良いヒーラーの条件 〔ローリング・サンダー〕   | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “ローリング・サンダーは病気の話をしてくれた。「病気になるときにゃ、かならずその原因があるさ。何にでも原因はあるからな。それからそれは、他のことの原因にもなるんだ。わしらはこれを知っとるから、人に治療する方がいいかどうか決めるとき、そいつを考えるんだ。何にでも代償ってものがあるさね。何かの代償として払わなきゃならんのが病気ってことだってある。そういうわけでな、わしらは長いときにゃ三日かけて、相手を治療するかどうか考えることがあるんだ。もしもだな、そういうことになっとらんのに病気やら痛みを取るとするとだ、その人間が将来払う代償がずうっと大きくなるかもしれんのだ。表面ではわからんでも、病人の魂はこれを知っとるのさ」

 ローリング・サンダーは続けて言った。「わしはな、生薬やら水やらわしらのまわりにある自然のものやらを全部使って痛みを軽くする手伝いをしたいんだ。あらゆる物は本当に霊的な面を持っとる。だからこそだな、こういうものがわしらを霊的に助けてくれるんだ。わしら呪医は自然の法則を知り、物の霊的な面をわからにゃならん。そうすりゃ、こういうものがわしらを助けてくれるのさ。そういうわけでだ、わしの薬は他のものには真似できんのだよ。わしが治療してやった男が、わしの出した生薬の混ぜものをどこかで分析させて、どんな植物が入っとるのか調べさせたことがあってな。そいつは、これでわしの薬の秘密がわかったと思いおって、同じように生薬を調合しおったんだが、残念ながらそいつは効かなんだ。その男は、ものとしての薬は真似したんだが、霊的な方をどうやっていいかわからなかったんだな。

 見たこともない植物を見つけても、手に取ってみると何に使えるかわかる。わしと通じあって、自分の歌をうたって自分の秘密を教えてくれるんだ。冬にな、一メートル近く雪が積もっとるときでも、決まった青草がほしけりゃ、外に出て適当な場所を掘るんだ。そうするとそこから、葉っぱが青々したその草が見つかるさ。そこには前に何もなかったとしてもだ。だがな、わしらは見せ物でこういうことはできんのだ。本当に必要なときしかできんのだよ」”(P109~P110)

 

 “ローリング・サンダーは、「治療師」の必要条件についてわれわれに話してくれた。

 

 自分の考えを自由にコントロールするやり方を勉強するところから始めるんだ。悪い考えが頭に入ってきたら、そいつの追い出し方を勉強するわけだ。考えというものはだ、場合によってはすごい力を持っているもんだ。折れた骨がくっつくイメージを浮かべるやり方がわかるようになる人間がいるが、こういう連中がそういうふうにして治療できるようになるんだな。こういう連中は人間を美しい健康なものと考えることができるから、病気を治す手伝いをするようになるわけだ。これが「治療師」になる第一歩といえるだろうな。だがな、そういうことが全部できて心が完全にコントロールできるようになっても、自分を守ってくれる存在のことや、「霊界」にそれなりの敬意を払わにゃならんことについてはまだ勉強する必要がある。人間は何度も生まれ変わることを悟らにゃならんのだが、自分の過去世であったことを想い出す場合もある。それから、人の治療をしている最中に「霊界」まで行って来にゃならんときもある。これがいわゆる「幽体離脱」なんだろうが、まちがったやり方でやってはだめだ。危険なことがあるからな。

 まず最初に、こういうことをするのは自分にとってどういう意味を持っておるのか、それをわかっておく必要がある。わしらの世界ではな、それぞれ自分の人生には使命があることをよく知っとるわけだ。何をするために生まれついたのかわからにゃならんわけだ。まず、どこにいると気分がいいか、それからどこにいると自分のまわりの自然や人間にいちばんとけこんだ感じがするか、それを見つけることから始めるんだ。

 わしら呪医はそれぞれ自分の好きなようにしとるんだ。昔は少し焼きもち焼きがいたがね。一部に族長や呪医は、白人どもや宣教師どもや政治屋どもの話を聞いて互いに反目し合った。自分たちをだましたり裏切ったりする連中に踊らされてな。いまはそれほどじゃないと思うがね。

 いま、わしらはどんどん目覚めてきとるし、国中の若い連中の間にもそういう意識が広がってきとる。そういう連中は、かなりが霊的な戦士になってきておるが、戦争をおっぱじめようと思っとるわけじゃあない。霊的な戦士というものはだ、完全な人間になるってことだ。他人を思いやり、真善美の中から霊性を見つけ出すということだ。

 霊的な指導を受けたいと思っとる連中はたいていがだ、自分の得にしかならんものを求めるんだな。そういう連中は、「我利我利」の考え方をやめなきゃならんな。自分の我を超越して貪欲な根性をたたき直さんかぎり、霊的な戦士にはなれんのだよ。”(P119~P121)

 

 “心霊手術師に救いを求めてべつの文化圏から訪れるツアー参加者の多くは、その「魔術」が本物かどうかにきわめて大きな関心を示す。これは超心理学者からすれば、当然の問題であるが、被治療者という立場からすると、こういう態度は治療の妨げになるかもしれない。アラン・ワッツは自著『東西の心理療法』の中でこの問題について次のように述べている。

 

 名医とは、自然良能が働いている間、患者を楽しませておく医者だと言われている。これはいつもとは限らないにしても、一般原則として正しい。自分の体を治療するために何かしてもらっているという感じがあるときには、自然に変化していくのを待つのが比較的容易である。実際に行なわれていることはトリックであり、心身共にリラックスして待つことこそ本当の癒しなのであるが、病気の結果起こる不安のために、何もないところで意識的にリラックスすることは不可能に近いのだ。

