世界滅亡の預言は実現させぬ | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  


 

 王仁が出たのはお筆先をあわさぬようにする為である。お筆先が当たってたまるものか。

  (昭和二十年)

 

         (木庭次守編「新月のかけ」)

 

 

・終末預言の解釈について   〔エドガー・ケイシー・リーディング〕

 “地球の変動との関連でいえば、これらは預言を通してばかりではなく、占星学の視点からも、高い地位にいる人々や集団の考えを通しても指摘されている。「時の完了」というべきものの中で、こうしたことが起きているのである。

 だが、地球にキリストが到来し、天の父とのとりなしを人類にお与えになって以来、「神の報復」と呼びならわされているものの多くをくつがえす力がきている。

 そこで、宇宙の法則に関する権威を与えられた人々の心が、恐るべき終末という考えに煽(あお)られるか、霊的覚醒の展開を予兆する事柄に煽られるかは、国々の情勢の中に今起きつつあることが母なる地球の表面の状態と関係していることに気づいた、この人に代表される人達の活動にかかっているのである。

 預言されていることについて、また地球の変動をくつがえす行動をとってきた、今後もとるべき人々の活動については、多くの質問があるだろう。

 まず最初の前提がある。罪が物質的な形をとった原因が何なのかを知りなさい。そのようなことを起こすのが、神の目的だろうか?それとも、表現を求める力が表現され、積極力と消極力になったのだろうか?

 一方の力を自覚してある方向をとることが消極的な力となり、他が積極的な力となった。地球の物質界の中で展開する魂の経験にも、同じ結果が出てきている。

 人間が経験し自覚する一方のそれら記録の中にも、このような理解が多く暗示されている。つまり、宇宙的、霊的、普遍的な法則が、人間経験の一部となりつつある。これは、岩の中の記録にも示されている。かつてあったこと、今あること、今後起きることを霊的理解の中で解こうとする者たちに「しるし」として残そうとの試みが、ピラミッドに暗示されている。

 その解釈はいろいろあるが、問題なのは解釈する人間の意識である。最初の前提に戻れば、解釈する人がどのような線をとっているのかに、すべてはかかっている。悲観的な解釈か、楽観的な解釈か、積極的か、消極的かということだ。

 消極的という意味は、地球と宇宙におけるその位置に関係して、魂がそこにどう働きかけるかを考慮せず、神の御言葉、約束、働きをほとんど考慮せずに、世界がただ呪われているとする見方である。主は、求道者を建設的な力に目覚めさせるものを、地上に現わされた。

 同じことは、主の人間に対する道、お約束を求める者たちへの導き、しるしとして与えられている聖書の預言にもいえる。個人の生涯と活動の中で、立てられたり与えられたりした誓いや約束についての解釈が、考慮されなければならない。

 宇宙空間を通る地球の運行が、いわば、預言された「時」と一つになる今の時代に起きることを、それは示しているのである。

 こうして、魂は、創造主を探し求めてゆく中で、道であり、真理であり、光である主の中に、忍耐が、かつても今も、今後も現れ続けることを知る。

 再び言えば、しるしや兆しの解釈は個人的な経験となる。そして、この人のように、魂の誰もが、同胞との関係の中でこうした活動を生きる機会を、特権を与えられている。示されているものを満たし、成就し、解釈するにあたって、恐怖ではなく希望を、憎しみではなく平和を、破壊ではなく建設的なものを、人々の人生と心と胸に導入する方法をとりなさい。(1602-5)”

 

      (レイモンド・ウィレット「世界の運命、未来への警告」中央アート出版社)