“第二次大本事件の公判審理中、裁判長と王仁三郎との間に興味ある問答が交わされている。「霊界物語は神示か」の裁判長の質問に、王仁三郎が「いえ、あれは私の創作です」と答えたのだ。弁護団は愕然となった。予審での数々の証言によれば、本人が眠っていても、口が自然に動いて口述されたという。つまり、責任は王仁三郎にはなく、彼にかかった憑霊にあるという弁護団の主張が、創作といったのでは根底から崩れてしまう。弁護団は再尋問を要求した。
改めて裁判長は問う。
「弁護人はあのように言うが、本当はどうかね」
「はあ、神示の創作です」
「神示と言ったら、人間王仁三郎が機関にはなっても、人間の意志は少しも混入せぬはずだ。創作と言ったら、人間王仁三郎の意志はあっても、神意とは無関係のものだ。左様なあい矛盾する観念を混同した答弁は出来ぬはずだ」
「それでも神示の創作です」
「神示と創作は相容れぬ観念じゃないか」
「私の方は矛盾しません」
「誰が考えても、論理上矛盾するものは矛盾する。お前だけ矛盾せぬと言う論理はない。無茶は言わぬようにせよ」
「いや、何と言われても神示の創作です」
裁判所で自己の信念を主張するのは良いが、論理に合わぬことを言い張るぐらい損なことはない。場合によれば、公判の供述全部を「措信(そしん)しがたし」として排斥される恐れがある。小山弁護士が拘置所に王仁三郎を尋ね、再確認した。
「神示の創作は、誰が聞いても矛盾して会わぬ観念じゃございませんか」
「いや、合う」
「それでは、どんなに合いますか」
「それはお前の方で勉強してくれ。わしが言うたんでは何もならぬ」
「常識で考えて合わぬ観念を、いくら勉強しても合いそうなはずはありません」
「大丈夫だ、分かる」
小山弁護士は呆れて押し尋ねる勇気も失せ、そのまま帰宅した。
その後、誰が送ったか、机の上に教団機関紙「神の国」が置いてあった。開いてみると、出口直(なお)開祖の事跡が掲載されている。
開祖は無学で、筆先は自動書記で書かれるが、はじめは自分でも読めなかった。ある時、「この頃は自分の考えていることが筆先に出る。自分は艮(うしとら)の金神(こんじん)の御用をしていたと信じていたのに、これでは出口直の考えが混じっていることになる。これでは大神さまに申しわけない」と思い、腹の中の艮の金神に聞く。
「直よ、それで良いぞよ。その方の考えることはとりもなおさずこの方の考える所で、その方とこの方との考えに一部の隙もなくなっている」
王仁三郎は公判で「わしは早くから帰神状態で、神人合一になっている」と述べていた。神人合一なら神示の創作の観念も成り立つ。まさに理外の理である。弁護団は勇躍して、以後、その方向で弁論を押し進め、第二審で治安維持法違反無罪をかちとった。
「霊界物語」は神人合体による、無限の権威ある創作なのである。”
(出口和明「スサノオと出口王仁三郎」八幡書店)
神人合一境に立てる吾をして 神憑(かむがかり)状態とあやまる人々よ
神にして人なり人にして 吾はまた神なりと自覚せるなり
神々がうつりて霊界物語 述ぶるとおもふ人心あはれ
(「神の国」昭和九年一月号「言華」)