言霊で宣り直す (獄中の二代さま) | 瑞霊に倣いて

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  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “……二代さまは発想力の豊かな方ですから、ご自分でいろいろと工夫して、牢の中をも楽しくなさるのです。どういうことかと申しますと、雛祭りが近づいてきた時のことです。刑務所では、一日に十分か十五分くらい運動のため、外に出してくれます。そうすると、今日は雛祭りである、ということで、運動に出たついでに、そこら辺の草を拾ってきて、コップかなんかに入れるんです。そしてその草を、桃の花に見立て、布団を重ねて厚い座布団の代用をし、ご自分が内裏雛になってその上にお座りになり、『雛祭り』気分を味わわれるのです。

 それと宣伝歌に『ただ何事も人の世は 直日に見直せ聞き直せ 身の過ちは宣り直せ』とありますが、どんな悪いことでも、汚いものでも宣り直すと、それが妙にきれいに思えるのです。独房の中は、せいぜい一畳か二畳ほどの広さの中に布団やおまるなどが一緒にありますから、本当をいえば、むさ苦しいものです。

 ところが二代さまは、それをちゃんと歌で宣り直されています。

 

  『わ(お)うごんの みづはわきいで きんのたま わがまくらべに うんははなれじ』

 

 黄金の水(おしっこ)は湧き出で、金の玉は金の棒です。うんこのことやろうな、わが枕辺に運は尽きせじ、運はいつも枕辺にある、運はつきないんだという意味です。

 普通でしたら、小便やうんこのそばで暮らさせられると、「むさいこっちゃ、むさいこっちゃ」と顔をしかめて嘆かねばなりません。ところが二代さまは、それをパッと宣り直しますと、そのむさ苦しい状況が、なんとなくめでたいような状況に変わるのです。そういうふうにして、ご自身で牢の中をも本当に楽しい世界に変えてゆかれたわけです。”

 

(「おほもと」昭和58年2月号 伊藤栄蔵『節分と二代さま』より)

 

   

・獄中の出口王仁三郎聖師 (二代さまの証言)

 

 “(第二次大本事件中)刑務所の中で聖師さんは、退屈で退屈でなんにも遊ぶ道具もなし、ふっと見るとチンポがあったのでそれを玩具(おもちゃ)にしていた、と言っていましたが、先生はあんな人やから面白い話がたんとあります。息苦しく行き詰まった世の中だというが、何にもなけりゃチンポでも玩具になるのやから、物は考えようやな。聖師さんは三ツ児と同じで、体裁が悪いとか、こんなことをすると人が馬鹿にしないやろうかとか、そんな事など全然考えない人でした。キンタマの袋を両手でひろげて、金扇だといって人前であおいでみたり、虫やな。子供でもやたらにチンポをいじって遊んでいるときがあるが、あれと同じことです。これも刑務所の中での話やが、お尻をまくってチンポやキンタマをブランブラン振って、電燈の光で壁にその影を映して遊んでいたそうです。それが面白うて面白うて、キャアキャア言うて喜んでいたと言ってました。看守が咎めると、「俺が勝手に楽しんで喜んでいるのに、やかましゅう吐(ぬ)かすな」と大声でどなったので、皆が「どうした、どうした」と言って出てきたそうです。部長もきて、「どうしました?」と聞くと、先生は、「こ奴は俺のすることを直ぐグズグズ吐かしやがる。俺の気に入らんことばかり言うから大嫌いや」と言うと、部長は、「分かっとります、分かっとります」と言って翌日その看守を替えてしまったそうですが、とにかくそのキンタマふりの遊びが一番楽しかったと言っていました。”

 

(「神の国」昭和25年9月号「鎖夏放言」)

 

    

・俳句について

 

 “……従来からの俳句を随意句と呼ばれました。何故か聖師さまは俳句は嫌いだと、名称を改められました。「俳句の俳の字は人に非ずと書くではないか。俳句をよむような奴は嫌いじゃ」とおっしゃり、明光では自由な表現で誰でも作れるふうになさいました。

 選者になっておられました日出麿先生は、この随意句を好んでお読みになられました。

 聖師さまはこの随意句を「瑞句」と宣り直されまして、毎月の明光誌にご発表になりました。 

 その後、聖師様の「茶道と俳道」を拝読いたしますと、俳道即敷島の和歌の道という風に悟らせて頂きまして、聖師さまは「俳道」をお嫌い遊ばしたのではなく、従来俳句をよんだ人たちは、仏教的に現世を汚穢の世と観じ、無常観に生きた余り、隠遁生活をつづけた、世捨て人のような生活ぶりが多かったからだと思いました。この思想は「汚穢塵身を捨てず、この世を天国化す」大本神のご精神に反し、人心の退廃を招く所以であると、明光文芸から避けられた俳句であったと拝察致します。”

 

(「おおもと」昭和51年5月号 津田良則『神業と芸術と先人たち』より)

 

*金運を高めるにはトイレ掃除がよい、という話を聞いたことがありますが、トイレと金運は確かに関係があるようです。二代さまは別に金運を求めて歌を詠まれたわけではありませんが、やはり言霊を発すると、さらに効果的だと思います。

 

*昔の「おほもと」誌で、出口聖師は、ひたすら社会を批判するばかりの「プロレタリア短歌」を嫌悪しておられた、と書いてあるのを読んだことがありますが、同じように当時は「プロレタリア俳句」なるものもありました。そのような階級闘争史観にもとづいた俳句は、社会の分断を煽り、資本家階級を怨み、さらに個人の人間性をも否定するものであって、出口聖師が否定された「人に非ず」の俳句とはこのようなものではなかったかと思います。出口聖師は、天国には罵詈や怨恨などの情動はなく、罵詈讒謗をいう人間は、霊界から見るともはや人間の姿をしていない、とも言われています(参考:「宣伝使に対する聖師の教示並びに問答」)。俳句であれ短歌であれ、憎しみを煽ったり気を滅入らせたりするようなものはケガレでしかありませんし、言霊が現実の世界に作用することを考えると、それらは明らかに有害なものです。現在はおかしな市民団体などの「シュピレヒコール」が該当するように思いますが、内に建設的なものが何もないネガティブな想念のもとに発せられた攻撃的な言霊は、周囲に目に見えない汚物を撒き散らしています。

 

*「易経」では、もろもろの事象は絶えず変化し続けると説かれており、現在がどの卦に該当しようとも、次の瞬間には六つののどれかが変化して別の卦に転換し、それが絶え間なく繰り返されます。そして、そこには必ず事態が好転する爻の変化が存在します。たとえ絶望的な状況でも、救いが全くないということはありません。以前、黒住教の黒住宗忠教祖神が、ハンセン氏病患者に「ありがたい」を一日一万遍称えさせて治したという話を紹介させて頂きましたが、神意に沿う生き方を心掛けていれば、言霊によって「宣り直す」ことで、事態を好転させることが可能なはずです。

 

*出口王仁三郎聖師は、霊的国防のため、日本の国土を天柱に結びつける御神業として、四十八カ所の国祖御因縁の地に、いろは四十八文字の言霊の「歌碑」を建てられました。「言霊」には、我々が想像する以上の途轍もない力があるのだと思います。

 

 

 

   物語読むたび毎に根の国も 高天原の心地するなり

                     (「霊界物語」第四十九巻余白歌)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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