、日々罪を重ねてゐられるものですから、私たちの耳にも、現界の消息がチヨコチヨコ聞こえて、其の度毎に剣を呑むやうな心持ちで厶いました。今日も亦文助の導きで兇党界行きがあつたが、産土様のお蔭で霊界へ救はれたといふ噂を幾ら聞いたか分りませぬ。弟も余り恥かしいと云つて外へ出ず、又外へ出ても大勢の者に睨らまれるのが辛さに狐のやうに、穴を掘つて、此(この)岩の下に生活を続けて来ました。これだけ広い野原で、石なとなければ印(しるし)がないので、産土様のお蔭で、此石を一つ運んで貰ひ、これを目当に暮らしてゐます。石といふものは、さやります黄泉大神(よもつおほかみ)と云つて、これさへあれば敵は襲来しませぬ。此岩のお蔭で、姉弟がやうやうとここまで成人したので厶います。お父さまも、一時も早く御改心を遊ばして、吾々を天国へ行くやうにして下さい」

 「今までは、吾々が祝詞の力に仍(よ)つて天国へ救へるもの、又は導けるものと思うてゐたが大変な間違ひだつた。これは神様の御力に仍つて救はれるのだつた、今迄は自分の力で人を救うと思ひ、又人の病(やまひ)を自分の力で直すと思うたのが慢心だつたのだ。もう此上は神様に何事も任かして、御指図を受ける外はない。ああ惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」

と親子三人は荒野ケ原に端坐して、一生懸命に祈願を凝らした。”

 

        (「霊界物語」第五二巻 真善美愛 卯の巻 『千引岩』より)

 

*出口王仁三郎聖師の宗教は、万物の根源であり最高神である主神を崇拝対象とする一神教ですが、「主神の命に依りて各(おのおの)その神権を分掌し給う」八百万の神々のご活動についても重視されており、特に産土の神様の重要性が強調されています(今の大本、愛善苑はそれほどでもないようですが)。

 

*出口聖師は、「地獄は坊主で満ちている」と言われたことがあります。本文中にあるように、天国へ往く資格がありながら、葬式のときの取次(多くは仏教の僧侶)が間違った信仰を持っていたため、あるいは慢心していたために、天国へ往くことができず、中有界をさまようことになってしまった霊魂が沢山あるのだそうです。坊主が地獄落ちというのは、そのように多くの霊魂を惑わした罪のせいです。おそらく、これは明治以降に仏教学が進み、「空」の解釈をめぐって「無霊魂説」が主流となったからではないかと思われます。ですが、たとえば高野山真言宗の管長だった金山穆韶師は、「仏教は『有霊魂説』です」と断言されており、他にも素晴らしい僧侶の方は多数おられますので、決して仏教を批判するわけではありません。

 

*大本では帰幽者がでた場合、招魂祭時に大神様に奏上される「帰幽および招魂奏上祝詞」において、「掛巻も恐き大本皇大御神(及産土大神等)の大前に慎み敬ひ恐み恐みも白さく‥‥‥」と、大神さまとともに、産土大神にも帰幽の由を奏上する形式をとっています。他の宗教の信徒の方であっても、ご家族が帰幽され、喪が明けたならば、その地域の産土神社へその方の帰幽の由を(どの宗教で葬式を行ったということも含めて)報告に伺い、これまでの御守護に対しての感謝をお伝えされるのが良いと思います。

 

*出口聖師の言葉に、「産土の大神様は日に三度各家に廻ってこられ、その家の様子をみられる」というのがあります。江戸時代の霊界通信「幽顕問答」にも、産土の神が月次祭の日には各家々に豊かな気を送られるとあり、確かに産土神社、あるいは氏神様に月参りを欠かさない、という方は、必ず何らかのおかげを受けておられるようです。風水やパワースポットなぞより、毎月自分の住んでいる土地の産土様にお参りに行く方が、はるかに効果があるでしょうし、その土地に住まわせていただいているからには、それが神界への礼儀だと思います。出口聖師もしばしば小幡神社や丹波一の宮の出雲大神宮へ参拝されました。

 

*日本各地に、その地域ごとに一の宮、二の宮、三の宮等が存在しておりますが、これらは平安時代の「延喜式」で定められたものです。この「延喜式」はこれまで藤原時平ほか11名によって編纂されたとされていますが、出口聖師によると、実は時平ではなく菅原道真公によるものであり、菅公はまさに神人とも言える人物であって、審神者(サニワ)としても高い霊能を持っていたからこそ、このような神様の位階についても正しく霊査することができたのだそうです。

 

 (小幡神社:出口聖師の産土神社)

 

・ルドルフ・シュタイナー

 

 “多神教の方が、実は神界の現実に則しており、その意味で正しいのである。一神教は永遠の真理なのではない。世界の根底の統一性を開示する存在が自我の力を人間に与えるとき、一神教という思想が生まれるのである。その意味で、一神教は非常に重要なものなのであるが、これからは一神教によって強められた思考を保ちながら、数多くの神々に向かい合う時代に来ている。たんに多神教的に神々に向かい合うだけでは、太古の意識状態に先祖帰りするだけで終わってしまい、今までの進化は無駄になってしまう。一神教的な思考力をいささかも失うことなく、神々に向かい合う必要があるのである。”

(松澤正博・西川隆範共著「いま、シュタイナーの「民族論」をどう読むか」(イザラ書房)より)