「火災除け」の歌 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “私は、二人の娘が結婚や仕事で県外に住み、主人が平成十年十二月に昇天してから一人暮らしをしております。

 平成十二年一月十八日の午前三時ごろ、ふと目が覚めました。目がさえて十分ほど床の中におりましたが、トイレにでも行けば眠れるかもしれないと思い部屋の戸を開けました。すると、目の前に煙が帯状になって流れているのです。煙は、二階から降りてきていました。私はびっくりして二階へ駆け登りました。

 見ると、火はご神前の真上の天井板をはい、六~七十センチ四方まで波を打って燃え広がっていました。

 『火事だ!火を消さないと』と思い、私は急いで一階へ降りました。台所のバケツを持ってお風呂の水をくみ、再び二階へ駆け上がり、火に向かって水をかけました。しかし、それが火に届きません。もう一度風呂場へ走り、二度目の水をかけましたが、私の力ではどうしても届かないのです。

 そこで、消防署に電話するために電話の子機を手に戸外へ出ました。外灯の下でダイヤルしましたが、あいにく充電が切れていたため通じません。そこで、隣家のチャイムを押して「助けて、助けて下さい!」と叫んで回りました。しかし、夜中でしたのですぐにはだれも出てきてくれません。

 私は自宅に戻り、二階の廊下の窓を開けて、二、三回大きな声で助けを求めました。一階に降りると、隣家のご主人が「どうした!」と飛び込んできてくださいました。私は火事のことを告げバケツを渡し、消火をお願いしました。その方は風呂場から水をくんで二階に上がり、火に向かって水を掛けてくださいましたが、やはり「水が届かない」と言って一階に降りてこられました。そのうちに人が集まり、「電話を!」「消火器を!」と走り回って下さいました。しばらくして消防車が到着、放水して無事消火となりました。

 出火の原因は、夕拝時にお灯明を付けるために擦ったマッチだったことが分かりました。そのマッチの火はちゃんと消したのですが、空き缶にたまっていた使用後のマッチの軸が消し炭のようになっていたため、消したマッチの軸に残ったかすかな熱が伝わって燃えだしたのでした。空き缶の中で燃えた火は、畳を十五センチほどの半円に焦がし、その日が内壁と外壁の筋交いの板を八~九時間かけて天井へと上がったのでした。

 私が気付いたのは、その日が天井に燃え移った時点でした。後で聞いたところによりますと、「火が天井に燃え移った場合、三~八分で一軒が燃えてしまうほどの大きな火になる」とのことで、私は背筋がゾーッと寒くなるのを覚えると同時に、大変不思議に思いました。それは、火の発見から消防車が到着するまで、三十分近くかかっていたはずだからです。それにもかかわらず今回の被害は、八畳間の天井の四分の一ほどが黒く燃えただけでした。

 また、放水も燃えている天井にのみ掛けたらしく、隣家に水が及ぶことなく、また、ご神前の横に置いてあった霊界物語や押し入れの中の布団などさえも、一切水の被害を受けずに済みました。

 現場を見た人からも、「不思議な火ですね」「これだけで済んで良かったね」と言葉を掛けてくださいました。私は心の中で、大難を小難にとの大神様の大いなるご守護を頂いたと思いました。また、亡くなった主人がいつもそばで私の力になってくれているのだとも思いました。

 それから十日が過ぎたころ、出火したご神前の隣の部屋と台所に、『聖師さまのお歌』と書いて、

 

『この家は氷の柱雪の桁(けた) 雨の垂木(たるき)に露の葺(ふ)きくさ』

 

 というお歌を張っていたことに気付きました。

 このお歌は、阪神・淡路大震災の折の大火を見て、同じ分所の同信の方から、「火からお守り下さる聖師さまのお歌がある」とお聞きし、当時、寝室にしていた部屋と台所に張っておいたものでした。

私はこのとき、『神さまが、このお歌のとおりにわが家をお守り下さったのだ』ということを、あらためて気付かせていただきました。そして、出火当時は神さまにおすがりすることを忘れ、ただただ走り回って人のみを頼っていた自分の信仰の浅さを省みました。

 一時は、大難を小難に助けていただいたことのありがたさに気付いておりながらも、『信仰しているのに、どうして』と、自分勝手なことを思ったこともありました。しかし、私のような者でも神さまはご守護くださり、夜中にもかかわらずふと目覚めたことや、消防の放水にまでもこまやかなご配慮を頂いたことなど、どれ一つとってもありがたく、もったいないご守護と喜びと感謝の涙が止まりませんでした。

