「万物は真神の霊・力・体の顕現なり」 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

「すべての被造物のうちに神を見ることができれば、地球環境の破壊は直ちに止むだろう」

 

〔大本三大学則〕

一、 天地の真象を観察して、真神の体を思考すべし

一、 万有の運化の事差なきを視て、真神のカを思考すべし

一、 活物の心性を覚悟して、真神の霊魂を思考すベし

 

天地(あめつち)の中にありとしあるものは元津(もとつ)御神(みかみ)の姿なりけり

           (「神の国」昭和10年9月号)

 

・ウパニシャッド    〔スワミ・ヴィヴェーカーナンダ〕

 

 “ウパニシャッドのもっとも古いものの一つは、「この宇宙に存在するいっさいは主につつまれているはずだ」といっている。

 ヴィヴェーカーナンダはこの言葉をこのように説明している。

 「われわれはいっさいを神によってつつむべきである。悪に対してわれわれの眼を閉じさせる偽りの楽天主義においてではなく、いたるところに神を見ることによってである。善の中にも、悪の中にも、罪の中にも、罪人の中にも、生の中にも死の中にも・・・もし諸君が妻を持っているなら、それは決して彼女を見すてなければならぬという意味ではなく、諸君の妻の中に神を見るべきだというのである。彼は彼女の中に、諸君の中に、また子供の中にいるのである……彼はいたるところに現存するのである。」”

 

 (「ロマン・ロラン全集15 『ヴィヴェカーナンダの生涯と普遍的福音』」みすず書房より)

 

 

・フランシスコ教皇の「祈りのまなざし」  

 

 “到着直後にバチカン大使館で行われた司教たちとの会合の席で、教皇は今回の来日のテーマである「すべてのいのちを守るために」について以下のように語った。

 

 「すべてのいのちを守るとは、人びとのいのちを、愛を込めた祈りのまなざし(miranda contemplative,contemplative geze)で見るということ。それらのいのちが、神さまからの贈り物だと気づくということです。」

 

 この言葉は、近年教皇が回勅「ラウダート・シ」などの公文書で繰り返している、「すべての被造物のうちに神を見出す」というテーマを教会司牧の文脈において端的に語ったものであり、今回の訪日全体を読み解く上で重要な鍵となる言葉だとわたしは考えている。この文脈でいえば、「祈りのまなざし」とは、相手のいのちの中に神を見る、イエス・キリストを見るということに他ならない。相手の服装や身分、地位といったものを見て相手を判断するのが世俗のまなざしだとすれば、祈りのまなざしは、目に見えない相手の本質、「神の子」としての本質を見通すまなざしだと言っていいだろう。そのようなまなざしで相手を見るとき、相手のいのちの中にイエス・キリストが生きているのを見るとき、わたしたちは相手のいのちを守らずにいられなくなる。教皇がいう「すべてのいのちを守る」とは、そういうことなのだ。単に「いのちを大切にしよう」ということではなく、被造物である相手のうちに神の現存を見出すがゆえに、相手を何としても守らずにはいられなくなる。そのような信仰を、教皇はわたしたちに求めている。

 「祈りのまなざし」は、わたしたちが直面している、ほとんどすべての問題を解決するための鍵となる。もしわたしたちが、すべての隣人の中にイエスを見るようになれば、欲望に惑わされ、傲慢に相手を傷つけるような言い争いは消え去るだろう。ほぼすべての人間関係の悩みがたちどころに解決し、世界に恒久平和が実現するにちがいない。

 もしわたしたちが自分自身の中にイエスを見るようになれば、わたしたちはあるがままの自分を愛せるようになり、自己否定がもたらす絶望から解放されるだろう。イエスを宿した自分を限りなく尊いいのちとして受容し、自分と和解することができたなら、自分の人生に確かな意味と価値を見出すことができたなら、そのとき救いが実現すると言ってもいい。自分探しを続けている若者は、そのとき本当の自分を見つけ出して感動の涙をこぼすだろう。

 もしわたしたちが、自然界に存在するすべての被造物のうちに神を見るようになれば、地球環境の破壊は直ちに止むだろう。すべての被造物のうちに神を見出し、それらを通して神が語りかけているメッセージに耳を傾けながら行動するようになれば、地上には神の望むままの調和が実現する。神の愛のうちにすべてのいのちが共に生きる、地上の楽園が実現するのだ。それこそ、神がわたしたちに望んでおられることであり、すべての被造物を「支配する」ということの真の意味に他ならない。

 むろん、わたしたちが直ちにそのようなまなざしを持つことはできない。教皇もそのことは分かっているだろう。地上的な欲望や感情、損得勘定によって、わたしたちの目は簡単に曇り、自分の目が曇っていることにさえ気づかなくなることがしばしばあるからだ。だが、すべての問題を解決する鍵は「祈りのまなざし」の中にこそある。そのことを知り、「祈りのまなざし」を取り戻してゆくこと、「祈りのまなざし」を目指して信仰を築き上げてゆくことこそ、神がわたしたちに望んでおられることではないだろうか。……(以下略)”

 

(片柳弘史(イエズス会司祭)「フランシスコ教皇の『祈りのまなざし』」 2019年12月23日、日本聖書協会ニュースサイト「クリスチャンプレス」に掲載)

 

*出口聖師は、神代においては法律なんぞはなく、「三大学則」だけで治まっていた、と言われています。確かに、すべての人、すべての物の中に、神を見ることができれば、戦争はおろか、犯罪も、環境汚染も、あらゆる問題は解決するはずであり、自己の内なる神を認めることができたなら、「不幸な人生」などあり得ません。それが実現できた時が、みろくの世、ティヤール・ド・シャルダンの言うオメガ・ポイントなのだと思います。