 

 また、アンドリュウ・ワイルは、自著『ナチュラル・マインド』の中で、何らかの災難を背負っている者の不安を肩代わりしてくれる意識の変容状態を生起させることが、部族社会の呪医の役割になっていると述べている。不安は、傷口に残る病原菌と同様、治療に対する妨げになると考えられるのである。

 心霊手術師が、心霊的介入の際、実際に患部を摘出する可能性はほとんどありそうにない。この点については、その前後にレントゲン撮影や生検を行なって確認し、検査を担当した医師に署名、公証してもらうことができるであろう。ところが、治療師が被治療者の信念体系を強化させることによって自己治癒を促し、ワッツの言葉を使えば「自然良能が働いている間、患者を楽しませて」おこうとしている可能性の方がもっと高いのである。

 一部の被治療者が抱く、これに付随する疑問は、治療師の健康状態に関連するものである。もし治療師が病気だということになると、「病気の人間が人を治せるふりをどうしてできるのか」という疑問が生ずる。たとえばミルボーン・クリストファーは、超常的な方法を用いて虫歯の治療ができるとされるウィラード・フラー師の自称「心霊歯科」について述べているが、その中で、「ウィラード・フラーが……総入れ歯をしているのがわかったとき、聖なる歯科にすっかり興味を失ってしまった」と書いている。

 ところが、実際のところシャーマンの伝統の中では、他者の治療は「自己治癒」過程の一環とみなされる場合が多いのである。心理学者W・Eヘンリーは、シャーマンは「社会的に特殊化された修行の中で積んだ個人的経験を通じて、癒しを探り当てた者のようである」と述べている。自分の力で解決策を見つけ出したおかげで、自分の苦しみが扱いやすく、かえって役立つものになるのだという。

 シャーマンその他の治療師は、ときどきかなり長い間病気のようになることがあるが、人を治療する方法を学ぶのは、こうした病気からだと言われる。ローリング・サンダーは、自分がかかったことのある病気やそれに近い病気がいちばん治しやすいと語っている。あるとき、ローリング・サンダーの長男が、祈りの儀式の中で、「お父さんが、ぼくたちにわかっているどの病気も全部治せるようになりますように」という願いごとを唱えたところ、それを聞いたローリング・サンダーはぞっとしたという。もしこの願いがかなえられれば、長い間病気で寝込むことになるのを知っていたからである。”(P381~P384)

 

(スタンリー・クリップナー / アルベルト・ヴィロルド「マジカル・ヒーラー」(工作舎)より)

 

(CD「Rolling Thunder」グレイトフルデッドのドラマー、ミッキーハートのアルバム)

*ローリング・サンダー自身による「精霊を呼ぶ雄叫び」から始まります。YouTubeでも視聴できるようです。

 

*病気が自分にとってどのような意味を持っているのか、ローリング・サンダーは、「表面ではわからんでも、病人の魂はこれを知っとるのさ」と語っています。野口整体の「活元運動」は、この無意識下の魂の知識を意識化してくれるものだと思います。

 

*代替医学の信奉者の中には、現代医学を目の敵にしている方もおられるようです。しかし、ここで紹介させて頂いたアメリカ先住民の呪医ローリング・サンダーは、決して西洋医学、現代医学を否定してはおらず、彼自身必要とあらば化学的に合成された薬剤を服用しています。また、私が以前読んだある宗教家の書いた本で、病人に対して、神様に治してもらうのか医者に治してもらうのか選べと迫り、医師が処方した薬を全部捨てさせたという話を読んだことがあります。ですが、たとえばパラマハンサ・ヨガナンダの高弟であったスリ・ダヤ・マタは、「もし頭痛がしたら、その事実を認め、手に入れられる、理に適った療法を行う事はまちがっていません。」と言われています。神への全託と医療とは決して矛盾するものではありません。エドガー・ケイシーも、「もし、私の内なる神が、私のすべての必要を満たしてくれるのであれば、なぜ私は整骨療法を受けなければならないのですか?」との問いに、「確かにそうだが、物質的な身体には物質的な世話が必要なのだ」と答えています。さらに、出口王仁三郎聖師の歌に、「病悩(いたづき)の身を天地(あめつち)にいのるとも ゆめ現世(うつしよ)の医師をわすれな」というのもあります。医薬の祖は少彦名大神であり、医学もまた、神からもたらされたものです。神への全託を主張し、医師による治療を拒むとしたら、それは狂信でしかありません。

 

*あと文中に、「シャーマンの伝統の中では、他者の治療は「自己治癒」過程の一環とみなされる」とありますが、エドガー・ケイシーも同じようなことを言っています。

 

問い:「自分自身の人生で癒しを達成できなかった人が、そもそも他人を癒すことを試みても良いものでしょうか。」

答え:「人を癒すことは、すなわち自分を癒すことである。精神的態度によって肉体の内に完全なる生命波動を生み出せるよう人を導くなら、それがあなた自身にもより良い理解をもたらすものとなるからである。しかり、他人を癒すことは、自分を癒すことである。(281-18)」

 

(日本エドガー・ケイシー・センター発行「癒しの法則」より)

 

 

*奈良県吉野の金峯山寺で祀られている金剛蔵王大権現の化身、脳天大神は、脳の病気、首から上のいかなる病気をも治してくださる神様として絶大な霊験があるとされています。この脳天大神は、最初「頭を割られた蛇の死体」という奇怪な姿で出現されたのですが、確かに、頭を割られて一回死んだにもかかわらず再び生き返れるほどの凄まじい霊力を持っておられる神様であれば、どんな脳の病気でも治せるのは当然かも知れません。

 

 

 

 

 

 

 

 


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