また、一人で暮らす不安には、多くの方々からの親切や優しいお言葉、励ましのお言葉を頂き、人の温かさに気付かせていただきました。

 ただ火事の後しばらく、火の恐さから夜も眠れない日が続いておりました。そんな時、亀岡の本部からお見舞いを頂戴しました。私は、ご心配いただきましたことを大変申し訳なく思い、教主さまにおわびと御礼の手紙を書かせていただきました。

 すると、思いもかけず教主さまから直々のお手紙を頂戴しました。お手紙には、『恐いと思うときは、ご神前でのお祈りやご神書の拝読、また、ご神書を枕元に置いて眠るとよいと思います』という旨のお言葉や励ましのお言葉を頂戴しました。

 私は、不安な気持ちを察してくださる教主さまの優しいお心に、ただただ感謝ともったいなさでいっぱいになりました。その日から教主さまにお教えいただいたとおりに、ご神書を枕元に置いて眠ることで心が落ち着き、不安も取り除かれていきました。

 私はそれまで「祝詞」も「讃美歌」も何気なく奏上しておりました。しかし、今回のことで朝夕のお祈りが私自身にも、家にも、そして宇宙にも生きた言霊として影響していることを教えていただきました。

 「何事もみな打ち捨てて世柱の

       まことの神につかへまつらむ」

 これは私の心境を教主さまにお礼申し上げた時の歌です。

 大本という本当に素晴らしい神さま、素晴らしい教え、素晴らしい信仰に巡り合い、拝ませていただける今の自分の幸せを喜び、感謝の日々を送らせていただいております。”

 

(「おほもと」平成13年4月号 前川由紀子『出火から学んだ大切なこと』)

 

*この火災除けの歌は、ただ紙に書いて壁に貼るのではなく、貼るときにちゃんと声に出して言霊を響かせる必要があります。そして、この歌を貼ったからといって、火の始末をいい加減にしてもかまわないということではありません。自分は怠けておいて、神様に火の番をさせるというのは甚だご無礼になります。

 

*私の知り合いで、しばらく信仰から離れておりましたが、家が火事に遭って全焼し、焼け跡から見つかった「霊界物語」がほぼ無傷で、しかも水にも濡れておらず、それを見て神様が存在することを思い知らされ、再び「霊界物語」を読むようになったという者がおります。家は保険金で新しく建て直すことができ、金銭的な損害もほとんどなかったということでした。

 

・言霊と和歌の徳   

 

 「三千世界の立直しをして、元の昔に返すぞよ」ということが筆先にあるが、元の昔とは、神代にするということである。神代にするということは、第一に言霊を純粋に、正しくするということである。世が乱れて来たもとのいっさいは、みな言霊の乱れ、にごりからである。

 ヨハネ伝、第一章に「初めに道(ことば)あり、コトバは神とともにあり、コトバは即ち神なり、万物これによりて造らる。造られたるものに一としてこれによらで造られしはなし」とあるように、いっさいの大本は言霊である。

 神代には、言霊は今のように混濁していなかった。日本の言霊がこんなに乱れてきたのは、漢字が渡来してからである。

 神代には、すべて物事いっさいが、簡単に言い表されていた。後世では、意志を伝えるに手紙などを用いるようになったが、神代では、いっさいが三十一文字の歌によった。和歌によっていっさいの意志表示が出来ていたのである。

 それがだんだんと、漢字、漢音が使われるようにしたがって、日本の純粋の言葉が失われるようになった。それとともに、ますます世が乱れてきたのである。それが今日にまでおよんで、日本の言葉をいっそう混乱させてしまった。

 君にあらざるものを君と称し、僕にあらざるものを僕と呼び、上下の区別も混同し、麗艶巧妙な言葉を盛んに使って、自分の意志にあらざることでも、言葉をもっていつわり、人は神の子神の宮、神を敬するごとく人を敬し、人を敬するごとく自己を敬すべきものなるを、相手方を呼ぶに、賢父、賢妻、賢息といい、自分の方を、愚父、愚妻、愚息といい、ついには自分の子供を豚児というような言葉が生まれるようになったのである。

 そこで、それらを改めて、正しい言葉を使うように変えなくてはほんとうの「正しい世の中」にはならないのである。

 まず言葉を正さなければ、ミロクの世は来ないのである。言葉を純粋に、正しくするために、世を立直すためには、いずれも、和歌を詠むようにならなければならない。

 大神様にお願い事をするにしても、和歌を詠んでお願いするようにしなければならない。

 和歌というものは、和歌の徳によって天地神人を感動せしめ、鬼神をも哭かしむることが出来るのである。昔から例えば、源実朝が和歌を詠んで雨を霽(は)らしたこと、小野小町が歌によって雨を降らせたこと、また俳人宝井其角が「夕立や田をみめくりの神ならば」の一句によって雨を降らせた、ということも伝えられている。それに対して蜀山人が、「歌よみは下手こそよけれ天地(あめつち)の動き出してはたまるものかは」といっているように、一首の歌でさえ、天地を動かしめることが出来るものでる。

