言霊が日本語となった(「霊主体従」の言語) | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

・言霊が日本語となった  (「霊主体従」の言語)

 

 “……現代の日本人は「ことば」と言い「ことたま」とは言わないのに、往古の日本人(大和民族)は何故「言霊」と言ったのであろうか、と考えてみますと、太古の大和民族は、何事にも本末を明確にするという素質を持っていたらしい、と言う面白い事実が発見されます。

 例えば、愛というより幸魂(さちみたま)、智というより奇魂(くしみたま)、勇というより荒魂(あらみたま)と呼んでいたように、愛、智、勇はいずれも本体である霊魂の作用(はたらき)であって、幸魂、奇魂、荒魂は、それぞれ、愛、智、勇の本体である霊魂を直指しています。そして、幸、奇、勇の三魂は、活動する場合の霊魂でありますが、活動する以前の本体として和魂(にぎみたま)(作用は親)という鎮魂状態の霊魂を認めているわけです。

 また、本を読む、字を書くと言うように、名詞(体語)がさきで動詞(用語)がその後につづくというのが、日本の言辞の配列順序ですが、このような言辞の配列は、世界中でほかに見当たらないようです。中国語でも英語でも「読書」「書字」「リード・ブック」と配列され、動詞(用語)のほうがさきに出ています。

 このように、日本古来の風習は、本末を明確にする、換言すれば順序を守ることを重んじる国民性であったようです。「ことば」と言えば「言の葉」であり「心の端」であって心の本体ではないわけで、言葉の本体は霊魂であるという見方から「言霊」ということばが生まれているように思います。

 本来「ことば」と「こころ」とは同一であるはずで、一体の表裏であるべきが真実でありますが、現代の多くの人々は、とが一致していません。「私は嘘は申しません」という嘘を、平気で言う世の中になっています。

 大本神示に「神の申したことは、一分一厘ちがわんぞよ。毛すじの横はばほどもまちがいはないぞよ。これが違うたら、神はこの世におらんぞよ」とありますように、神さまは‘言行一致’であって、これは「言葉」ではなく「言霊」というのが真実だと思います。霊界物語「天祥地瑞」午の巻「総説」には、次のように示されています。

 

 『言霊(ことたま)とは言葉の霊(たましひ)なり。霊とは心の枢府なり。すなはち、わが(小我)心の枢府はやがて天之御中主(大我)の心の枢府なり。この心の枢府を言葉の上より観たるもの、すなはち、わが言霊にして、この言霊はやがて天之御中主の言霊なり。ゆゑにこの言霊を知る時は、あらゆる一切の言語声音を知り、一切声音言語を知る時は、天之御中主全体すなはち至大天球(たかあまはら)を知るなり』

 

 また、出口王仁三郎全集第一巻第二篇第六章「皇国の言語と神胤」には、

 

 『言語は、国土の境界を弁別すべき自然のものにして、我皇国(日本)のごとく、言語正しく清く円満にして、言霊に権威をともなふものなし。日本以外の総ての国は、何事にも一切用語をさきにして、体語をあとにす。印度、和蘭(おらんだ)その他の外国、みな然らざるはなし。独り我が日本のみ、体語をさきにして用語をあとにす。「書物を読む」といひ「酒を呑む」といへば「書物」および「酒」は体語にして「読む」または「呑む」は用語なり。

 「読書」または「飲酒」と言へば「読む」および「飲む」と言ふ用語をさきにして、「書」および「酒」の体語をあとにす。体語は本(もと)にして……、用語は末にして……。我日本皇国のみ、かくのごとく正しき言語をもって万事を弁ずることは……、尊き国体なることを、この言語の妙用にてわかちたる自然のものなり』

 

と示されています。これは、深く見直し聞き直さねばならない、深遠微妙なる摂理であると思います。”

 

    (「おほもと」昭和53年10月号 児島案山子『初歩言霊学覚え書(五)』より)