みじめで不幸である理由 〔ラマナ・マハリシ〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “ブラフマ・ジュニヤーナ(ブラフマンの智識)は、それを得て人が幸福になるような、得られるべき知識ではない。ブラフマ・ジュニヤーナをあきらめるというのは、無知の外見上のことである。あなたが知りたいと求めている自己は、他ならぬあなた自身なのだから。あなたの装われた無知は、けっしていないわけではない十人目の男が「いない」のを嘆いている、あの愚かな十人の男たちのように、必要もない嘆きをあなたに起こさせている。

 

 寓話の中の十人の愚かな男たちが、川の浅瀬を渡って向こう岸に着いたとき、全員が無事に渡ったかどうか確かめようとした。十人の内の一人が数えはじめたが、他人ばかり数えて自分を数えるのを忘れてしまった。「九人しかいない。こりゃ確かに一人いなくなった。誰がいなくなったのだろう?」彼は言った。「お前、ちゃんと数えたのか?」もう一人が言って、自分でも数えはじめた。しかし彼も九人しか数えられなかった。「おれたちは十人だ」全員で一致した。「しかし、誰がいなくなったのだろう?」彼らは彼ら自身に問うた。どんなに努力してみても、その「いない」男を見つけることができなかった。「誰だか分らないが、溺れちまった」十人の中の最も感傷的な男が言った。「あいつがいなくなっちまった。」そう叫ぶと彼はわっと泣き出し、残りの九人もそれに続いて泣き出した。

 川の土手で泣いている男たちを見て、同情した旅人がその原因を尋ねた。彼らは起こったことを述べて、何度も何度も数えてみたが九人しか見つからないと答えた。その話を聞き、しかし目の前に十人全部を見ている旅人には、どうしてそうなったのかがわかった。

 彼らは実際に十人おり、全員無事に川を渡ったことを教えるために、旅人は言った。「あんたたちみんなが確かに数の中に入っていて、しかも一回だけしか数えられないようにするために、あんたたち一人一人をなぐるからね。そうしたら、なぐられた人は順番に一、二、三、・・・と数を言っておくれ。そうすればきっと『いなくなった』十人目の人が見つかるよ。」男たちは「いなくなった」仲間が見つかりそうなので、大喜びで旅人が提案した方法を承知した。

 親切な旅人が、十人の男たちを順番に一人ずつなぐると、なぐられた男は大声で自分自身を数えた。最後の男の順番が来てなぐられたとき、「十」と言った。彼らはびっくりして、お互いに顔を見合わせ、「十人いるぞ」と声を合わせて言い、旅人に、悲しみを取り去ってくれたことを感謝した。

 

 これは寓話である。どこからその十番目の男が出てきたのか。彼はそもそもいなかったのか。彼がその間ずっとそこにいたことを知って、彼らは新しく何かを学んだだろうか。彼らの嘆きの原因は事実ではなく、十人の内の誰もいなくなってはいなかった。九人しか数えられなかったので、彼らの内の一人がいなくなったと思いこんだのは(それが誰なのかわからなかったのだが)彼ら自身の無知のせいであり、むしろ仮定にすぎないものであった。

 これはまたあなたのことでもある。本当は、あなたがみじめで不幸であるべき理由は何もない。あなたは自分で、本来無限定の存在であるあなたの性質に制限を課してしまっている。そして自分が限定された生き物にすぎないことを泣いている。あなたは、そのありもしない束縛を越えるために、どんな方法でもいいからサーダナ(修行)をしなさい。けれども、あなたのサーダナそのものが束縛性を帯びているなら、束縛を越えることなどできるものではない。

 私がこう言うのだから、あなたは本当は無限定の純粋な存在であり、絶対の自己であると知りなさい。あなたは常にその自己であり、自己以外の何ものでもない。それゆえに、あなたは、本当は決して自己について無知ではありえないのである。あなたの無知は、単なる形式上の無知であり、いなくなった十人目の男についての十人の愚かな男と同じような無知である。嘆きをもたらしたものは、この無知である。

 真実の知識とは、あなたに新しい存在を作り出すのではなくて、ただあなたの「無知な無知」をぬぐい去ることであると知りなさい。至福は、あなたの本性につけ加えられるものではない。それはただあなたの真実で自然の状態として、永遠で不滅の状態として現われる。あなたの嘆きを乗り越える唯一の道は、‘自己を知り自己であること’である。どうしてこれが到達不可能なことだろうか。”

 

       (山尾三省訳「ラマナ・マハリシの教え」めるくまーる社より)