 大本の神業が今後発展してくれば、和歌により、神と人との交流交通を計り、そのみ心を和めなければならないのである。始めから和歌を作れといっても無理な人々には、大衆の親しみやすい冠句、沓句をやらせて、そのうちに和歌の境地に入ることが出来るように指導せねばならぬ。またそこまで進めなければならないのである。

 明光社は、そういう主旨によって生まれてき、作られたのであった。

 また、近頃、「作歌」ということをよくいうが、和歌は作るべきものではなく、詠むべきものである。ほんとうに自分の心に感じたこと、また目を通して心に映って来るままのことを、そのまま三十一文字の中に詠ましてもらうのである。

 考えて作った歌に生きた歌は少ない。神人を感動せしめるような歌は、なんの技巧も加えない、腹の底からあふれ出るものでなければならない。

 これからの大本の人は、皆和歌を詠めるように精進しなければならぬ。和歌はすべて、善言美詞(みやび)の言霊によって森羅万象を美化し、人間社会ことごとくを美化せしむる。その徳を養わねばならぬ。

 

(「おほもと」昭和53年9月号 出口王仁三郎『言霊と和歌の徳』)

 

*神社の「おみくじ」ついて、多くの方は単に大吉だの小吉だのと、そればかりを気にされますが、一番重要なのは、そこに書かれている「和歌」であると聞いたことがあります。

 

・出口聖師の作品 (火防ぎの短冊)

 

 “山口県の秋本清氏は数年前の愛善苑誌上で読んだ出口王仁三郎談話が、妙に頭にこびりついて忘れられなかった。それは斯ういう話である。

 

 「火が燃えて来たら、わしの書いた短冊なり色紙なりを二三枚火の前へパラパラとまいてやるのだ。そうすると短冊なり色紙なりに火が燃え移ってそれを焼くだろうが、それと共に火はパッタリと消えてしまう。また、水に追われて、モウ助からんと云う時には、水に一枚くれてやるのだ。そしたら必ず助かる。お筆先の中に、いまの人民はめぐりがひどいから、何もなしに助けるわけにゆかんから云々、と出ているだろう。あのお筆先にもとづいて、まさかの場合にお前たちを助けるために、短冊や色紙をやってあるのだ」

 

 まるで夢みたいな話である。秋本氏も半信半疑で、ふしぎに思ったので、いつまでも此の言葉が頭にひっかかっていたものだろう。

 ところが、昨年四月末の真昼間、自宅の裏の路傍に積んである麦棹や稲葉がとつぜん燃え出し、北風に煽られて二間ほど隔たる自宅の牛小屋へ燃え移りそうになった。燃え移れば二頭の牛が丸焼けになる。近所中で「火事だあ、火事だぞ」とののしる声が煙の渦ともつれ合い、牛も小屋の中で暴れ出した。その時、秋本氏の頭にひらめいたのは、例の出口王仁三郎談である。あいにくで出口翁の短冊も色紙も持ち合わせはなかったが、二代教主すみ子刀自からもらった短冊と扇子のあったことを思い出し、牛はあとまわしにして、それを取り出し、いまや炎々と燃え盛って南へなびく火の中へ投げ込んだ。

 一分経つか経たぬうちに風の方向が変わり、牛小屋の軒を舐めかかっていた火先が、急に空に向かって逆立ちした。よく見ると風の向きが変わったのではなく、ハタと風が死んだのである。火勢は頓に衰え、村の消防が駆け付けた時は、ほとんど自滅していた。

 火中からうやうやしく拾い出した短冊は、真ん中が少々焦げたばかり。扇子の方は焦げも焼けもせずなんともなっていなかった。秋本氏はここにはじめて、先年夢うつつに聞いて頭にひっかかっていた出口翁の言葉の裏書を見出し、かつまた、火事場に集った村の衆も、消防手たちも、火に焼けぬ扇子、風の向きを変える短冊の霊験を眼前に見せられて、自然と頭が下がった。”

 

(「神の國」昭和29年6月号 『火防ぎの短冊』より)

 

*この出口聖師の短冊や色紙は、たとえ複製であっても同じ力があると聞いております。

 

 

 

 

 


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