“凡俗は小なる悲観者であり、また小なる楽観者である。社会、娑婆、現界は、小苦小楽の境界であり、霊界は、大楽大苦の位置である。理趣経には、「大貪大痴是れ三摩地、是れ浄菩提、淫欲是道」とあつて、いはゆる当相即道の真諦である。
禁欲主義はいけぬ、恋愛は神聖であるといつて、しかも之を自然主義的、本能的で、すなはち自己と同大程度に決行し、満足せむとするのが凡夫である。これを拡充して宇宙大に実行するのが神である。
神は三千世界の蒼生は、皆わが愛子となし、一切の万有を済度せむとするの、大欲望がある。凡俗はわが妻子眷属のみを愛し、すこしも他を顧みないのみならず、自己のみが満足し、他を知らざるの小貪欲を擅にするものである。人の身魂そのものは本来は神である。ゆゑに宇宙大に活動し得べき、天賦的本能を具備してをる。それで此の天賦の本質なる、智、愛、勇、親を開発し、実現するのが人生の本分である。これを善悪の標準論よりみれば、自我実現主義とでもいふべきか。吾人の善悪両様の動作が、社会人類のため済度のために、そのまま賞罰二面の大活動を呈するやうになるものである。この大なる威力と活動とが、すなはち神であり、いはゆる自我の宇宙的拡大である。
いづれにしても、この分段生死の肉身、有漏雑染の識心を捨てず、また苦穢濁悪不公平なる現社会に離れずして、ことごとく之を美化し、楽化し、天国浄土を眼前に実現せしむるのが、吾人の成神観であつて、また一大眼目とするところである。”
(「霊界物語 第一巻 霊主体従 子の巻」『第十二章 顕幽一致』)
・「理趣経」(真言宗の経典の一つ)の説く「大欲」の教え
“初期の仏教徒は、人間が受ける種々の苦悩は煩悩にもとづいていると考えた。煩悩には貪(むさぼ)りや怒りなどさまざまなものがあるが、そうした煩悩、欲望を抑制して平安な境地へ至ろうとしたのである。彼らにとって煩悩、欲望は厭うべきものであり、滅するべきものであった。
これに対して「理趣経」は、性愛のような欲望も、本質的には清らかであると説く。欲望を否定し去るのではなく、個人的な我執を、他人の幸せを願う、より大きな欲望へと昇華させようと主張するのである。
このような大欲(たいよく)の思想を説く「理趣経」の内容を、百字の偈によって集約しているといわれる「百字の偈」を読んでみよう。”
〔現代語訳〕
“菩薩の中ですぐれた智慧のある者は、生死の世界がつきるまで、いつでも人々の利益のためにはたらき、しかも安らぎの世界におもむくことがない。
さとりの智と人々を救う手だてとの智慧の完成をもって、不思議な力ぞえをなして、あらゆる事物およびあらゆる生き物を、残りなく清らかなものにする。
欲望などをもって世間の人々を整え、汚れを除き清めることができるのだから、上は最高天から下は苦しみの世界に及ぶまで、すべての存在者を整えて、さとりの世界へと導く。
赤い蓮華にはもともと色がついており、汚れに染まったのではないように、人間のもろもろの欲望の本性もその通りで汚れに染まったものではないから、このままで多くの人々の役に立つ。
大いなる欲望によって清らかとなり、大安楽にして豊かに富み、全世界において自由自在に活動し、人々のための利益を確実なものとするのである。”
〔解説〕
“「理趣経」の注釈書である、「理趣釈」は、「百字の偈」の一行ずつを、順に、金剛薩埵、欲金剛明妃、金剛髻梨吉羅明妃、金剛慢明妃のさとりの境地を示したものと解釈している。
「百字の偈」は、真実の智慧を獲得した修行者は、全身全霊をうち込んで他者の利益のために活動し、苦しみ悩む人々の救済のために専心努力すべきであると説いている。
この経典が欲望の肯定を述べた目的は、感覚的欲望をそのまま認めようとするものではなかったのである。「理趣経」は、ともすれば自己中心におちいりがちな私たちの欲望をそのまま小欲にとどめることなく、利他の大欲へと無限に向上させよと説いて、密教の理想とする修行者像を描き出そうとしたのであった。”
(松本照敬「密教経典入門」東書選書)